第三章 藍の静寂と茜の鼓動 PART4
4.
「ラファエル・エキエトル。ストーンウェイ」
会場に入ると、次の演奏者の名前が読まれていた。
呼ばれたのはポーランド人で、前回の審査で上位に食い込んでいた人物だ。確かこの人物の師はショパンコンクールの推薦楽譜を作っていたはず。目を閉じて演奏に入り込む準備を整える。
会場が静かになった後、ラファエルは鍵盤に触れた。ピアノから繊細なメロディが生まれていく。それはやがて会場一体を包み込むほどの甘いベールへと変わっていった。
即興曲 第4番 嬰ハ短調 作品66『幻想即興曲』
彼が奏でるメロディは甘く切なかった。頬を撫でるような甘い誘惑が辺りを覆っていく。再び目を閉じてその世界にまどろんでいく。
彼はショパンと旅をしているのだ、と感じた。ショパンの人生が音を通じて淀みなく溢れてくるからだ。ショパンがどのように生きてきたか、どんな感情を知っているか、人生を通して何を伝えたいかを鍵盤を通して囁いている。
彼の演奏にはまた華やかさがあった。彼はきっと裕福な家庭で育ったに違いない。ショパンと同じように本当に旅をしたのだろうと納得させる何かが曲に表れていた。
コンクールに参加しているピアニスト達は金持ちばかりではない。様々な過程を経てこの舞台に立っているのだ。人生の苦しみを唄う者もいれば、喜びを唄う者もいる。それはピアノを通せば素直に表れてしまう、本人の自覚なしにだ。
ラフェエルの演奏が終わると、辺りを覆っていた甘い煙はなくなっていた。彼の演奏は素晴しかったが、本当にコンクール向きの演奏でショパンの楽譜を忠実に再現しただけだった。きっとお国柄の事情があり点数重視で望んだのだろう。もっと彼の感情が知りたかったなと残念に思った。
次に出て来た人物は中国人の女性だった。すらっとした赤いドレスを身に纏い凛とした表情でピアノに向かっている。
……ついに彼女の番か。
気を引き締めて彼女を見つめた。
ヤン・ミンは水樹の恩師でもあるジェベンツキの弟子でありライバルだ。個人レッスンのため直接的な面識はなかったが、彼女のピアノは有名で今回の最有力候補といわれている。
「ヤン・ミン。ストーンウェイ」
彼女は挨拶を終えると、深呼吸もせず、すっと鍵盤に手を置いた。彼女がメロディを刻むと、途端に会場が熱気の渦を帯びていく。激しい旋律が音だけでなく深い爪痕を残すように刻まれていく。
エチュード(練習曲)ハ短調作品10ー12『革命』
心の中に乾いた風が入り込んでゆく。その風はとても冷たく自分の背中を凍らせ空虚な気持ちにさせる。
先ほどの甘い誘惑など断ち切るかのような強い、拒絶感。
ショパンの苦しみを感じさせる音が演奏にいくつもちりばめられている。
……これはショパンの声ではない。彼女の声だろうか?
明らかに楽譜以上の速さのテンポで演奏されていく。強弱の幅が一回り大きく圧迫感を覚える。
ヤンのピアノには奮闘する戦士の叫びは聴こえない。ただ一方的に惨殺されていくような絶望だけが
左手で奏でられる低音の連続されたメロディが故郷の無残な姿をさらけ出す。右手の高音が無残に死んでいった叫び声のように鳴り響く。
……これはやっぱり、彼女の―――。
目を閉じて音に集中する。彼女が作り出した風に禍々しい狂気が絡み始める。その風はどんよりとした暗いオーラを放っており一つ受ける度に心が枯れ果てていく。
……ピアノはこれほどまでに果てのない狂気を演じることができるのか。
ピアノが今までに見たことがない程、歪んだ生き物のように変わっていく。狂気を帯びた彼女達は一体となって、このフロアを熱風で包んでいく。
咄嗟に何度も口を手で覆いながら、息をする。そうでもしなければ呼吸困難に陥りそうだ。心臓が握りつぶされるように狂気に身を震わせていく。
ヤン・ミンを夢中で見つめる。体全体でこの曲を再現している彼女の瞳から深い闇が零れていく。
自分は今、生きている。
だからこの場でピアノが弾けるのだ。
私の思いを聴けっ!
気がつくと、熱く乾いた風は消えており、轟音にも近い拍手がホールを震撼させていた。その時間差に自分が飲まれていたと認めるしかなかった。
火蓮を見ると、息を呑むのも忘れていたようで演奏が終わった途端、唾を飲み込んでいた。
「水樹、凄いな。母さんのより、狂気を感じたよ……」
火蓮は目を大きく開けたままいった。
「弾き手によってこんなにイメージが変わるなんて恐ろしいな。戦場を駆け抜けるような恐怖感を味わった」
「うん、本当に力強いピアノだった……」
こめかみを押さえながら答える。
「なぜ僕がここまで残れたのか不思議なくらいだ、彼女にはきっと勝てない」
「何をいってるんだ。お前は二次審査まで合格しているんだ。何も問題ないじゃないか」
火蓮の激励を聞いても心が晴れない。彼女に心を掴まれた状態では何を聞いても落ち込むだけだ。
「まあ、そうなんだけどさ。こう、何もしてない状態でピアノを聞くのは怖いんだ。その曲をありのまま受け入れないといけないだろう? 心が落ち着かない」
「それはお前が弾いている時だって同じさ。お前の次に弾いたフランスのねーちゃんは椅子に座るのでさえ、億劫な感じだったぞ」
火蓮は涼しい顔で返答する。
「お前の曲に飲まれて動きが悪かった。お前の演奏が負けるはずがない。彼女のピアノに劣ってなんかいないよ」
「ありがとう、兄さん」
しばらくして次の演奏者が入って来た。火蓮は突然トイレに行くといって席を立った。
「寒気が来たんでな。あんなピアノの後だったらきっとトイレも満杯だろうな。トイレの人数をカウントしてきてやるよ」
カウントしてどうするの、という言葉を発する前に火蓮はホールから出ていた。余程行きたくてたまらなかったに違いない。
次の演奏が始まる前に、前に座っているカップルがヤン・ミンの話題を出していた。どんな風に絶賛の声をあげているのだろうと思い耳を傾けたが、それは予想だにしない言葉だった。
「本当に彼女の演奏は素晴しかった。彼女の名前の通り、炎を扱っているような演奏だったね」
「いいや、それは違うね。彼女は人殺しの娘らしい。だからあんな『革命』が弾けたんだ」
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