九  恋は追想

トイレで聞こえてきたこと。

梨緒は話しかけてくれた人に懐いて、粘着して、とことん真似をする、らしい。

思い返せば、ペンケースとか、携帯とか、そういうのだけじゃなくて、つけてるストラップとか、貼ったシールとか、そういうものまで全部が同じ。

気づいていなかったわけじゃなくて、単純に同じであること、真似されることが嬉しいと思っていたわけで、きっと私は、気づかないふりをしていたかったのかもしれない。


**************************


 紗友里から

「ちょっとこれから会えませんか」

というLINEが来たのは夕食を食べ終えたときだった。

「寒いし夜じゃん、今俺実家だよ」

と返すと

「駅の噴水の前で待ってます」

とだけ返ってきた。思いのほか近くにいることに驚き、

「なんでそんなとこいんの」

と送ったけれど返事がなかった。

 窓の外を見ると、昨日から降っている雪は激しさを増していた。先程鈴からタッパーを受け取ったときよりも、粒の大きさや降る量や、風の強さなどが幾分か凶暴に見える。

 俺が行かない限り、紗友里は待ち続けているかもしれない。

 いても立ってもいられず、俺はダウンジャケットに腕を通した。


 外の空気は冴え渡り、空気が丸ごと固まりになって凍っているかのように全身に冷たさが襲いかかる。ジャケットのジッパーを上まで閉め、マフラーを襟の中に入れ込んだ。こうでもしないと、ジャケットの中にまで雪が入り込んでしまう。

 紗友里もこの寒い中一人で座っているのだろうと思うと、自然と急ぎ足になった。

 しかし、会って話さなければいけない理由など、思い当たる節がない。

 こういう場合、一番自然に思い浮かべられるのは別れ話。現実的に考えるとそうなのだろうが、昨日デートしたばかりなのでそれはできれば考えたくない。

 早く帰ったのが悪かったのだろうか。

 デート中も、別れ際さえも、笑顔を絶やすことはなかったと思うのだが。

 昨日のことをいくら思い返しても、答えは出そうになかった。


 駅の軒先からは大きな氷柱が垂れ下がっていた。その真下には、屋根から落ちたらしい雪が、どっさりと積み上げられている。

 噴水を見やると、縁に腰掛けて遠くを見ているような人影が目に入った。

 大柄で、髪は短く、リュックを背負っている。

 リュックや肩には雪が積もっていて、街灯のオレンジがかった光に照らされ、昨日の化粧を思い出す。

 そういえば化粧について、昨日何も言及しなかった。せっかく慣れないことを頑張ったのだから、感想の一つくらい言えばよかっただろうに。唇のオレンジは、健康的に焼けた肌によく似合っていた。

 やっぱり別れ話だろうか。

 帰りたい気持ちが湧き上がってくる。

 しかしこんなに寒い中、紗友里を待たせ続けることはできない。

 俺は意を決して、紗友里に近づいた。

「紗友里」

 充分に近づいて声をかけると、紗友里はゆっくりと顔をこちらに向けた。

 街灯の灯りに照らされた紗友里の目はたっぷりと涙をためていて、俺はぎょっとした。

「佐藤さん」

 俺の名前を呼んだ瞬間、限界が来たのか紗友里は泣き出してしまった。

 大粒の涙が次から次へとネックウォーマーに流れては落ちる。ごめんなさい、すみません、と言いながら手で涙を拭う紗友里に、俺はハンカチを渡した。

 自分のせいで泣いているのだろうか、と思うと気が引けたが、そのまま黙って左隣に座り、手を握った。

 紗友里は、俺の手をこれまでにないほど強い力で握り返し、声を押し殺して泣き続けた。

 彼女が泣いているというのに、嫌われたわけではなかったのだとほんの少し安堵している自分に嫌悪感。しかし、強く握られた右手の痛みは、とても愛おしかった。


 ひとしきり泣くと、多少はすっきりしたのか、いきなりすみませんでした、と言って、最後に涙を一度手の甲で拭って、顔を上げた。そしてこちらに向き直り、改めて話を切り出した。

