◆ 三宅 雅彦から 灯里への手紙


 北川さん、いま、どうしていますか?

 料理教室に突然来なくなって心配していたけれど、仁科さんからご実家のご不幸の話を訊いて、あのお祖母様が他界されたことを知りました。何年もずっとお見舞いに通い続けていたキミだから、どんなにショックだったろうと心が痛みます。遅くなりましたが、心からお悔やみ申し上げます。

 思えば、あの長期療養病院で偶然にも再会したことから、私たちの人間同士のつきあいがはじまったのでしたね。

 妻と向かい合う勇気を与えてくれ、妻が目を覚ましたときの目標まで与えてくれたキミに、私はどんなに感謝していることか。

 だから仁科さんから、「北川さんが突然、大学を辞めた」と訊かされたときは、本当に驚いたんだよ。何があったかはわからないが、ひと言でも相談してほしかった。私はそんなに頼りにならない存在かと、ちょっとショックだった。

 まあ、冗談はさておき。


 メールアドレスも電話番号も変えたようだから、望みは手紙かなと思ってこれを書いています。

 もう、新しい仕事はしているのかな?もし、私に力になれることがあったら、遠慮せずに何でも言ってください。何といっても、北川さんは私たちの恩人だから。


 そう、キミは私と妻の恩人です。

 2週間前、妻が眼を覚ましました。

 私がいつものように、日常にあった他愛もないことを妻に話して聞かせているときでした。握っていた彼女の指が、かすかに動いたの感じたのです。最近は、それがめずらしいことではなくなっていたから、私は妻の名前を呼びました。

「友美恵、友美恵」

 呼びかけに反応するように、さらに指が動きます。私は思わず両手で彼女の手を強く握りしめてしまいました。

「友美恵、聞こえるかい?僕だよ、友美恵」

 彼女の手を両手でさすりながら、私は何度も何度も呼びかけました。でも、次第に彼女の指の動きは緩やかに停止して、「まあ、焦ることはないのだ」と自分に言い訊かせたそのときでした。

 彼女の眼が、突然開いたのです。私は本当にびっくりして、恐る恐る彼女の眼を覗き込みました。

 でも彼女の表情は変わらず、その瞳に私が映っているのかわかりませんでした。

「友美恵、僕だよ。わかるかい?」

 そう言って、再び手をさすりました。看護士さんを呼びたいのだけれど、その間に友美恵が再び眼を閉じてしまうことが怖くて、その手を離すことができません。

 そうしているうちに、何度も彼女の名前を呼ぶ私に、看護士さんの方が気づいてくれました。

「まあ…」

 いつも良くしてくれる40代くらいの看護士さんが、眼を開けている友美恵を見て、驚きのあまり絶句しました。そして、すぐに担当医を呼びに行ってくれたのです。

 先生が駆けつけてくれたとき、まだ友美恵は眼を開いたままでした。先生は友美恵の眼の前で手を振ったり、光を当てたり、肩にそっと触れて呼びかけたりしてくれました。

 でも何の反応もないままに、友美恵は再び眼を閉じてしまいました。

 

 私はすぐに有給休暇を取り、駅前のビジネスホテルに宿泊して毎日、友美恵を見舞いました。

 友美恵の両親も、次の日から同じように毎日、病室を訪ねてきます。

 友美恵は日によって時間こそ違いますが毎日、数分だけ、眼を開けてくれます。指の動きも前より滑らかになって、握れば応えるような反応を見せてくれるようになりました。

 奇跡だ、と思いました。私は、人生の中でいまはじめて奇跡を見ているのだと、武者震いしました。両親も「信じられない、信じられない」を繰り返していました。

 そしてとうとう2日前に、友里恵が言葉を発しました。

「ま、さ、ひこ…さん」 

 涙が突然、恐ろしいほどの勢いで溢れ、嗚咽が止まりませんでした。身体中に鳥肌が立って、もうどうしていいかわからないほど感動しました。両親も手を取り合って、泣いています。

 それから覗き込んだ友里恵の眼には、微かな反応がありました。

「これから、どんどん良くなりますよ」

 先生も看護士さんも、そう言ってくれました。

 両親は、先生と私に「ありがとうございます、ありがとうございます」と繰り返すのです。先生はともかく、私などどんなに罵倒されても仕方ない存在なのに。


 北川さん、キミのお蔭です。キミが私に希望をくれたから。

 その希望に縋った私は、奇跡を見ました。救われました。

 この感謝は、どんなに言葉を尽くしても伝えられるものではありません。

 北川さん、もう一度訊ねます。

 キミはいま、希望を抱いていますか?幸せですか?私にできることは、ありませんか?

 今度は、私の番です。私たちの恩人のために、できる限りのことをしたいと思っています。心の整理がついたら、一度、連絡をくれないだろうか。待っています。

 

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