第四章 藍の鼓動と茜の静寂 PART9 (完結)

 8.


 再び目を開けると赤いシーツの上にいた。目の前にはヴァイオリンケースが二つ仲良く並んでいる。


 隣の部屋に駆け込むが、そこには自分の体はない。


 ……これはまた、夢なのか?


 顔を洗い再び鏡を見つめる。やはり火蓮の顔だ。また入れ替わってしまったことは間違いない。


 ……気が狂いそうだ。俺は本当に水樹でいいのか?


 顔だけでなく、なじから頭のてっぺんまで冷や水につける。凍えそうなくらい冷たい。それでも火蓮の顔のままだ。


 ……くそ、どうなってるんだ、一体。


 思いっきり左拳でガラスを殴りつける。ガラスは蜘蛛の巣状に割れ、ぱりぱりと音をたてて崩れていった。その破片にさえ火蓮の顔が無数に映っている。


 ……オレは水樹なんだ。火蓮じゃない、観音寺水樹だ。


 大股でピアノへ向かい、手を置いて指を走らせてみる。全く感覚が働かない。まるでピアノが自分を拒んでいるかのようにだ。


 鍵盤を拳で叩く。音は鳴らず鍵盤も動かない。固い鉄を叩いているように鈍い音が辺りに響くだけだった。何度も何度も両手で叩き付けるが、びくともしない。


 ……なんだ、ただのガラクタか。おもちゃのピアノに用はない。


 近くにあった鉄のハンマーで鍵盤を叩き付ける。鍵盤は跡形もなく吹き飛んだが、何の音も立てなかった。粉々に飛び散った破片が拳に突き刺さるが、痛みは感じない。


 ……一体なんなんだ、この感覚は? また夢なのか? オレは今どこにいるんだ?


 粉々になったピアノを想像し、一つの仮説が浮かび上がる。ピアノが音を鳴らさないのではなく、自分自身がただ弾けなかっただけではないのか。


 ……オレが得意なのはヴァイオリンのはずなのに、どうして弾けもしない楽器について考えていたんだろう。


 部屋にあるヴァイオリンを探す。ヴァイオリンケースは二つありどちらも開いていた。そのうち瑠璃色に染まった箱を手に取った。父親の分だ。


 その箱はとても魅力的で、どんな言葉を使っても表現ができないほど妖艶な光を発していた。


 ……どうして、今までピアノに拘っていたのだろう。


 夢中に弓を動かす。ヴァイオリンが自分の帰りを待っていたかのように音を響かせている。煌びやかな音の中に、かつて自分が弾いていた記憶が舞い戻ってゆく。頭の中に入ってくる感覚が渦を巻いて体に浸透していく。


 ……一体、なんなんだ。この奇妙なまでに馴染む感覚は。


 今すぐにでもヴァイオリンから離れたいが、そんなことはできない。できるはずがない。体が求めているのだ、もっと弓を動かせと。指が擦り切れるほど弦を押さえろと。


 左肩に楽器を挟むと、今まで置いてなかったのが嘘のように馴染んでいた。元々そこにあった体の一部のように吸い付いている。


 ……くそ、くそ、わからない。なぜだ。どうしてオレが――。


 夢中でヴァイオリンを弾いてしまう。息をするのも忘れるくらい音の麻薬に酔いしれてしまう。感覚に身を委ねるだけで痺れていく。


 曲が流れている間は何も考えなくていい。そして一曲終える毎に考えたくない結論に達してしまっている。


 自分が何者であるかということをだ。


 もちろん受け入れることなどできるはずがない、できるはずがない。


 目の前には等身大のガラスが再びあった。ガラスに体を傾けると、そこに映っているのは紛れもなく火蓮の姿だった。


 ……オレは、やっぱりオレの名は……。


 頭の中でネットサーフィンをするかのように次々と曲が浮かんでいく。一度頭の中で楽譜を掴むと、それを弾かずにはいられない。


 楽譜を貪るように弾く。弾く。ただひたすらに弾いていく。風花を求めるのと同じようにヴァイオリンを何度も蹂躙していく。涎を垂らしながらその快楽に浸かっていく。


 体は忘れてなどいなかった。火蓮のいった通り、体は正直だ。オレの体は忘れちゃいない。


 この体の主はオレだと――。


 ビリヤードのブレイクショットのように、今までの謎が全て吹き飛びポケットに落ちていく。一瞬にして場には一つの玉だけになり、そこには一つの事実が映っていた。この体こそが真実だということをだ。


「オレの名は水樹じゃない。オ、レ、の、名は……火蓮……だったんだ」


 気がつくと木が擦れる音がした。ヴァイオリンを見ると弦が4本とも切れておりズタズタに切り裂かれていた。弓の方も同様に擦り切れている。お互いの木片が重なりいびつな音を立てていたのだ。


 ……なんて脆い楽器なんだ。こんなもの必要ないっ!


 擦り切れた弓を放り投げて両手でヴァイオリンの先を掴み地面に叩きつける。気が遠くなるほど叩き付けると、ようやく木が軋む音がした。


 ……風花に合わせていただけだったんだ。


 オレはピアノが好きでピアノ以外の楽器は弾こうとはしなかったこと、本を好み落ち着いた性格だったということ。


 本来だったらそうなのだろう、だがオレは机の上で勉強することは嫌いだし、そこには本などない。そこにあるのは海に行く前にくすねた金があるだけだ。


 指揮を通じて味わった躍動感はどんな本よりも魅力を持っていた。知識を得る以上の快楽を持っていた。オレはそれを知ってしまった。


 だから――。


 魂が本来の体に戻ろうとしたのだ。本当の体がある場所へと――。


「これが本来の姿なのか……」


 目の前にあるピアノがオレを嘲笑していた。ぼろぼろに崩れたままオレを見下している。長年培った友情は全て偽りだったと……。


 オレは意識の崩壊と共に倒れた。人格を形成していたものが頭の中から音を立てて崩れていった――。

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