「佐藤さん」

 切り出しはしたものの、言いづらいことなのか珍しく言うのを躊躇っている。

 しかし何度か深い呼吸をすると、ようやく決心したのか、口を開いた。

「名前、優さんじゃないんですか」

 紗友里の目を見つめたまま、俺は固まってしまった。

 予想だにしない一言だった。

 手が寒さ以外の理由で震えるのがわかる。目の前がぼうっと揺らめき、紗友里の顔がぼやける。

「違うんですね」

 紗友里は視線を落とし、ふう、と悲しみとも安堵ともとれるため息をついた。


 俺は、「佐藤鮪」というふざけた名前を捨てて生きていこうと心に決めていた。

 大学に入って以降、この忌々しい名前のことはひた隠しにしてきた。

 教授なり店長なりの同情や協力もあって、新しくできた友人やバイト仲間には、俺が「佐藤優」だと思わせることができていたようだった。

 俺にとって本名は名乗ることより隠すことの方が自然だった。実家に帰るまで、名前はいつも頭から抜けている。まぐろ、と呼ぶ母の声で現実に引き戻されるのが毎回のことだった。

「前の彼女と別れたときの話、したっけ」

 前の彼女。初めてできた、大学一年生のときの彼女だった。

「佐藤さんのファッションセンスが原因でしたっけ」

「いや、実はあれ嘘でさ」

 我ながらうまい嘘をついたものだと思う。ファッションセンスをよく鈴や友人たちにつっこまれていたので信憑性はあったらしく、この嘘を信じている人は多かった。そして俺自身、それが本当の理由であってほしいと願い、なんだったらそれが本当だったのだと思い込もうとしていた。

