第六章 ヴァイオレンスブルー&サイレントレッド PART11 (完結)
11.
目が覚めると、噴水の音が頭に残っていた。皆の目をかいくぐり、公園に向かうと、黒のパンツスーツ姿の女性がベンチに座っていた。
「こんな所で偶然ですね、お久しぶりです」
「ああ、お久しぶりです」
ショパンコンクールで争ったヤン・ミンが煙草をくわえていた。流暢な日本語に違和感を覚えながらも視線を外すことができない。
「私のこと、覚えていますか?」
「ええ、もちろんです。ショパンコンクールでの演奏、素晴らしかったです。今日は演奏を聴きに来てくれたんですか?」
「……そ、そうです」
ヤンは目を伏せながらいう。
「昨日の便でポーランドから来ました。ジェヴェンツキ先生から預かりものがあります。今、お時間大丈夫ですか? 演奏後でも構いませんが」
演奏後には風花との話し合いがある。空いている席を指差すと、彼女は無言で頷いた。
何の話かなと待っていると、ヤンは特に話しかける訳でもなく肩の力を抜いてくつろいでいた。
「それで、お話は?」
「……ああ、そうでした」
ヤンは空咳を付いた後、手紙を渡してきた。封を切ると、見慣れた文字で綴られていた。ジェヴェンツキの字だった。
「先生は残念ですが、ここには来れません。それで私が代理でここに来ました」
「……そうみたいですね」
手紙を黙読している最中、ヤンは公園の風景を懐かしむように眺めていた。
「ここに来たことがあるんですか?」
「ええ、実は日本に住んでいたことがあるんです」
「そうでしたか。では両親のどちらかが日本人ですか?」
ヤン・ミンは再び苦笑いしている。何か不味いことをいったのだろうか。
「ええ、そうです。父が日本人で、母が台湾人です。故郷は台湾ですが、育ちはほぼ東京でした。訳あって、今は台湾に在住しています」
不意に三次予選を見ていたカップルの話を思い出す。
――彼女は人殺しの娘らしい。だから、あんな『革命』が弾けたんだ。
「観音寺さん、なぜ日本で活動することにしたのですか? あなたが国内から出ないということで私に仕事が回ってきているんです。ですが納得がいきません。納得の行く理由を教えてくれませんか?」
……またこの話題か。
自分のことを知りもしない人物が話題を振るとしたら大抵これしかない。
「日本で活動がしたかったからです。日本で仲のいいメンバーと音楽を通して仕事がしたいというのが一番の理由です」
ヤンは眉を寄せ自分を睨んでいた。未だ納得できないといった表情だ。再び棘のある口調で攻めてきた。
「あなたほどの腕があって、仲良しごっこがしたいから日本に留まるというのですか? あなたは音楽を馬鹿にしている。そしてあなたのお母さん、灯莉さんを馬鹿にしていますよ」
「母さんのことをよく御存じなんですね。何か母さんと関係があるのですか?」
もちろんです、と彼女はいった。
「私にピアノの素晴しさを教えてくれたのは彼女です。彼女がいたから私はピアノを続けられたんです。直接話したことはありませんが」
ヤンが日本に来た理由はただ一つ、灯莉の出生地だからだそうだ。灯莉のピアノが彼女の人生を変えたらしい。
「私は灯莉さんの演奏を見て、彼女のようになりたいと思ってあの舞台に立ちました。一位でなくとも私にとっては希望の星でした。きっと灯莉さんも海外で活躍しようと考えていたと思います。それでも耳を患っているため、活動を休止せざるをえなかった……もしかして、あなたも難聴を患っているのですか?」
「そうだとしてもあなたには関係のないことです。あなたにそんなことをいわれる筋合いはありません」
「……そうですね。失礼しました」
頭を下げた後、ヤンは声のトーンを抑えながら続けた。
「もう一つ、尋ねても? 今日のピアノはストーンウェイだと聞いていますが、大丈夫ですか? 以前の演奏では……」
「それこそあなたには関係ないっ」
きっぱりと彼女を拒絶する。
「どうしてオレにそんなに突っかかるんですか? ショパンコンクールの時もオレのことを目の敵にしていたでしょう? 確かにあなたの尊敬する人物はオレの母かもしれません。しかしあなたとオレには繋がりがない。失礼だとは思わないのですか」
ヤン・ミンはたじろいで言葉を失っていた。
「……やっぱり……覚えていないんですね……」
「何をです?」
「いえ……何でもありません」
ヤンは小さく深呼吸し冷静に言葉を並べ始めた。
「最後に一つだけ……なぜ私が協奏曲『第二番』を選んだのか、わかりますか?」
「わかるわけがない。あなたのことを知らないのだから」
ヤンの顔に表情はなくなっていた。目は伏せており、瞳に先ほどの力は残っていなかった。
「……そうですよね、もうあなたの前には表れません。失礼しました」
彼女は涙を浮かべながら、一礼した後、走り去っていった。
どこかで見た光景だった。心臓の鼓動が急速に高まり、頭の中では夢で見た景色がぼんやりと浮かんでいた。
彼女の泣き顔をオレはどこかで、何度も見ている気がする――。
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