教授に頼まれた資料を産学共同プロジェクトの企業に届け、いったんアパートに帰った柊は、ボクシングの一式を持ってジムへ向かった。そこで1時間ほどいつものように汗を流し、シャワーを浴びると帰宅した。

 帰りがけに買ってきたコンビニの弁当を食べながら、暑いのにも関わらず窓を開け、帰ってくる灯里を待った。

 やがて街灯が、歩いてくる灯里の姿に長い影をつくった。

「灯里」

 柊は、思わずそう呼びかけていた。その声に気づいて見上げた灯里の小さな顔が、街灯の光に照らされて月のように輝く。約2か月ぶりに見る愛おしい姿に、柊の心が熱く反応する。

「おかえり、灯里」

「柊ちゃん」

「晩御飯はこれから?」

 そう訊く柊の手に、コンビニ弁当らしきものを認めて灯里はちょっと首を振る。

「柊ちゃんは、それ?」

 柊は手にしていた弁当を見て、「いつものことだから」と照れくさそうに言う。

「灯里は?」

「これからよ」

「後で行っていい?」

「なんで?」

 なんでって…柊はもの凄く不満に思う。2か月も会えなかったのに、灯里は何ともないの?僕は恋しくて恋しくて、たまらなかったというのに。

「話があるんだ」

「どんな?」

 そう問われて、柊は嘘を瞬時に用意できなかった。

「今日は、初日で疲れてるの」

 暗に来るな、と言った灯里が憎らしい。

「わかったよ」

 そう言いながら、柊は絶対に後で行こうと決めた。灯里が食事を終えて、シャワーでも浴びた頃に。


 そして僕を避けようとしたことを後悔させてあげるね、灯里。後で、嫌というほどに。



 自分の部屋へ入ると、灯里はまずシャワーを浴びた。浴びながら、約2か月ぶりに見た柊のことを思い出す。

 心なしか、少し痩せた?産学協同プロジェクトの3週間の泊まり込み実験は、ハードだったんだろうか?その間、ちゃんとした食事は摂っていたのかな。

 今日もコンビニのお弁当らしいし。夕飯ぐらいちゃんとしたものを食べさせたいと思って、そんな自分を灯里は笑った。

 バカみたい、自分を柊ちゃんのなんだと思っているの?優しい幼なじみを都合よく利用する、最低の女のくせに。


 シャワーを浴びてリラックスした部屋着に着替えると、灯里は冷蔵庫からつくり置いたものを出した。9月といってもまだ暑いから、今日は海老団子ときゅうりの冷製、蒸しささみとシソと茗荷のあえ物、朝お弁当をつくるときに一緒につくっておいたおにぎり。それを熱いほうじ茶とともに食べた。

 TVをつけると賑やかなお笑い番組をやっていた。熱いほうじ茶をもう一杯淹れて、大きめのクッションに胡坐をかくように座る。なんとなく、柊がやってくる気がした。


 待ってるの?どこか、期待してるの?

 お笑い番組を見ながら、自分の気持ちが少しもそれに向いていないことに灯里は気づいていた。

 耳と神経は、玄関のチャイムに向いていて。柊が嘘でもいいから、「話がある」と強引に入ってきてくれることを本当は望んでいる。そして本当にそうなったら、自分は拒むことができるのだろうか?

 胸が苦しい、柊ちゃん、どうしよう。このままではますます好きになってしまう。


 やがて。

 灯里の部屋のチャイムが鳴って。

 気がついたら、ベッドで裸で抱き合っていた。会えなかったたった2か月が、2年もの隔たりに感じるほど、恋しくて。夢中で抱き合っても、躰中をふれあっても、まだ足りなくて。

 何も考えられなくなって、ただ互いに「柊ちゃん」「灯里」と何度も呼び合いながら。



 これじゃあ、まるで恋人同士。

 躰を重ね続けると、こんな錯覚を容易にしてしまうようになるの?

