bread-16 神様は見てる。

 何度も暗転を繰り返した携帯の画面。

 えいっ!と思い切って押した受話器のマーク。


 彼の名前と電話番号が映る液晶をそっと耳に近付けた。


 呼び出し音を重ねる度に不安になる。


 出られないのか、気付いていないのか。

 それとも気付いているけど出ないのか。


 頭の中で携帯画面を見ながら顔をしかめる彼が動き出す。


『しつこい女なんだよ』


 そんな事言う人じゃないと思いながらも、悪い想像に侵食されそうになり慌てて切ってしまった。


 切ってから、次の発信はハードルが上がっていることに気が付いた。

 彼の携帯に残してしまった不在着信一件。

 名前はもちろん、かけてきた時間もハッキリわかるだろう。


 またすぐかけて、また出なかったら?


 不在着信二件。


 それを続けたら?


 三件……四件と続けてしまったら……。


 彼が着信に気付いていなかったとしても、気付いていたとしても、履歴にズラッと……しかも数分おきに私の名前が並んでいたら、


「……気持ち悪さしかない」


 土曜日の19時。

 私は駅構内のベンチに一人座り、かれこれ30分はこうして悩み続けていた。


 今朝、用意したあんぱんとドリンクを渡した時、彼の目が充血してるのがわかった。

 改札を過ぎたあと首を左右にゆっくり伸ばしたのも見えた。


 まだ本調子じゃないんだと思う。


 仕事を終えて家に帰ってもずっと彼のことを考えてしまっていた。


 あんぱん一つで足りたかな。

 そもそも食べる元気あったかな。

 熱はないのだろうか。

 肩が痛いのだろうか。

 ダルさの他に辛いところはないんだろうか。

 今日も……コンビニ弁当なんだろうか。


『何?どうしたの?』


 私の突然の行動に母は目を丸くして驚いた。


『ちょっと……友達が』


 苦しい言い訳だったろうか。

 母は、両手に紙袋を下げて出掛ける私を最後まで不思議そうに見ていた。


「でも……どうしよう、これ……」


 横に並べた二つの紙袋に目をやる。

 完全なる空回り。

 両手で包んだ携帯が震える気配は未だない。


 はぁぁぁぁ~。


 深い溜め息と共に上半身が前に倒れる。


「月曜日に、電話出れなくてごめん、何だったの?って聞かれたら……何て返そ」


 新たな悩みを自ら作ってしまったことを悔やみながら上半身を上げる。

 どこかに隠れてしまいたい。

 顔だけでも隠してしまいたい――着てきた襟なし・フードなしのコートまで恨んでしまいそう。


 このまま待っていても仕方ない。

 諦めて立ち上がり、右のポケットに携帯を押し込もうとした時だった。


 手のひらに伝わる振動。

 間違いなく表示された彼の名前。


「もっ、もしもしっ!!」


 何気なく目をやった改札の向こう側。

 見えた人混みの後ろ、周りより一つ飛び出た頭を見つけた時にそう思った。



 ――神様は見てるかもしれない。



 一人、二人と捌けていき、耳に携帯をあてた彼の姿があらわになった。


『電話、出れなくてごめんね』


 その通り動く口元と、パスケースを胸元から引き出す仕草。初めて彼を見つけた日と同じように、ゆっくり流れる時間。


 雑踏の音も一瞬にして消えてしまった。


『電車の中だっ……あれ?』


 改札を通ると同時に、携帯を持ち替え顔を上げた彼と目が合った。


『笹野さん?』


 彼の驚きを含んだ声と驚きを隠せない顔が、私の耳と目に同時に飛び込んでくる。


『どうしたの?』


 その問いかけを最後に、コートのポケットに携帯をしまった彼は少し駆け足で目の前にやってきた。


「あの……えっと!こんばんは!!」


 急な出来事に頭が付いていかないが、彼の視線が紙袋を捉えたのがわかった。


「こんばんは。買い物の帰り?」

「あ、いえ!あの……あの……」

「ん?」

「……こ、こっちは、ね、熱がある時用で!こっちは、わ、わりと元気な時用なんです!」


 目の前に差し出した紙袋を見て、彼の瞳が大きく開かれる。


「……俺に?」

「は、はいっ!!ご迷惑じゃなければ!!」


 こんなに優しく微笑まれたことがあっただろうか。

 こんなに彼の目が細く弧を描いたことがあっただろうか。みるみるうちに優しく解れた彼の顔。


「ドリンクのお陰でわりと元気なんだけど、両方見ていい?」


 そう言って穏やかに微笑む彼。


「もちろんです!」


 さっきまで一人で座っていたベンチに並んで腰かける。彼のコートの裾が私の膝に触れるほどの距離。

 朝陽と違う明かりの下で見る、ジャージでもパーカーでもジーンズでもない、仕事帰りの彼のスーツ姿は私を一気に黙らせた。



 ただひたすらに、綻ぶ彼の横顔を見つめた。


 宝箱を開ける子供のような……初めて見る、無邪気なその横顔を。

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