第6章 遠 雷
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遠くで、雷が鳴っていた。
実験研究室から事務棟へ向かっていた柊は、ゴロゴロと不気味な音を轟かす遠くの空を見やった。すぐ上の淡い青空に浮かぶ雲とは違う黒々としたそれは、生き物のように形を変えながら不吉に
雨になりそうだ、と目を凝らした柊は、遥か先で視界を遮る激しい雨を認めた。
ああ、雨が迫ってくる。
こんな景色を、どこかで見た気がする。
そうだ、あれは大学2年生の夏。同級生と2人で出かけた気ままな夏休みの自転車旅行だった。自転車に寝袋と簡易テントを積んで、僅かな着替えと日用品だけをデイバックに詰めて1週間の旅に出た。行き先は気の向くまま、宿泊先も決めず、泊まるところがなかったら野宿するつもりだった。
その旅の途中で、今日のように遠くの空が突然真っ暗になり、やがて激しい雨が背中を追いかけてきた。両側が田んぼの一本道を、同級生と一緒に必死で自転車を漕いだ。
「うわぁ、柊。ダメだぁ、捕まった」
背後でそう声がすると同時に、激しい雨に飲み込まれた。ふたりはうわ~と意味をなさない叫び声を上げながら、同時に大声で笑い合った。びしょ濡れになりながらの小さな夏の冒険は、ふたりを童心に還らせのだった。
懐かしい、と柊は思った。
けれども抗いがたいのは、あの通り雨ではなく、追いかけてくる運命の方かもしれない。それは心躍る小さな冒険などではなく、突きつけられる現実で、突然に心の準備もない人間を飲み込んでいく。気づいたときにはびしょ濡れになって、そして現実となった運命は決して童心に還してくれることなどないのだ。
「あの、総務課はどこでしょうか?」
空を見上げていた柊に、そう声をかけてきたのは見知らぬ女性だった。
20代前半と思われる大人しそうなその女性は、白い半袖ブラウスに小花柄のひざ丈スカート、キャメルのショルダーバッグとベージュのサンダルという格好で立っていた。
肩までの髪は真っ直ぐで黒く、丸く大きめの瞳を除けば、とても真面目で平凡な印象だった。
「総務課ですか?」
思わず柊はそう訊き返した。
「はい」
総務課の事務棟は、いまいる場所からだと少し説明がしにくい、棟と棟を繋いだ渡り廊下の先にある。だから明らかに部外者とわかるその女性に、柊は言った。
「案内しましょうか?僕も総務課がある事務棟へ行くので」
女性の顔がぱっと明るくなった。笑うとエクボができて、平凡な印象が一転、可愛らしくなる。
「ありがとうございます。お願いします」
女性を案内して、教務課で夏休みの産学協同プロジェクト関連の書類を出し、柊は実験研究室へ戻った。
「ねぇ、柊。お昼どうする?」
やがて正午近くになり、星奈がそう訊く。
もうすでに大学は夏休みに入り、学食は休業となり、まだ休みに入っていない職員のためにかろうじてカフェテリアと売店が空いていた。
「カフェテリアに行く?」
と柊は星奈に訊いた。
「う~ん、職員が多いし、あそこのメニューがっつり食べられるものがないじゃない?」
星奈らしい答えに苦笑しながら、柊は言った。
「じゃあ、売店で弁当でも買って学食で食べようか?」
「そうだね。じゃ早く行こう、お弁当売り切れないうちに」
夏休み中だから、揃えてある弁当の数も多くはないはずだ。そう思って柊は、星奈と売店へ急いだ。
外に出ると、雨が本降りになっていた。慌ててふたりは、傘を取りに実験研究室に戻ることとなった。
それでも売店で、星奈はカツ丼、柊はのり弁をゲットすることができた。
部活か何かで来ている一部の学生がまばらにいる学食で、柊は星奈と向かい合って弁当を食べた。食べ終えて、それぞれ冷たいお茶と缶コーヒーを買って、実験研究室に戻るところだった。
事務棟から続く第2校舎2号館の入口に、ぼんやり立っている人影が見えた。
「あれ?」
という柊に、星奈がどうしたのかと訊く。
「あの
「なに?知り合い?」
星奈にさっきの事情を簡単に話して、その人影に近づいた。
「キミ」
と声をかける柊を認めたその女性が、ほっとしたような表情になる。
「あ、先程はありがとうございました」
「どうしたんですか?迷った?正門はこの次の建物を出て、すぐそこですけど?」
「あ、いえ。そうじゃなくて…」
そう言う彼女を見た星奈が、ああ、と言う。
「もしかして、傘持ってない?」
彼女が情けなさそうに俯いた。
「そうか、雨、急に降ってきましたものね」
そう言うと柊は、持っていた傘を彼女に差し出す。
「これ、使って」
「え、でも…」
「大丈夫、コンビニのビニ傘だから。返さなくていいですから、使って」
それでも戸惑う相手に、星奈も言った。
「あたしたち、もう一本あるし。研究室、すぐそこだし」
「あの、おふたりは教授ですか?」
実験用の白衣を着ている2人を見てそう訊く彼女に、柊は笑って傘を押しつけるように握らせた。
「まさか。僕らは院生」
「院生?」
「大学院生ってこと。ほら、持ってってください。凄いどしゃぶりだから」
「あ、ありがとうございます」
と彼女は深々と頭を下げた。
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