ⅵ
人は、悲しい生きものだ。
許すことができない事実を抱えながら、許せない自分を責める。
相手を恨むことができたら、どんなに楽だろう。でも恨むべき相手が、最愛のひとだったとしたら?
人は過去を消せないし、それを抱えて生きていかなければならない。
たとえ思い出すのも苦痛な過去だったとしても。
過去は現在に繋がり、未来すら静かに侵食する。
灯里は三宅の話を訊いて、たまらなく淋しかった。
三宅も、三宅の妻も、淋しすぎると思った。本当はお互いを想い合っているのに、それが不幸にすれ違う。いまも、すれ違ったまま、ふたりの
せめて心を置き去りにできたら…そう考えて灯里は、ハタと思い当った。
心を置き去りにしたフリで愛しい人に抱かれる罪は、それこそ許すことなどできないほど重い。いつか、それは非情な運命の仕返しとなって自分を罰するだろう。
リツを、定められた宿命を、愛しい幼なじみを、たくさんの周りの人と自分自身を裏切ってきた罪は、見えない力によって正しく罰せられなければならない。そしてそれこそが、あたしが本当に望み欲している安寧なのかもしれない。
「一杯だけ、つき合ってくれないだろうか」
新幹線を降りた三宅は、そう言った。
三宅が連れて行ってくれたのは、小さな小料理屋だった。濃紺の暖簾をくぐり、艶のある天然木の引き戸を開けると、カウンターとテーブル席が3つあるだけのこじんまりした店だった。
清潔に拭き清められた白木のカウンターに、三宅と並んで座る。
「生ビールでいいかな?」
そう訊く三宅に、灯里は頷いた。料理は常連らしい三宅に任せた。
突き出しの分葱と薄揚げのヌタがおいしくて、続く品も楽しみになった。
「北川さんは、馬肉って食べたことある?」
「はい、馬刺しなら」
ほぉ、と灯里の実家の家業を知らない三宅が眼を見張る。
「ここ、それがおいしいんだけど、試してみる?」
「はい、久しぶりだから嬉しい」
素直に笑う灯里に、三宅も嬉しそうな表情になる。
「日本酒は飲める?」
「あまり得意じゃないですけど、少しなら」
「じゃあ、ビールの後は飲み口のいい冷酒にしようか」
そのほかにも、灯里の好みを訊きながら、ウニの殻焼きや白レバーの炒め物などを頼んでくれた。この人は日本酒好きだな、と灯里は思った。
「でも、意外です」
「なにが?」
「だって証券会社時代、三宅課長は飲み会に誘っても、いつも断るって有名だったから」
「元々、お酒は好きなんだよ。でも、あんなことがあってからは、誰かと飲みに行くことはなくなった」
「そうですか…ごめんなさい」
気まずそうな顔になった灯里に、三宅は優しい眼で言った。
「気にしなくていい、私も気にしないから」
それからしばらく灯里と三宅は、何気ない会話をしながら、お酒と料理を楽しんだ。
小一時間ほど経った頃、三宅がぼそりと言った。
「北川さん、図々しいお願いだとは思うんだが、ときどきこうしてお酒につき合ってもらえないだろうか?」
思わぬ申し出に、躊躇して答えが見つからない灯里に、三宅は申し訳なさそうに言う。
「変な意味じゃないから。なんと言うか、心が寒くてね。ときどき、人恋しくなる」
その思いは灯里にもわかる。でも、だからと言って、簡単には承諾しかねる申し出だ。
「あの…」
「うん?」
「三宅課長は、いつも食事はどうしてるんですか?」
意外な質問に、今度は三宅が真意を測りかねたようだった。
「こんな風に外食か、コンビニの弁当かな?」
そうですか、と灯里はしばし考える。
「なぜ?」
「あたしの祖母が、あの入院している祖母が昔よく言ってたんですけど。きちんとした食事は、身体だけじゃなくて、心も健全にするって」
なるほど、と三宅は淋しそうに笑った。
「いまの私は、食事も生活も心身も確かに不健全だ。だから淋しいなんてことを、ずっと年下のキミに臆面もなく言えるのかな?」
誤解されそうになって、灯里は慌てて言った。
「奥様がもし眼を覚まされたときに、悲しまれると思うんです。だって奥様は、課長のために毎晩、バランスの良い食事をつくって待っているような方だったんですよね?」
「妻が…眼を…覚ます?」
どこか希望を抱いていない眼で、三宅がそう呟いた。
「そんな日が、来るのだろうか」
そう言って、三宅は冷酒をもう一本追加で頼んだ。
「実は、妻の両親に、もう離婚してやってくれと言われているんだよ」
「そう…なんですか?」
灯里が驚いて訊く。
「ああ。眼を覚ますかどうかわからない娘を、ずっと待っているのは気の毒だからと。本当は私のことを殴っても罵っても足らないだろうに、再婚して子供をつくったらなんて言ってくれてね」
「優しいご両親なんですね」
「ああ。だから尚更、自分の罪の重さに時折、耐えられなくなる」
責めてくれれば、むしろ救われると、三宅は言いたいのだろう。
「課長は、どうしたいんですか?」
その問いに、三宅の顔が苦しそうに歪む。それはそうだろう、諦め切れるくらいなら、5年もの間見舞いに通わないだろう。でも、目を覚ます保証は、ないのだ。
「おかしなもので、眠っている妻の顔を見ていると、楽しかったことしか思い出さないんだ。つき合い初めによく行った場所だの、通っていた安いけどおいしい居酒屋、ケンカして仲直りのために買ったペンダントを彼女がずっと大切にしてくれてたこととか、結婚して初めてつくってくれたのが和風ハンバーグだったこととか、ね」
「仲の良いご夫婦だったんですね」
「彼女が私にしてくれたことの半分も、私はしてやれなかった気がする」
そう言う三宅に、灯里は思わず言っていた。
「課長。もし課長に奥様が目を覚ますのを待つお気持ちがあるなら、後ろ向きの待ち方じゃなくて、前向きに待ちましょう?」
前向き?と三宅が怪訝な顔をする。
灯里自身も、なぜそんな発想が出てきたのかわからなかったが、こう言っていた。
「料理を習いに行きませんか?そうしたら、課長の毎日の食事も改善されて、課長のことを心から思っている奥様も安心されるはずです」
「妻が…いまでも…私のことを思ってくれていると、キミは思うの?恨んでいるのではなく」
正直、それはわからなかったけれど、いまの三宅に必要なのは、慰めではなくて希望だと灯里は思った。だから、三宅の目を真っ直ぐに見て答えた。
「はい。奥様なら、きっと。そう信じましょう?そして目標を持ちましょう。奥様が眼を覚まされたときに、新婚時代の思い出の和風ハンバーグを、今度は課長が奥様につくってあげられるように」
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