ほの明るい体育館が見える。

 その明るさの中心に、新体操のコスチュームを着た灯里がいた。それは真っ白なレオタードで、胸元と裾周りに銀糸とスパンコールが羽のようにあしらってあり、シンプルだけれど気品あるデザインが灯里にとてもよく似合っていた。

 何処からか美しく繊細な旋律が流れ、灯里の顔が天井を仰ぎ見た。そして次の瞬間、しなやかに可憐な躍動感を持って、灯里が高く高く宙に舞う。手にしているのは、真っ白なリボンだ。

 灯里の細い、でも筋力のある足が床を蹴って、180度の開脚でジャンプする。それを追うように、リボンが灯里の周りで優雅な弧を描く。


「お姉ちゃん、綺麗…」

 繭里の声が聞こえた。

「北川灯里って可愛いよな」

「レオタード姿とか、めちゃエロいし」

 男子高校生の声が聞える。


 やめろ、そんな眼で灯里を見るな。

 灯里に穢れた視線を注ぐのはやめろ。

 灯里はこんなにも純真で無垢なのに、邪な考えで汚すのは止めてくれ。

 ねえ、灯里。僕がキミを守ってあげる。

 この世の汚らわしいもの、邪なものの全てから。

 そうだ、その真っ白なリボンでキミの全身を包んで隠してしまおう。


 軽やかに踊っている灯里に、それまで優雅に弧を描いていたリボンがするするすると巻きついていく。まるで柊の意思を、忠実に実行するかのように。細い足首からふくろはぎへ、きゅっと小さく締まった膝から太腿へ、小さな形良い臀部からほっそりとした腰とウエストへ、贅肉のないお腹から2つの微かな膨らみへ、やがて鎖骨からすらりと伸びた美しい首へと。

 両足両手の自由を完全に奪われた灯里は、床にゆっくりと倒れる。その灯里の下へ、柊は受け止めるためのふわふわの羽毛を敷いた。真っ白に重なる羽毛の上に、ふわりと落ちる灯里。

 柊はとても満足した。


 美しい、灯里、なんて綺麗なんだ。

 これですべての邪悪なものから、キミを守ってあげられる。

 キミはもう、何も心配しなくていい。

 僕の腕の中で、安心して眠って。

 僕の灯里、僕だけの灯里。誰の眼にも、誰の手にも決して触れさせない。



 ✵ ✵ ✵ 


 七夕の夜だった。

 高校生の灯里は、まだ中学生の繭里と柊と、〈七夕まつり〉で賑わうメインストリートを歩いていた。みちには華やかな吹流しや提灯、くす玉や短冊が飾られ、3人とも浴衣姿で縁日を覗いたり、ステージや路上で行われるイベントを楽しんでいた。

「ね、金魚すくいしよ。あ、綿菓子も食べたいなぁ」

 今年も繭里は、子供のように喜びはしゃいでいた。

「繭里、待って。そんなに走ったら、見失ってしまう」

 そう言って、灯里は繭里の背中を追いかけた。

 混雑する人波の中へ、繭里の背中がどんどん小さくなって吸い込まれていく。灯里は慌てて追いかけるが、いつもは灯里より足の遅いはずの繭里が捕まえられない。とうとう繭里の背中は、灯里の視界から消えてしまった。

「もう、繭里ったら。こんなに混雑しているところで逸れたら、見つけられないのに」

 弱虫で独りにされるのが大嫌いな可愛い妹を、灯里は必死で探した。

「どうしよう、柊ちゃん。繭里が見つからない」

 そう振り向いた灯里の後ろに、柊はいなかった。


 独りになったのは、灯里だった。

 突然、どうしようもない恐怖が、込み上げてくる。

「繭里、繭里?柊ちゃん、柊ちゃん?」

 灯里は、夢中になってふたりを探した。人混みを掻き分けて、細い路地の方まで。



 突然、灯里の右手首を掴んだ者がいた。

「灯里お嬢さん」

 勝哉だった。

「あ、勝哉さん。繭里と柊ちゃんと逸れてしまって。ふたりを見かけなかった?」

 そう訊く灯里を、勝哉はじっと見ていた。

「ねぇ、勝哉さん。繭里と柊ちゃんを、一緒に探して?」

 灯里の手首を掴む勝哉の手に力がこもった。反射的に、灯里は腕を引こうとする。

「なぜ、逃げるんです?」

 逃げてるわけじゃ…そう言いたかったが声が出なかった。

「灯里お嬢さんは、俺の許婚じゃないですか」

 それはお祖母様が勝手に決めただけのこと。あたしは、あたしは…。

 勝哉が掴んだ手にぐっと力を込めると、灯里を強く引き寄せ、その胸にかき抱いた。

「や、離して」

 灯里は必死に抗った。

「抵抗するなよ。灯里は俺のものなんだ」

 低くドスが効いた、オスの声がした。



 ✵ ✵ ✵


 いや、いやだっ。絶対に嫌!

 自分をがんじがらめにする腕が怖い。頬にかかる熱い息が気持ち悪い。

 好きだ、俺のものだと繰り返しながら、躰をまさぐる手に恐怖と嫌悪感が爆発しそうになる。


「いやぁ~っ!止めてっ、離して…っ」

 灯里は夢中で、そう叫んだ。

 そして気がついた。自分を優しく抱きしめて揺さぶる両手。

 ああ、これは愛しいひとのぬくもりだ。

「灯里、灯里?」

「しゅ、柊ちゃん?」

「どうしたの?僕だよ」

 ああ、良かった。まだ眼を開けられないまま、灯里の躰から力が抜けた。

 恐る恐る眼を開けると、触れる近さで、柊の愛おしい顔がある。心の底から安堵した。

「灯里、汗びっしょりだよ?」

 まだ震える両手で、柊の腕を掴んだ。

「怖い、怖い夢を見たの」

「大丈夫、僕が傍にいるから」

「ほんと?」

 縋りつくような眼で覗き込む灯里に、心を再び鷲掴みにされながら柊は囁く。

「大丈夫、安心して。僕が灯里を守ってあげる、いつだって」

 そう言って柊は灯里の頭を撫でた、まるで幼子にするように。


 窓から、オレンジ色に燃える夕陽が見える。

 止んでしまった雨に、柊は心の中で舌打ちをする。

 でも、ふと何かを思いついたように、柊は再び灯里の頭を抱き寄せた。オレンジの光線が差し込む窓からその視界を遮るように。

 そして彼女の耳朶にくちゅ、と舌先で雨音を落とす。

「灯里、今日の雨は止まないよ。だからこうしていよう、まだもう少し」

 

 そう、今日の雨は止まない。

 僕が、そう決めたから。

 決めたからね、灯里。

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