 だとしたら、なんて幸福で悲しい錯覚。

 覚めることを自覚しながら見る夢のようなもの。

 せつなくて、苦しくて、ひりひりするほど愛おしい。



 灯里、僕のためにいまだけ存在するキミ。

 この刹那が過ぎれば、すり抜けてしまう心。

 それならこの一瞬一瞬を永遠に繋いでいくしかないよね。

 キミが嫌と言うまで、キミが嫌と言ったとしても。

 このまま快楽と絶望の海に溺れ続けよう。

 僕は、キミのためなら卑怯で最低な男にだってなれるから。



 そして。

 柊の胸に頬を預けながら、灯里は気怠い幸福感に包まれる。お互いの汗と熱がまだ引かないのを感じながら、見つめ合う。眼が合って微笑んでいると、もしかしたらと都合のいい期待を抱いてしまう。ふたりは互いにそんな自分自身を笑いながら、それでも優しいまなざしを交換し続ける。

 柊の手が、胸に抱いている灯里の頭を撫でて、灯里はその満たされていく安心感に戸惑う。

「不思議…」

「ん?」

「あたし、頭を撫でられるの、柊ちゃんが初めてかもしれない」

「…灯里」

 そう言う灯里に、柊はせつなさと愛おしさが満ち潮のように押し寄せてくる。

 そうか、灯里は母を知らない。父と娘の愛情交換も、普通とは違う世界で育ってきたんだ。

「撫でられるの、好き?」

「…安心する」

 そう言ってさらに頬を摺り寄せてくる灯里が可愛くて、柊はまた頭を撫でてやった。


「ねぇ、柊ちゃん。泊まり込みの実験、大変だった?」

「どうして?」

「だって、痩せたから」

「そう?」

「うん」

 心配そうに見つめる灯里に、柊は温かな気持ちになりながら、思い出したように苦笑いした。

「ずっとデータを記録し続けなきゃいけないから、何人かで交代で寝るんだけど、仮眠室のベッドが硬くて狭くてちっとも寝た気がしないんだ」

「そう」

「僕は男だからいいけど、星奈は…ほらあの背の高い女の子、彼女は大変だったと思うよ」

「女性でも、仮眠室なの?」

「うん。彼女は、それを最初から納得して参加表明したからね」

「頑張り屋さんなのね」

「うん、星奈は頑張り屋で優秀でもある」

 そう言って柊は、灯里の頭を再び撫でる。灯里が猫のように伸びをしてから、柊の体に手足を巻きつけた、とても自然に当然のように。

 だから柊は、灯里の額に優しくキスしながら訊ねた。


「灯里は、どうしてたの?この夏」

「いつもと変わらない。でもこんなに長いお休みは初めてだったから、お買い物に行ったり、模様替えしたり楽しかった」

 そう言えばソファのカバーが新しくなって、お揃いの柄のクッションがふえたな、と柊は微笑ましく思う。

「旅行は?旅行は行ったの?」

 さりげない風を装って、柊が訊きたかったことを口にする。

「うん」

 さりげない風を装って、灯里も答える。

 ………。

 少しの沈黙の後、再び柊が訊く。

「どう…だった?」

「どうって…楽しかったよ、それなりに」

「それなりに?」

 そう繰り返した柊が、安心したように笑った。

「なによ?」

「いや」

 また柊は灯里の頭を撫でて、優しく囁く。

「もう、行くなよ。同僚との旅行なんて」

「どうして?」

「どうしてって…」

 汗と熱が、少し引いたのを感じた。

「行きたくなったら、行くと思う」

「灯里…」

「そりゃ、僕に行くなよ、なんて言う権利はないと思うけど」

 柊が優しさで言った言葉が、灯里の胸に小さな棘のように刺さった。

 ………。

 また僅かな沈黙が過ぎた後、灯里はぽつんと言った。

「写真のモデルになってくれないかって言われた」

「誰に?」

「高橋さん…て、わかる?」


 ああ、わかるさ。灯里をじっとりした眼で見ていた、あの大柄な男だろ。写真のモデルだって、冗談じゃない。それはふたりきりになる口実じゃないか!

 キミはバカか、そんな簡単なことがわからないなんて。無防備にも程がある、灯里、僕は許さない。

 僕の灯里を…いや、僕のものではないからこそ、絶対に奪われてはならない。誰かに灯里を独占されるくらいなら、いっそ…。


「断ったんだろ?」

「…まだ…」

「断れよ!」

 急に声を荒げた柊に驚いて、その胸から頬を離すと灯里は柊の顔をまじまじと見た。

「それこそ、そんな権利なんて…」

「断われ、灯里!」

 柊ちゃん?どうしたの、いきなり。

「灯里、両手を出して」

「?」

「早く、言うことを訊くんだ」

 そう言った柊の眼がこれまでとうって変わって、怒りを含んでいる。灯里は、怖いと感じた。

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