「しっかし、もう9月だってのに。真夏並みの暑さなよなぁ」

 そうぼやきながら柊の眼の前で、先輩兼指導係の石上がおしぼりで汗を拭いている。

「石上さん、何にしますか?」

 13時過ぎの喫茶店は人が少なく、石上と柊はこれから少し遅い昼食だ。

「そうだな、ナポリタンにでもするかな。あとアイスコーヒー。お前は?」

「カレーとアイスコーヒーにします」

「お前、カレー好きだなぁ」

 そう言う石上に照れたように笑って、柊はふたりのオーダーをウエイトレスに告げた。


「うわぁっ、また値を下げたっ」

 壁のマルチモニターで株価とマーケット情報をチェックしていた石上が、頭を抱えながら叫んだ。

 ここは喫茶店と言っても投資家やそれが趣味の人たちをターゲットにした店で、国内外のリアルタイム株価情報をマルチモニターで確認できる。柊には全くわからないが、それぞれのテーブルでは同時に自分のタブレットやスマホでなにやらチェックしている人の姿も見受けられる。

「あちゃ~、これはもう売りどきかなぁ」

 石上が一気に意気消沈して、おしぼりでまだ汗をぬぐうと水をがぶりと飲んだ。

「石上さんの買ってた銘柄って、どれでしたっけ?」

 そう訊ねる柊に、石上は無言でスマホの画面を見せる。そこに表示された企業の株価推移のグラフを見て、あれ?と柊は首を傾げた。

「なに、どうしたんだよ?」

「なんか、この企業、タイに新規事業の工場つくったって日経に出てたような…」

 石上の顔色がさっと変わった。

「おい、ほんとか?」

「確か、この企業だったと思うんですけど。3日前の日経です。調べてみてください。あ、それと3か月前にも180円くらい一気に下がった後、また上がったじゃないですか。もし新規事業拡大のために工場を新設したんだとしたら…」

 そこにウエイトレスが注文したものを運んできてくれたので、柊は話を中断して彼女に軽く会釈をしたが、石上はスマホと柊の顔を交互に見比べて、真剣に考え込んでいる。

「売るのは、もう少し待ってみるか」

「石上さん、食べましょうよ」

 ああ、と頷いてフォークを手にした石上だが、その手を止めて言った。

「しかしお前、つくづく思うけど、ホント記憶力いいよなぁ。自分が買ってもいない銘柄の数字と日経情報、よく覚えていたなぁ」

「数字の方は、昔からなんか記憶に残るんですよね。理数系だからかな、数字の配列って、綺麗に見えるんですよ。それと、日経の方はたまたま偶然です」

「数字の配列が綺麗って、さすが企画研究室採用だな。それにたまたま偶然に日経でそんな記事、見つけないぞ。もしかしたらお前、投資の運に恵まれてんじゃないのか?」

「まさか。為替も株も、まったく興味ありませんよ」

「そうかぁ?この運とかセンスとかってのは、努力ではどうにもなんないんだよ。持ってるもん勝ちっていうか。なぁ、お前、ちょっと株やってみない?」

「いや、遠慮しときます」

 そう笑ってカレーを口に運んだ柊だったが、なんとなく視線を感じて右後方を振り向いた。

 独りの老人と眼が合った。知らない人だな、なんだろうと柊が思った瞬間、その老人はすぅと眼を逸らし、手にしている新聞に視線を戻した。

「どうした?」

 石上が、怪訝そうに訊ねてくる。

「あ、いえ。何でもないです」

「なぁ、ほんとにやってみない?株」

「いやいや、センスも運も興味もないですから」

 柊はそう笑って、アイスコーヒーを飲んだ。

「じゃあ、営業にいる間だけでも、俺につき合え。お前の買う銘柄、俺も試しに買ってみるから」

「い、嫌ですよ。それでやっぱり失敗した、なんて言われたくないですから」

「言わないから。俺、そんなに器の小さい男じゃないから」

「いえ。仕事では尊敬してますが、こと株に関しては石上さんは充分、器の小さい男です」

「お前ねぇ、先輩に向かって…」




 ✵ ✵ ✵


「あ、お父さん、お帰りなさい」

 夏目老人が2階の『クッキング・サロン』と覗くと、織江がそう声を掛けた。

「灯里は?」

「先に駐車場に行ってる」

「なんだ、出かけるのか?」

「ええ、局で打ち合わせ。例のアイドルグループの。今度はどんなテーマかしら、ホントに無茶振りしてくるんだから」

 織江はそう言いながら、慌ただしく出かける準備をしている。

「気をつけて行きなさい」

「はい。ああ、夕方には戻るから。夕飯は、お肉でもいい?」

 いいよという風に軽く手を振って、夏目老人はサロンのドアを閉めるとエレベーターのボタンを押した。


 3階のリビングに落ち着くと、夏目老人はひとまとめに積まれた新聞の中から3日前の日経を探し出した。

 某企業のタイへの新規工場設立は、目立たない小さな記事だった。

 新聞の片隅に載っているその記事を改めてじっくりと読みながら、夏目老人はう~んと唸った。

「これは本当に、投資の運を持っているかもしれないぞ」

 記憶力といい、数字への独特の感性といい、面白い若者だった。加えて真面目そうで、神経が細やかそうで、冷静で賢い顔つきも好印象として残った。見ず知らずの人間なのに、育ててみたらおもしろそうだと初めて思った。

「また、あの喫茶店で会うかもしれないな。もう一人のセンスと運に見放された男の方は、あそこの常連らしいし」 

 新しい楽しみでも見つけたように、夏目老人はにこりと笑った。

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