98.飢贄
現在の世界の飢餓人口は八億人を越えるとされている。
八十億人を突破した世界人口の、十人に一人が飢えているわけである。
人口爆発の結果、生産できる食料では人類の必要な量を賄えきれなくなった──というわけでは決してない。
現在の世界食料生産総量でも、十分に世界人口を養うには足りうるとされている。
にも関わらず、世界の十人に一人の人間は飢餓に苦しまなければならない。
流通、消費、廃棄。様々な要因によって全ての食料が行き渡るには至らないからだ。
それは生物としての問題だけではなく、人間の文明が生み出した歪みであり、社会が社会として存在するための必然として発生する宿痾。
それが、飢餓である。
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──「ヨハネの黙示録」九章より。
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八月の長い日がようやく落ち始めた宵の口。
横浜の街並みの中、一人の少女が帰路についていた。
…………湘南が封鎖されて三日になる。
湘南からすぐ側、目と鼻の先と言ってもいい位置にあるこの横浜の喧騒の中をかき分けて進みながら、行き交う人々になんとも言えない気持ちを少女は抱いていた。
湘南そのものが
地震等の災害と同じだ。自分が被害を被らない限りはどんな禍でも対岸の火事としてしか受け取れない。
無論、少女もまたそんな人々の内の一人ではあるのだけれど。
これでいいのか、という気持ちもまた確かにあるのだった。
「…………といっても、何ができるってわけでもないんだよね」
死神などという埒外の存在に、所詮は一般市民でしかない自分達が取れる選択などありはしない。
結局は目前の日常を消化していく他ないのだった。
は、と嘆息を一つ吐き、少女は歩き出す──
──ヴヴヴヴヴヴヴヴ…………
「…………え?」
繁華街の喧騒の中、耳に覚えのない異音を聴いた気がした。
──ヴヴヴヴヴヴヴヴ。
「なに、この、音?」
その音を耳にしただけで、滝のような冷や汗が全身から滲み、身体が凍ったように固くなった。
初めての感情。
戦慄。
それを味わいながらに少女は異質なその音が聴こえてくる方角へと振り向いた。
方角は、南。
「あ──」
夜闇を蹴散らさんばかりに光り輝く横浜の街明かり。
その煌めきに、無数のまだらな影が落ちた。
そう思った次の瞬間、その小さな影の一つが隣を歩いていた男性の顔へと飛びつい
「ひっ、ぎゃあああああああぁぁぁぁ!?」
絶叫を上げてその男性は固いコンクリートの道路へと倒れのたうち回る。
ブチュ、グチャズチャチャ。
なんの音だろうと首を傾げた。
男性の左眼球が嚙み潰され、空っぽになったその眼孔内へとナニカが潜り込んでいく音だった。
あっと言う間にナニカの群れに集られていくその姿を見て同じように大声で叫ぼうとした──そしたら開けた口の中にナニカが飛び込んできた咽頭反射により身体がそれを吐き出そうとするよりも早く食道の中でナニカが嚙みついたのを知覚して痛いその頃にはもう視界が痛い街並みが
たすけて
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「うひゃぁー…………絶景かな絶景かな。
「いつからここは南禅寺になったんですか」
場所は逗子市第一運動公園。
死神の女王はその光景を見て呑気な声を上げていた。
幾千万もの数の災害蟲が宙を埋め尽くして北上していく──幾重にも重なって響き渡る翅音はまるで悲鳴のようにも聴こえる。
軍勢と化した飛蝗の群れは時に波のように、時に渦のように畝りながら、絶望的な光景を生み出していた。
「…………虫嫌いの人が見たら気絶しかねない眺めですね」
微妙にズレた感想を漏らしているのは【
「虫嫌いかぁ。随分生き辛いタチの人もいたものねー。地球上の生物の約六割が昆虫なのよ? 過半数よ過半数。いちいち苦手にしてちゃ生きてけないでしょ」
「さらっと何気に神っぽい視点でものを言いますね…………思い出したように。──というか、どうしたんですかその有り様は」
【
片目が潰されている。
左胸が抉られている。
右腕が捩じ切られている。
腹部が裂かれて腸がぶら下がっている。
左脚が縦に割られて三本脚のようになっている。
と、有り体に言って死に体だった。
「まあ、死神が死に体だなんて冗談にもなっていませんが…………」
「いや、今結構キッツいよー。未曾有の危機的大ダメージって感じ。はーーーー…………つっかれた。娘一人寝かしつけるのも大仕事だわ。お母さんって大変ねー」
残ったもう片方の目を遣る先にいるのは、公園のベンチにてすやすやと寝息をたてる娘──【
「…………その損傷、戻せないんですか? 死神の権化、【
「すぐには無理ねー。まあ
「というよりは、本来【
「そうなんだけど【
「
「表沙汰にしちゃ終わっちゃうから舞台裏でなんとかしなきゃだったのよ。珍しく真面目に働いたんだから労いの言葉くらい頂戴な」
「大変お疲れ様でした」
「簡潔過ぎる…………ま、ツッコむ体力もないし、甘んじて受け取っとくわ。──さて。帰りましょっか。キリアちゃんもお疲れー。もうあがっていいわよ」
「…………はい? いいんですか帰っても?」
「別にいいわよー。
「いや、そうではなく…………【
「ん? 別にいいんじゃない? 後はもう水は高きから低きに流れるが如くっていうか、野となれ山となれっていうか、まあそんな感じで」
「…………このままいくと人類存亡の危機にもなりかねませんが」
「そりゃそうなるように今回の祭りがあったわけだしねー」
「…………わかりませんね。自分で人類滅亡の引き金を引いた一方、別の破滅までの
「そうなるわね」
「…………【
「うん。そういうことになるかな?
「──人類の一人も足掻く余地さえなく全てが諸共におしなべて平等に安らかに穏やかに希望に満ちた暖かな光の中で台無しになる」
「…………」
「それはダメっしょ」
「…………ダメですね」
「順序を踏んでシャットダウンするなら仕方ないけどコンセントぶっこ抜いて何もかも根絶やしってのはよろしくないよねーって話」
「…………承知しました。が…………本当にこのままでよろしいので?」
「用心深いわねーキリアちゃんってば。心配しなくても、お祭りはとっくにお開きよ。蛍の光が流れてるわ」
肩を竦めてからさっさと
そして未だその背を眺める【
「こっから先はただの──
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