Office-16 崩壊した涙腺

 ひとつ、ふたつ……と電源の落とされるPC。

 少しずつ静けさを増す社内。


 鳴った一本の電話を取ろうとした時、帰り支度を終えた先輩に『もう取らなくていいよ』と合図を送られた。


「じゃあ僕ら帰るけど、最後の電気だけ頼める?」

「はい!ちゃんと消してから上がります」


 無理して貼り付けた笑顔は剥がれるのも早い。

 バタンと閉まった扉の音と同時に消える。

 今朝、早起きして巻いた髪もとっくに力をなくしていた。


 倉科さんと一緒に外出したという課長の予定も直帰だったから、なにかトラブルが起きて仕方なくこうなったのかもしれない。


 溜め息をついてしまいそうになったけれど必死にこらえた。

 これ以上、幸せが逃げてしまったら立ち上がれないと思ったから。


 いつかの残業の日のように彼が現れたらいいのに、と思う反面、私の口から何も聞いていないのに一方的に無視するなんて凄く酷いとも思った。


「電話の一本もかけてこないなんて……」



 ―――電話?


 私……あれ、電話……


 朝、このスカートにはポケットがなくて携帯を入れられないから一瞬迷ったけど、軽い生地のフレアは今日の気分にぴったりで、オフィスカジュアルからもはみ出ていなくて丁度良かった。


 ファイルの下、引き出しの中。

 記憶を辿っても午後から携帯を見ていない。


「あっ!!」


 最後に携帯を触ったのは更衣室。

 記憶は定かじゃないけれど、ロッカーの鞄に入れてしまったような気がしてくる。


 ――着信!!


 慌てて椅子を後ろに引いた時、再び企画室の電話機が鳴り出した。

 少し冷静さを失っていたせいだ。

 いつもの癖で思わず取ってしまった受話器。

 社外からの電話に、いつもの決まり文句で答えたあとで『取らなくていい』と言われたことを思い出した。


 どうしよう、取っちゃった。

 携帯確認したいのに……


 もしかしたら今まさに鳴っているかもしれない、と内心かなり焦りながら電話の向こうへ言葉をかける。


「あの……私、麻生と申しますが……本日他の社員はもう……」

『……』


 すぐに返ってこない返事。


「……もしもし?……あの、もしもーし!?」


 これさえ終われば携帯をチェック出来る。

 電話機本体から伸びる受話器のコードが鎖のように思えてならない。無言のイタズラ電話なら切ってしまおうか、そんな風にも思った、その瞬間ときだった。


『……出た』


 深く吐かれた息と共に聞こえたその声の主は――


「倉科さん!」


 静かな怒りか、久しぶりに耳に届いた強い声。


『……電話、なんで出ないんだよ』


 ――それは


「ロッカーに……たぶん……ロッカーに入れっぱなしにしてて……」


 声の代わりに届いたのは二度目の深い溜め息。


 だって……、だって……。


「く、倉科さんだって!酷いじゃないですか!」


 電話機の、点灯している赤いライトが滲む。

 避けられた寂しさと、噂に磨り減った心と、声が聞けた嬉しさと、彼からの溜め息にもうまともじゃいられない。


「神田くんとのこと!違うのに!!」


『麻生』


「違うのに!……私っ……私は!」


 俯いた途端、ファイルの上にポタポタと涙が落ちる。

 耳にかけていた髪の毛も垂れて、毛先がハラリと揺れた。


『麻生!ちょ、ちょっと待て!』


 吐き出してしまおうと思った言葉を遮られる。


「何でですか!」


 また言わせて貰えないのかと、少しイライラした。


『すぐ!もうすぐ着くから!待てって!』


 意地悪した訳じゃない。


「嫌だ!待ちませんっ」


 心の堤防が壊れる。

 これじゃ駄々をこねているのと一緒だ。

 でも私は大人じゃないから。

 物わかりのいい子じゃないから。


「もう待てな……」


 一旦流れてしまった涙は、ここぞとばかりに溢れだす。声にもならないワガママを聞いたら、彼は私のことなんか一気に冷めるんじゃないか……そう思ったけれど、もう止められなかった。


 再び受話器の向こうから聞こえた深い溜め息。

 本格的に嫌われた……そう思った。



 ――のに。



『麻生!絶対そこ動くなよ!!』



『動くなよ!!!』



 通話の終わりを知らせる電子音は、興奮している気持ちを少しだけ冷静にさせる。


「……動くなよって言ったって……」


 デスクの上に置いてある箱ティッシュから二枚引き抜き、濡らした頬とファイルを拭いていると、一旦は落ち着きかけた気持ちがまた騒ぎだした。


 ここでじっとしていたら本当に会えるのだろうか。


 また何かに邪魔されて運命が狂うんじゃ。

 ロッカーから荷物を出して、携帯も持って、彼に向かった方が何倍もいいんじゃないか。


 もう待てない。私は、もう待てないもの。


 デスクの上のファイルを慌てて重ねる。

 ぐるっと周りを確認してから椅子を押し込む。


 急がなきゃ。


 電気のスイッチに手をかけて奥の方から順番に消していく。

 最後の、ドアの周りの電気のスイッチを押すとほぼ同時にドアノブに手をかけた。



 ―― 一秒の狂いもなかったと思う。



 私が開けたと同じタイミングで外側からドアを引いた人がいた。



「……動くなって言ったろ?」



 明るい廊下の蛍光灯と照れくさそうな微笑み。

 上がった呼吸と、乱れた前髪が『走ってきたこと』を教えてくれた。



「……倉……科さん」



 再び涙が溢れだす。

 会えただけ。

 ただ会えただけなのに嬉しくて堪らない。



「……麻生」



 手を引かれ戻った企画室。

 灯りの消えた企画室。


 名前を呟くだけであっという間に魔法にかかる。

 名前を呼ばれただけで一気に体温が上がる。


 強く抱き締められた彼の腕の中。


「……好きだよ」


 後頭部に響く彼の声に……私の涙腺は崩壊した。

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