bread-17 彼の部屋

「ご馳走さまでした」


 彼は大きな手のひらを胸の前で丁寧に合わせ、軽く頭を下げた。


 鰹節を挟んだ二段の海苔弁と甘さ控えめの卵焼き。私が作ったのはそれだけで、白身魚のフライとポテトサラダは今日の晩ご飯から。カボチャの煮付けは昨日の残り物からだった。

 弟が昔使っていた大きめのお弁当箱を引っ張り出して、出来るだけたくさん詰めたつもりだったのにあっという間に消えていくご飯とおかず。

 嬉しくて、嬉しくて……ただひたすらに彼の口元を見つめていた。


「すごい旨かった」


 彼は顔を上げてすぐに、とても優しくそう微笑んでくれたのに、その笑顔にただただ感動していた私は上手く笑い返せなかったと思う。


 空になったお弁当箱を重ね彼はキッチンに向かう。


「あ、そのままで大丈夫ですよ!」


 彼の後ろ姿にそう声をかけた。


「俺だって洗い物くらいは出来るよ」


 すぐに振り返りフワリと微笑んだその姿は、私の心をゴムボールのようにぽんぽん弾ませた。



『もしかして弁当!?』


 駅のベンチで『元気な時用』の紙袋を覗いた彼は声色だけでも十分分かるほど嬉しそうにした。


『は、はい……食べてもらえますか?』

『もちろん!』

『容器返すの、いつでもいいですから!』


 そう言ってベンチから立ち上がった私。

 喜ぶ彼を見られただけで満足だった。

 座ったままの彼に思い切り頭を下げて、そのまま帰ろうとした。


『ではまた月曜日!』


 その次の瞬間、信じられないことが起きた――


 一歩踏み出した途端、右手に感じた温もり。


 その温かさの正体に期待しながら、ゆっくり視線を下ろす。


 それは一瞬。

 ほんの一瞬だった。


 すぐに彼は『あ、ごめん。つい』と謝り手を離してしまったから、本当に一瞬だったけど。


 ――私の手を、彼が掴んだ――


 離れてしまったあとも暫く留まった彼の手の感触。心臓が……ただでさえ煩かった心臓が、さらに音を大きくした。


『お茶でも……ご馳走させて?』


 それだけ言うと彼はすっと立ち上がり、鞄と紙袋を両手に下げ歩き出す。

 二歩……うん、多分二歩くらい……彼が少しの間、私より前を歩いていたのは、照れたからなんじゃないかって思った。

 前を歩いている間ほとんど振り向いてくれなかったけど、その背中に壁や距離を全く感じなかった。

 また抱きつきたくなり、ウズウズする自分を抑えなきゃならないほど優しい背中だった。


 寄ったANNAMOEは、明かりがついているのに入口に木札のcloseがかかっていた。


『雪さんに頼んでみましょうか?きっと大丈夫って言ってくれますよ?』


 すりガラスの向こうに確実に見えた人影は、一人二人じゃなくて、何やら楽しげな声が聞こえていたから大丈夫じゃないかと私は思ったのに。


『……いや、やめとこ。行かない方が良さそうだ』


 彼は店の中のなにかに気がついたのか、そう呟いてから『もし、笹野さんが嫌じゃなかったら……』と自分の部屋に私を誘った。



 対面キッチンの窓に見える彼は、頭上の棚に頭をぶつけないようになのか背中を少し丸めている。


 その体勢はあまりに可愛く見えて仕方ない。

 胸のあたりがまたキュウっと痛くなる。

 出してもらった麦茶のグラスに口を付け、その痛みを誤魔化しながら部屋の中を盗み見た。


 白い壁に映えるダークブラウン色で統一された家具。床に無造作に重ねられたスポーツウェアやシューズのカタログ。オープンシェルフに並んだCDと本。

 私でも知っている、有名な忍者マンガの最新刊も『つい先日読まれました』みたいな顔をして他の本の上に寝そべっている。


 その部屋は、私が知らない彼の一面を教えてくれた。


「掃除してないから汚いよ」


 本棚を覗く私に気付いた彼にキッチンからそう声をかけられたが、埃があろうとなかろうと私はちっとも気になんかならなかった。


 部屋に入ってから今まで嫌な空気を感じたりしていない。それどころか、彼が選んだであろう家具や小物の中でリラックス出来るような……そんな気持ちが湧いたことにも気が付いた。

 こういう感覚を『相性がいい』って言うんじゃないかな、なんて思って顔がニヤケたりもした。


 私は浮かれていたんだ。


 近付いた距離に興奮して、彼との距離をもっと縮められると疑わなかった。


「菊地さん!東の卒業生なんですか!?」


 本棚の一番下で、他の本の影に隠れるように並んでいた東高の卒業アルバムを見つけた時、運命は味方してくれていると思った。


「……あ、あぁ」


 洗い物を終えて向かいに座った彼。


「じゃ、じゃあ!知ってますか?!東高に伝わる、うちのクリームパンの恋の伝説!!」


 その時、彼がどんな顔をしていたのか覚えていない。


 いや、覚えていないんじゃない。


 見えていなかったんだ。


 私は……


 何も見えていなかった。

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