最終章 永遠の追いかけっこ

「おう、よく来たな。柊、入れよ」

 インターホンを押すと、ドスドスと大股で歩く音が近づいてきて、勢いよく開けられたドアからアレンが顔を出した。

「うん、久しぶり」 

 手土産に持ってきたワインを渡し、柊はマンションの中へ入った。

「星奈、これ、柊から」

「いらっしゃい、柊。なに?ワイン?わ、ありがとう」

 エプロン姿でキッチンに立つ星奈に、柊が目を丸くしているとアレンが悪ガキのような眼で言った。

「これで驚くのは、まだ早いぞ。なんと、今日のシェフは星奈だ」

「えっ」

 マジで驚いた柊を、気にするでもなく、上機嫌の星奈が言う。

「うっふぅ。待っててね、柊。すんごいおいしいの、食べさせるから」


 う、うっふぅって言ったか、いま? 星奈が、あの星奈が、女になっている。いや、性別はもとから女だが、そういう意味じゃなくて。

 それに、おいしいものって…怖いよ、何が出てくるか。いいのか、アレン?星奈をキッチンで野放しにして。


 眼を白黒させて何か言いたげな柊に、アレンは「わかってるよ」と言うように目配せした。


 ここは、アレンが両親の離婚後も住み続けているマンションだ。柊にとっても馴染みの空間で、アレンは星奈と暮らしはじめた。

 あの学食での大公開プロポーズの後、星奈の両親に挨拶に行ったアレンは、兄弟も含めた家族全員に大歓迎されたそうだ。

「この星奈が、嫁に行く日が来るとは…」

 感極まったように早くも涙する父親に、母親は今更、慌てふためいた。

「まぁまぁ、どうしましょう。星奈ちゃんに、家事もお料理も何にもさせてこなかったわ。いまから、間に合うかしら?間に合わなかったら、私も…ついて行く?」

 どうやら星奈の天然っぷりは、母親のDNAだとアレンは確信したらしい。

「姉さん、ビーカーで味噌汁とかつくりそうだもんな」

「星奈、掃除はいまはロボットがあるから大丈夫だ。洗濯は洗濯機がやってくれる。料理は…デパ地下がある、デリバリーもあるっ」

 星奈のダメさ加減を隠しもしない弟と兄に、アレンは言ったそうだ。

「大丈夫です、料理は僕が得意です」

 母親の顔が見る見る嬉しそうに、綻んだらしい。

「で、星奈。大学院は修了したら、どうするんだ?お前には奥さんだけでも大変なのに、働くのか?」

 思い出したように訊く父に、今度も答えたのはアレンだったそうだ。

「星奈さんは大学に残って、研究者の道に進みたいそうです。僕も、それには賛成です。彼女の能力は家で奥さんをやるより、もっと広い世界と人類のために活かされるべきです」


 

「どうだ、完璧だろ?」

 アレンは得意そうに今井家訪問の顛末を語ったが、その話を訊いたとき柊は、もうこの破格なビッグカップルに感服するしかなかった。

「おまたせ~」

 キッチンから、星奈がカセットコンロを運んできた。

「お、手伝うよ」

 その姿を見たアレンが、キッチンに消える。

 やがてアレンは、大きな土鍋を運んできた。その後ろから星奈が、それぞれの取り分け用の器や箸やらを乗せたお盆を持って続いている。

「そうか、鍋か」

 柊は合点がいった。

 ほっとしたような表情の柊を面白そうに見ながら、アレンが言う。

「今日は、胡麻みそ辛鍋だ」

「おいしいんだよ~。本場韓国キムチ鍋と迷ったんだけど、これにしたんだよねぇ、アレン」

 星奈が嬉しそうに言って、土鍋の蓋を取る。途端、湯気とともにコクのあるおいしそうな匂いが立ち上った。

「まずは、乾杯だな。最初はビールでいいよな?柊」

「うん」

「じゃあ、柊の就職に乾杯!」

 アレンがそう言って、3人できりりと冷えたビールで乾杯した。

 そう、柊は再来月から社会人になる。大学に残るより、企業の研究室を選んだ。

 

「さぁ、食べて食べて。鍋はいいよぉ、野菜も肉も魚も全部味わえるもん」

「ぷ、星奈らしいよ」

「え~、なによ。柊、バカにしてるでしょ」

「してないよ。うん、旨いっ」

 冷たいビールと熱い鍋、本当に最高だった。

「柊、星奈はこの冬、何回、鍋したと思う?」

 アレンが、肉や野菜をふうふう言って頬張りながら訊ねる。

 柊が少し考えていると、星奈が口を尖らせながら言い訳した。

「なによぉ。だって、いまは本当にいろんな種類の鍋用スープが売ってるんだよ。どれも試してみたいじゃない」

「どんなの試したの?」

「えーと。まずこの胡麻みそ辛鍋は、この他にマイルドも塩味もあるの。それに豆乳鍋でしょ、美肌コラーゲン鍋、キムチ鍋にカレー鍋、トマトチーズ鍋に比内鶏しょうゆ鍋、それから…」

 まだまだ続きそうな星奈に、柊は半ば呆れながら確かめた。

「いま上げたの、全部試したんだよね?」

「ん?当然!一番おいしかったのは、この胡麻みそ辛鍋だけど、美肌コラーゲン鍋もなんか独特でクセになる味だったよ」

「おかげで、俺の肌もつるつるピカピカさ」

 おどけて言うアレンに、柊はたまらず吹き出してしまった。

 星奈はまたしてもちょっと膨れながら、アレンと柊の顔を窺うように言う。

「しょうがないじゃない。いまのとこ、野菜切って、肉や魚は切り身を入れればいい鍋しかできないんだもの」

 そんな星奈が可愛くてたまらないという顔をして、アレンが優しくフォローする。

「大丈夫だよ。それで充分、星奈の頑張りは伝わってるから。お互いができること、得意なことを分担してすればいいんだ。俺たちは最初から、そうするって決めて夫婦になったんだろ?ほかがどうとか、世間がどうとか、そんなのは関係ないさ。これが俺たちの幸せのカタチなんだから、な?」

「うん」

 幸せそうに頷く星奈を見て、本当にいい夫婦だと柊は思った。


 鍋の後片付けを3人でして、その後はアレンお手製のスモークチーズやピクルスでワインを飲んだ。スモークしたうずらの卵や、カリフラワーのピクルスを食して、こっちのほうはさらに腕を上げたな、と柊は思った。


「ところで、ピアノ、どうしたんだ?」

 前より広く感じるリビングを見渡して、柊はアレンに訊ねた。

「ああ」

 アレンが、星奈と顔を見合わせる。

「アレンのお母さんの実家に送ったの。ピアノが弾きたいって、言いはじめたから。ね?」

 星奈が、アレンの手にそっと自分の手を重ねて、その顔を窺うようにして言った。それに応えるようにアレンも、星奈の手を優しく握り返した。

「それはつまり…良くなっているということ?」

 慎重に訊く柊に、アレンが頷いた。

「ピアノを弾くようになってからは、さらに感情も体調も落ち着いてきた。婆ちゃんの話だと、最近は笑うようになったそうだ」

「よかった」

 柊がそう言うと、幸せそうなふたりはさらに想いのこもった眼で見つめ合い微笑んだ。

 これなら。

 アレンの秘密は、もうふたりの間では秘密でも何でもなくなっているだろう。このふたりは、幸せも苦しみもシンプルに共有すること望むんだろう。それが自然にできる稀有なパートナー同士だ。

 自分も心の中に温かな幸福を感じて、柊は微笑んだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る