Office-15 ウワサ

 それは朝からずっと――。


 エントランス、エレベーター、更衣室、企画室の中……今日は色んな人と目が合うなと思った。

 夜のために少し念入りに支度したから、そのせいかと最初は思ってた。


 でも、ひとつの違和感に支配されていく。

 こんなに沢山の人と目が合うのに、ただ一人……本当に人とは一度もあわない。


 むしろ……


『あの、倉科さんっ』

『あ、悪い。会議なんだ』


 避けられているような気がした。


 先週とは、うって変わって動かない体。


「麻生!お昼行かないの?」


 奈津子さんにそう声を掛けられるまで、そんなに時間が過ぎていることにも気付けなかった。


「……あ、もうお昼……なんですね」

「調子でも悪いの?顔白いけど」

「……いえ、あの……私」

「どうした?」

「私、なにかしたんでしょうか」


 最後は声が少し震えた。

 知らないところで何か取り返しのつかないミスをしたのかと思った。

 朝からバタバタと忙しない彼の姿はそんな小さな不安にリアリティーを持たせる。


 いつものように営業までお使いに行っても、お手洗いに行っても視線を感じる。

 何か腫れ物にでも触るような、ぎこちない視線を。


「あの、奈津子さん!私、また何かやらかしたんでしょうか!」


 思い切り顔を上げた私を見て、真顔だった奈津子さんの顔がクシャリと解れる。

 そして訳のわからないことを言い出した。


「社内恋愛は禁止じゃないけど、神田は手が早いって噂になってんの!麻生が気にすることじゃないよ!」


 こらえきれず、豪快に笑い出した彼女を見ても不安は全く拭えない。


「……あの、何の話ですか?」


 私が知らばっくれてると思ったのだろうか。

 奈津子さんは、私の肩をバンバンと叩き『隠さなくてもいいって!』とハシャぎ、周りに人が少ないことをキョロキョロと確かめてから私に顔を近付け言った。


「神田と付き合ってるなら言ってよ」


 そして……


「倉科くんも気付かなかったって驚いてたよ」


 ――と。


『え?違うの?』

『だって、総務の子が先週見たって』

『神田が``今夜うち来る?´´って言ったら』

『麻生が嬉しそうに``行く♪´´って言っ』

『……って、麻生?おーい、麻生?』


 目の前でいったり来たりする奈津子さんの手のひらが何重にも見える。

 そんな噂が流れただなんて。

 倉科さんも、私と神田くんが付き合ってると思ったから……だから朝からあの態度なの?


「そんなぁ……」


 そういう意味じゃないんです。


 そう否定したら信じてくれるよね。

 ただの噂だもん。大丈夫だよね。

 ザワザワ騒ぐ胸を必死で落ち着かせる。


 彼が会議から戻ってきたら、まず……


 色々考えすぎてお昼は食べられなかった。

 更衣室の小さな椅子に腰かけて潰した時間。

 彼のメールアドレスを開き文章を作ったけれど、どんな文章でもしっくりこない。

 大切なことは直接伝えなきゃいけない、そう信じて消去した。


 扉を開けて、企画室を見渡す。

 心臓がまた騒ぎだす。


 ――いるはずの、彼がどこにもいなかったから。


 予定を書き入れるホワイトボードを見るまで、私は何とかなるって思ってた。大丈夫だって思ってた。


 ―― 倉科 ○○社 △△社 打ち合わせ ――


 その後に続く二文字を見るまでは。



「………直帰?」



 ――週末を挟んでしまったら……週が変わってしまったら、世界が変わって、空気や何もかもが変わって……昨日のことは蜃気楼のように消えてしまうんじゃないか。


 あの時、ふとよぎっただけの不安が形になって表れた。先週とは180度違う空気。

 運命の矢印が方向を探してクルクル回る。


 差して欲しい先はひとつしかない。


 ――彼しかいないのに。



 その日、短針が5を差すまでにその字が消されることはなかった。


『早く終わりました』


 と、戻ってくる彼を見ることは……なかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る