ⅷ
ダイニングバーのドアが開く音に、入口の方を見たアレンは、久しぶりに見る男の顔を認めた。
「いらっしゃい」
そう言うアレンに、「よぉ」と答えて、シンジはカウンターに座った。
「久しぶりじゃないか」
「この夏、1か月くらいニューヨークに行ってたんだ」
「本場のレッスンてやつか?」
「まあな」
さらにシャープになった顔つきと肉体のダンサーに、アレンは訊ねた。
「で、何飲む?」
「シンガポールスリング」
「お前が居ない間、あの
そうアレンが言うと、シンジは苦笑いをしながら言った。
「カオルか?」
「ああ」
と言って-オーダーされたものをシンジの眼の前に置きながら、やはりこいつはあの娘の気持ちがわかっているんじゃないか、とアレンは思った。灯里かと言わずに、迷わずカオルかと訊ねたのがその証拠だ。
「今日は、来ないのか?」
「後で来るよ、ふたりとも」
そのとき再びバーのドアが開いて、数人の女の子たちが入ってきた。
「きゃあ、やっぱり!」
「うそ、ホントに居た!」
女の子たちがアレンを見て、黄色い歓声を上げている。
「いらっしゃいませ。ね、キミたち、他にお客さんがいるから…」
アレンは唇に人差し指を充てると、賑やかな女の子たちにウインクして見せた。
それは驚くほど効果てきめんで、女の子たちが口々に「しー」「しー」と言いだし、さっきとは真逆の態度で大人しくなる。そんな彼女たちを、最奥のテーブル席に案内すると、アレンはしばらくサービス・トークをしはじめた。
やがて遅れてやってきたカオルと灯里に、シンジはアレンたちの方を見て言う。
「なんだろうな?あれ」
「あ~あ」
と意味深長に頷いたカオルは事情がわかっているらしい。
「シンジは1か月以上も日本にいなかったからね、軽く浦島太郎状態ってこと」
と可笑しそうに灯里も言う。
「ちぇ、教えろよ」
「待って、あたしたちもオーダーするから。それから、あっちのテーブル移ろっ」
カオルと灯里がふたりとも、ジントニックをオーダーして、3人はアレンを囲む女子たちと反対側のテーブルに移動した。
「アレンさ、有名雑誌の専属モデルになったの。先月号なんて、いきなり表紙だよ」
カオルが早速、種明かしをしてくれた。
「まじ?」
「うん。それがもう、もの凄ぉーく、カッコよかったんだから」
「で、それ以来、このバーにもああいう女子たちが来るようになったんだ」
灯里もそう続ける。
「へー、あ、また来た」
そうシンジが言うったとおり、ダイビングバーにはアレン目当てとわかる女性たちの集団がまた賑やかに入ってきた。
「すみませんね、うるさくて」
とオーダーしたドリンクや料理を運んできた新顔のバーテンダーが、灯里たちに言う。
「いや。でも、儲かっていいでしょ?」
シンジが気にしていないという意味でそう冗談を言うと、バーテンダーは首を振った。
「いままでのお客さんが逆に離れていくんで、迷惑ですよ。ああいう
まあ、それはそうだろうと灯里たちは、アレンを逆に気の毒に思った。有名になるのもいいことばかりではなく、大変だ。
「アレン、辞めないといいなぁ、ここ」
心配そうに言うカオルを、慰めるようにシンジが言う。
「まあ、なるべく速やかにブームが去ることを祈るしかないな。それより、土産があるんだけど」
「え、本当ぉ?なになに?」
カオルがぱっと嬉しそうな顔になって、シンジの腕に手を回す。
「スタジオで仲良くなったダンサー仲間に教えてもらった、いま人気らしいショップのTシャツ」
そう言ってシンジは、ビニール袋から個性的なイラストとロゴマークの白いTシャツを2枚出した。
「うわ、カッコいい。灯里、どっちにする?」
同じアーティストの作らしいイラストの2枚はデザインが少しずつ違っていて、灯里はシンジに言った。
「シンジ、選んでよ」
う~ん、とシンジは考えると、赤を基調にしたイラストのTシャツをカオルに、グリーンを基調にしたイラストのそれを灯里にそれぞれ差し出した。
「うゎ~い、嬉しいっ」
シンジに選んでもらって、余計に嬉しそうなカオルが胸の前にTシャツを充ててポーズを取った。
「どう、似合う?」
「おお、似合うよ」
シンジがそう言って、握った手の親指を立てた。
「今度のレッスンで一緒に着ようよ、灯里ぃ」
そう甘えるカオルに、「いいよ」と灯里は言ってシンジにあらためてお礼を伝えた。
「ねぇ、シンジ。お土産話も訊かせてよ。どうだった、久々の本場でのレッスンは?」
眼を輝かせて訊くカオルに、シンジの表情も思い出したように生き生きと変わる。
「やっぱ、いいよ、ニューヨーク。インストラクターもいいけど、レッスン受けに来る連中の本気度が違う。なんか、俺、忘れてたなぁ、この熱気って思ったよ」
「ふぅん、そんなに違うのかぁ。いいなぁ、あたしも行ってみたいな」
カオルが羨ましそうに、頬杖をつく。
「なんか、今日のシンジの振付け、凄く新鮮だったのも、そのせい?」
そう訊ねる灯里に、シンジの眼に熱が籠る。
「ステップとか、振りとか、もう2年前と全然違うんだ。ダンスの流行の変化とかスピードが速くて、俺も最初は面食らったよ」
「いいなぁ、なんか刺激的」
「うん、最高に刺激的だったぜ、カオル。わずか1か月の間に、俺のダンサーとしての細胞が入れ替わったんじゃないかってくらい影響を受けた」
「そっかぁ、じゃあこれからも行くの?ニューヨーク」
そう無邪気に訊ねたカオルに、シンジがちょっと口ごもった。
「ん?」
ちょっとマジになったシンジの表情に、カオルが小首を傾げる。
「…実はさ、俺」
「なんで、なんで?」
本格的にニューヨークでまたレッスンを受けたいと言ったシンジに、カオルが悲痛な声を上げる。
「また、ときどき行けばいいじゃん。なにも、ずっと行かなくたって」
「カオル…それじゃダメなんだ。いま行かないと、俺ダンサーとしてこれ以上変わらない気がするんだ」
「やだ、やだよ、シンジ」
子供のように駄々をこねる、でもとても正直なカオルを可愛く思いながら灯里はシンジに訊ねた。
「どれくらい行くつもりなの、今度は?」
「決めてない」
「決めてないって…」
もう、カオルはショックで泣きそうだ。
「1年以上になると思う。だけど、それがどれくらいの期間になるかは、俺自身も予想がつかないんだ」
「そんな…」
カオルの眼はいまにも涙が溢れそうで、唇が小刻みに震えている。
「あたしも、あたしも行くっ」
カオルはそう言うと、涙が零れそうになるのを手の甲で拭って、そうシンジに宣言した。
「カオル…悪いけど、ついてこられるのは迷惑だ」
今度もシンジは、そうきっぱり言った。
「じゃあ、じゃあ、あたしもダンサーになるためにニューヨークに行く」
ばかだな、とシンジはカオルのおでこを人差し指で突く。
「お前には、歯科技工士という技術があるだろ。安定した仕事だってあんだろ」
「そんなの、そんなの、何の意味があるの?」
シンジがいなくなるのに…小さく呟いたカオルの言葉が、悲しいほど灯里の胸を打った。おそらくシンジの気持ちも。
「遊びに来ればいいだろ?」
そう慰めるように言ったシンジに、もう涙を隠そうともしないカオルが頑なに首を振った。
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