故郷の駅から出ると、頭上から容赦なく降り注ぐ夏の光線に、灯里は目眩を覚えそうだった。ビルや行き交う車、汗を吹きながら歩く人々が、アスファルトから立ち上がる熱に蜃気楼のように揺らいで見えた。

 バスを待つ間も日傘を通して、太陽の熱がじわりと体力を侵蝕する。日焼け止めは、もう汗ですっかり流れているだろう。

 やっと来たバスは、打って変わって冷房が効きすぎ、灯里は薄手のカーディガンを持ってきてよかったと思った。

 市街地を抜けると、窓からの景色は森や土手、田畑の広がりに変わり、心が自然にほどけてくる。ゆったりとした気分で車窓からの眺めを楽しみながら、灯里は三宅の言葉を思い出していた。


「最近、妻の見舞いに行くとね」

 料理教室が終わった後、ちょっとお茶にでもつき合って、と誘われた喫茶店で三宅は開口一番そう言った。

「前よりも話しかけられるようになったんだ」

 そう嬉しそうに三宅が言う。

「そうなんですか?」

「うん。以前は、なんと言って謝ればいいのかと懺悔の言葉ばかりを探していた気がする」

 灯里が頷いてその気持ちに理解を示すと、三宅は少し照れたように続けた。

「でもいまは、自分の日常を話すようになったんだ。仕事でこんなことがあったとか、この間観た映画が面白かったとか、まるで恋人時代や夫婦で暮らしていた頃にしていたような会話なんだ」

 三宅が話しかける、ではなく会話と言ったのが興味深かった。おそらく無意識に、三宅の中では奥さんと会話している感覚なのだろう。

「なんか、いいですね。そういうのって」

 灯里がそう言って微笑むと、三宅も嬉しそうに微笑んだ。

「料理教室の話もね、一番最初にしたときに、妻が驚いている気がしたんだ」

 なにか反応があったのかと問うような表情になった灯里に、三宅は首を振りながら、それでも楽しそうに続ける。

「もちろん、反応はないよ。でも、なんというか、そんな気が確かにしたんだ。そして見舞いに行くたびにそうしているうちに、妻の表情がやわらいできたような気がするんだ」

「そうなんですか?それは、よかったですね」

「うん。看護師さんや介護士さんも、近頃、奥さま体調がいいみたいですよって言ってくれるんだ」

 三宅は目を輝かせながら、そう言う。

 たとえ意識がなくとも、身体を動かせなくとも、意識下では三宅の声は届いているのだろう。心が壊れてしまうほど愛おしかった人に、声をかけられることはきっと何よりの癒しでリハビリなのだ。

「目を覚まされるといいですね、奥さま」

「いやぁ、わからないよ。でも今度行ったときには、思い切ってキミが目を覚ましたら僕がハンバーグをつくるよって言ってみようと思うんだ」

 希望は人を救う。救われるのは三宅であり、彼の妻だ。三宅の妻が目を覚ます日が、本当に近々来るような気がした。そしてそうなればいいと、灯里は心の底から願った。



 バスを降り、10分ほど歩いて長期療養病院に着いた。

 もうすっかり通い慣れた少し古びた病院に入ると、冷房のせいだけではなく館内の空気はひんやりと沈んでいた。スリッパに履き替え、持参のマスクをして、備え付けの消毒液を手に落とす。遠くで、叫びとも呻きともつかない声がする。

 努めて明るい雰囲気を出そうとして、照明や壁床の色に気を使ったり、季節感を出すディスプレイで工夫してはいるが、患者が通院する病院とは違う入院療養患者ばかりのしんとした雰囲気はやはり独特だ。

 リツは3階の4人部屋に入っていたが、その部屋の全員が意識なく寝たきりの状態だ。ベッドは窓際で、外から自然光が入り、景色が見渡せるのが灯里にとってはせめてもの救いだ。見舞客があると、スタッフが気を使ってベッド周りのカーテンを閉め、個室のようにしてくれる。

「お祖母様」

 灯里は、布団から覗くリツの枯れ枝のようになってしまった腕を摩りながら言った。

「灯里です。気分はどう?」

 答えの代わりに、ぜいぜいという荒い呼吸と意味のない呻き声が溢れ続けている。すっかり白髪になってしまった髪は伸びて乱れ、よく見たら爪も伸びていた。

 灯里は看護師に断りを入れてから、リツの身体を熱いお湯に浸したタオルで拭き、保湿クリームを塗った。それが済むと、両手両足の爪を慎重に爪切りで切った。

「ごめんなさい、お祖母様」

 灯里は三宅のように、日常の報告をすることができない。脳梗塞で倒れたリツを裏切るような形で、灯里は東京の大学を受験し、家を出てアパート暮らしをすることを告げ、料亭を捨てた。

 それはリツにとっては、リツ自身を捨てるに等しい所業だったろう。後悔はない、でも深い悔恨にさいなまれ続けている。



「お姉ちゃん、繭里は勝哉さんが好き。お姉ちゃんは東京の大学に行きたいんでしょ?行きなよ、いま決断しないと、一生叶わないよ」

 繭里の言葉は、灯里の背中を押した。そして灯里が取った行動は、勝哉の怒りのスイッチを押したのだ。

「そんなこと、そんなこと、女将さんが許すはずがない。灯里お嬢さんは、女将さんの意識がないのをいいことに裏切るんですか?見捨てるんですか?『北賀楼』を、女将さんを、俺を!」

 胸に突き刺さった言葉はいまも消えない。どんなに自分は裏切ったのだと認めても、灯里自身が自分を許していないからだ。

「パパは、わかってくれたよ。勝哉さんも受け入れてくれた。だから、大丈夫」

 繭里はそう言ったけれど、師匠である一史に懇願されて一旦は頷いた勝哉が、最後の最後で決壊した。悪いのは勝哉ではない、そこまで追い詰めた自分なのだ。

 青い鳥を探すはずだった東京への旅立ちは、悲しい永遠の放浪の幕開けになった。灯里に、帰る故郷も家ももうない。

「ごめんなさい、お祖母様」

 やはり謝ることしかできないまま、灯里は病室を後にした。

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