第2話 その原因

「ミーちゃん!いくよぉ~」


 そう言うと、彼女は重そうに、水の入ったバケツを私の方へ向けて、ぶん回した。中の水は私の体を満遍なく濡らした。私は濡れた長めの髪の毛で表情を隠そうとした。水原はバケツを放り投げて、私の顔を下から覗き込み「フフッ」と笑いながら言った。


「涼しくなったでしょぉ?」


 水原の後ろに居る三人の女子は、それを聞くと笑いだした。


 私は髪の毛で目元を隠したまま、無理矢理、口角をあげて「ハハハッ…」と小さめに笑った。それを見た水原は、私に見せつけるかのように微笑むと、後ろの女子の方へ、ゆっくり戻っていきながら言った。


「喜んでくれたみたいで、良かったぁ~。あれ重かったんだよぉ~?」


 彼女達は私をじっと見ていたが、私は決して彼女達を見ることが出来なかった。ただ黙って、私の髪の先から地面に向けて垂れる滴を見続けていた。彼女たちが二メートル程離れた所で喋っていた内容は、全く耳に入ってこなかった。


 しばらく彼女達は談笑を続けていた。時折、私のことをチラチラと見ては、笑っていたのが、雰囲気で分かった。その間私は微塵も動くことが出来なった。それが終わると、水原は再び私の元へ近寄ってきた。


「ほらっ、早く出せよ」


 言われるがままに、私は足元にあった鞄から財布を取りだすと、そこから何枚か札を抜き取り、俯いたまま水原に向けて差し出した。


 彼女はそれらを躊躇なく取り上げると、札を、うちわ代わりにヒラヒラと扇ぎながら校門の方へ向かって歩いていった。他の三人も水原の後についていった。校舎の角を曲がる瞬間、三人の内の一人の、背の低い、前髪をあげた女子が振り返った。


「今度また、良い男紹介してあげるからねーー!!」


 そう言って、彼女は小走りに角の方へと消えてった。私は校舎の裏で、足元を見続けていた。そう、あのクロックスを…。女子達の笑い声は、最後まで聞こえていた。




 私がこうした仕打ちを受けるようになった最大の原因は名前だった。『ミーコ』という名前。猫のような名前が最大の原因だった。


 こうした特殊で若干、可愛い感じの名前の場合には、容姿が重要になってくる。私の容姿は客観的に見て、平均か、それよりやや下だった。名前に対して容姿が見合ってなかった。


 おまけに、性格は暗めなほうで、あまり人と接するのも上手い方ではなかった。やや癖のある、長めの黒い髪が、その性格を助長していたような気がした。


 一方で、私を弄ぶ水原は、私から見ても十分に可愛かった。真っ白で綺麗な肌、クリっとした目、フワフワした髪、他の女子達が放つような、きつい香水の匂いではなく、ほのかに香る、シャンプーの心地良い匂いを、常に漂わせていた。


 当然、性格も明るく、誰とでも簡単に打ち解けられるような存在だった。まあ、裏の性格は酷いことこの上ないのだが…


 更に運も悪かった。入学したての私のクラスでの席は、最悪そのものだった。前は水原、その周辺に例の三人…


 入学して間もなく、私は彼女達に目をつけられ、数多の仕打ちを受け、現在に至るというわけだ。何も出来ない自分が悔しかった。


 最大の原因が名前である以上、『ミーコ』という名前は決して好きでは無いが、親を恨んではない。事情こそあれど、親は私にかなり愛情を注いでくれている。今の私にとっては唯一の心の拠り所だった。


 私の親は共に、猫をこよなく愛していた。猫の細やかな仕草から、人間を馬鹿にしたような態度まで、何であろうと、猫のことなら全てを受け入れられるレベルで好きだった。


 しかし、我が家では猫を飼っていない。家のマンションはペット禁止というわけでは無い。では何故か?


 親が共に、猫アレルギーだからだ。


 ここまで残酷なことを私は他に知らない。愛してやまない猫に近づけば、強烈な痒みが両親を襲った。


 猫が駄目なら、せめて子供だけでも、といった経緯で私は猫みたいな名前を名付けられた。極論かもしれないが、私は猫の代役と言ってもいい。だから愛情も深い。


 それでも私は嬉しかった。三日に一度、朝食にサバ缶を出してくること以外を除いて。何にせよ、私を大事にしてくれていることには変わりのない事だったからだ。


 そして、そんな親に心配をかけたくなかった私は、水原達とのことを、決して言わなかった。


 誰にも心配をかけることなく、良い大学に入って、親を喜ばせてやろう。水原達を見返してやろう。そう私は心に誓っていた。今は必死に耐えよう、と…


 でも限界は近かった。

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