「母親と本名にドン引きされたのがきっかけなんだよね」

 名前を知られた以上、真実を話さずにはいられなかった。


 今くらいの、寒い冬のことだった。

 俺は部屋に彼女を招き、炬燵で鍋をつつきあっていた。

 鍋の締めはうどん派か雑炊派か、どちらがより優れているか、みたいなどうでもいい話をしていたところ、インターホンが鳴った。

 そこそこ遅い時間で雪も深く、連絡も何もなしに友人がわざわざ訪ねてきたとは考えにくかった。

 誰だろう、と思いながらドアスコープを覗きに玄関に向かおうとすると、がちゃがちゃ、という鍵の音。

 なんだ、と身構えた次の瞬間、飛び込んできたのは大荷物の母だった。

 思いもしなかった人物の来訪。驚くどころの話ではなかった。

「鮪、風邪は大丈夫? 熱はない? 今お粥さんつくるからね」

と矢継ぎ早に言葉を浴びせ、俺の脇に強引に体温計を捻じ込んで勝手にキッチンに向かう母。その行動の意味が理解できず、止めることもままならなかった。

 風邪を引いた覚えはなく、どんな言葉を返していいかわからなかった。

 彼女はというと、ぽかんとした顔で

「もう、鮪はもっと甘えなさいよ、それが鮪の悪いところよ」

と色々言いながらものすごい速さでネギを刻む母を眺めていた。

 母は彼女に気づくと

「あらあなた、風邪移っちゃうから帰りなさい、ほら早く」

と急き立てた。

 彼女がいたことについて母は何も言わなかった。

 というよりかは、彼女であるという認識すらしていなかったのかもしれない。

 彼女は気圧されるまま、身支度もそこそこに帰っていった。

 風邪を引いた引いてないの話が解決したのは彼女が帰った数分後、体温計が平熱を示したのを確認したときだった。

 風邪引いてるんじゃなかったの? と不思議そうに首を捻る母だったが、なぜ風邪を引いていると思ったのかについては「母親の勘」の一点張りでどうしようもなかった。

 その後彼女とはぎくしゃくしてしまい、程なくして別れた。

「鮪って名前だったんだ」

と無表情、無感動で呟いた彼女の横顔は、今でもありありと思い出せる。


 ざっくばらんに、この嘘のような本当の話を語って聞かせた。どこまで知っているのかはわからなかったので、思い出せる限り全てを。

 紗友里は視線を足元に落とし、黙って聞いていた。

「名前だけのせいじゃないんだろうけどさ、きっかけはそれだったんだよね」

 時間をおいて、

「はい」

という返事が返ってくる。

 普段の快活な紗友里からは考えられない弱々しい声で、続く言葉はなかった。

「紗友里も引く?」

「そんなことないです!」

 今度は思いのほか力強い返事が返ってきて、安心した。

 紗友里も自分の声に驚いたようで、あ、という顔をして、そのまま俺たちは顔を見合わせて笑った。

 いつもほどの元気はなかったが、前の彼女とのようなぎくしゃく感、別れを余儀なくされる雰囲気は特に感じなかった。

 どこで知ったのかは疑問だったが、言いたくなさそうなので聞かなかった。知られてしまった事実と、嫌われなかった事実だけで今は十分だった。

「優ってのはさ、昔、近所の一個下のやつがつけてくれた名前なんだよ」

 まあ幼馴染ってやつ、と付け足し、俺は勝手に喋った。


 「優」は、中学生の頃に鈴がつけてくれた名前だった。

 まだその名前がなかった頃は、いじめらしきいじめには発展しなかったものの、早熟な同級生からのからかいは避けられるものではなかった。

 こんな悩みは、恥ずかしすぎて誰にも言えなかった。

 その日もからかいを受けて、一人とぼとぼと歩いていた。

 この名前さえ普通だったら、どんなに人生が楽しかったことか、と、その時期特有の浮き沈み激しい感情に支配されながら、死ぬ意思もないくせに「死にたい」などと呟きながら歩いていた。

 突然肩を叩かれ振り向くと、頬に柔らかい指が立てられた。鈴だった。

「一緒に帰ろう」

そう言って、鈴は隣に並んで歩き始めた。

 俺の気持ちを知ってのことかは知らないが、鈴は何も喋らなかった。からかわれていることなんて、内容が内容だけに同年代の女子に話せるような話ではなく、うつむきながらひたすら歩いた。

「あのさ」

 人通りが途絶えたあたりで、鈴は立ち止まって、沈黙を破った。俺も立ち止まって振り返った。

 しかし鈴は何か話したそうにしてはいるものの、なかなか話しださないので、

「何、どうかした?」

と言葉を促した。

「鮪って、魚偏に、有るって書くじゃん、有名の有」

 勿体つけて何を言い出すのかと思えば予想斜め上の話で、拍子抜けしてしまった。

「でさ、鮪、優しいじゃん」

 鈴は、そこまで言うと、もう一度言葉を切って、足元に視線を落とした。

 そして、意を決したように、一歩距離を詰め、

「だから、ユウって呼んでもいい?」

と、泣きそうな顔で俺に言った。

「もう、ユウでいいじゃん、名前、ユウにしよう、優しいもん」

 そう言いながら鈴は子供のように泣きじゃくった。

 鈴の泣く姿は幼稚園以来久々で、心底戸惑ってしまった。

 しかし、俺自身の目からも鈴同様涙がこぼれていた。

「泣くなよ」

と気づかれないように顔を逸らして言い、幼い頃にしていたように頭を撫でると、

「ユウも泣いてるじゃん」

と指摘され更に涙がこみ上げ、気がつくと二人で泣いていた。


 鈴の性別、頭を撫でた話などはぼかして話した。この話をしたのは初めてのことだった。

 話す必要はなかったのかもしれない。

 しかし、俺のルーツのような、根本にかかわる話だと感じたのと、単に話したくなったのとで、この話をしてしまった。

 紗友里は目に再び涙をためながら聞いていた。

「ごめん」

「なんでですか」

「泣かせちゃって」

「大丈夫です、全然」

 そう言って笑う紗友里はいつもとどこか雰囲気が違った。

濡れた目だけではなかった。

 感動した、というのともまた違う、すっきりしたような、悲しいような、様々な感情が混ざり合ったような、複雑な表情だった。


 沈黙が長かったのと喋りすぎてしまったのとで、早くも終電の時間が来てしまった。

 紗友里は

「いきなり呼び出してすみませんでした」

と言い残して電車に飛び乗り、帰っていった。

 喋りすぎたか、とため息をつくと、その反動で冷たい空気を吸ってしまい、思わず身震いした。

 紗友里がいなくなったせいか、寒さに意識が一点集中していく。

 人の痕跡は紗友里の足跡以外、雪のせいで跡形もなく消え去っている。

 そして唯一残った足跡すら消さんばかりの勢いで、次々と白いかたまりが降っては結びついていく。

 俺はジャケットとマフラーをたくし上げ顔を半分埋めると、転ばないように慎重に、家路を急いだ。

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