第4章 秘 密
ⅰ
ゴールデンウィークの連休最後の日、柊は東京へ戻ってきた。
一旦、荷物をアパートに置くと、土産を持って柊は灯里のマンションへ向かった。
土産は故郷の銘菓で、柊は散々悩んだ結果、あえて生まれ育った地を嫌でも思い出させるものにした。どこか本心を隠したまま苦しんでいるようにも見える灯里の仮面を、何をきっかけにしてでもいいから、剥ぎたいと思っていた。
チャイムを鳴らし、程なくして玄関のドアを開いた灯里の部屋から、なんだかいい匂いが漂う。灯里は白いエプロン姿で、その初々しい可憐さに柊は仮面を剥いでやろうと目論んだ出鼻を挫かれた。
「柊ちゃん」
「いま、帰ってきたんだ」
「そう」
すぐに柊を招き入れられないのは、迷いがあるからだ。
ほんの数日間なのに、柊と離れている時間が自分でも驚くほど長くせつなく感じられた。逢いたさと愛おしさが募って、自らの躰を両手で抱きしめた。ぬくもりを知らなければ忘れたフリをして過ごせたあの年月が、ぬくもりを知ったいまは、どうして離れていられたのか信じられないほどだ。
その反面、灯里の中には、自分からはじめた柊との関係をこのまま続けることへの後ろめたさと、終わらせることへの恐怖感が芽生えはじめていた。
繭里と自分のために子犬を飼ってくれた柊ちゃん、お母さんの卵焼きを何も言わず渡してくれた柊ちゃん。そのほかにも、これまで自分はどれだけこの年下の幼なじみに甘えてきたんだろうと思い返された。断れない彼の優しさを利用している自分に嫌悪感を募らせながら、柊に抱かれて快感を教え込まれることへの抗いがたい渇望。自分はなんて弱くて卑怯なんだろうと、灯里は思う。
「お土産があるんだ」
とうとう柊の方から、半ば強引に灯里の部屋へ上がってしまった。
そしてダイニングテーブルやキッチンに並べられた、たくさんのジップロックやフリージングパックに目を見張る。なるほど、いい匂いの正体はこれか、と柊は思った。
「晩御飯用のストックや、お弁当の常備菜をつくってたの」
灯里が慌てて、それらを片づけながら言う。
「休みの日はいつも?」
「まぁ、大体ね」
灯里らしい家庭的でつましい行動に、柊は思わず笑みが溢れる。
そして思い出したように、お土産の箱を差し出した。
「これ…」
「うん、懐かしいでしょ?」
それは灯里の実家である料亭にも出入りしている老舗菓子屋の和菓子で、土産物としても有名なものだ。故郷を嫌でも思い出させるそれを、灯里は黙って受け取った。
柊は灯里の反応を密かに窺うが、毎月のように祖母の見舞いにひっそり帰郷している灯里に動揺はない。
「お茶、淹れるね」
そうなんでもないように言って、やかんに水を入れると火にかけた。お湯が沸く間に、箱の包装紙を丁寧に剥がして畳む。そしてお皿に菓子を乗せて、フォークを添えて柊の前に置いた。
それから茶葉を入れた急須と茶碗を用意して、お湯が沸くとまず茶碗にそれを注ぐ。指で温度を確かめるようにして、茶碗のお湯を急須に移した。それから待つこと約1分、灯里は急須のお茶を茶碗に注いで差し出した。
その一連の所作を見て、まだ小学生の灯里が、柊の家でお茶を淹れたときの母の驚きを思い出した。
「灯里ちゃんは、いつもそんな風にお茶を淹れてるの?」
一瞬きょとんとして、それから灯里は赤くなった。
「お祖母様にはナイショ。本当は湯冷ましに注いだのを急須に入れるんだけど、あたしは独りのときはいつもこうして簡単に済ますの」
「そうじゃなくて…」
母が絶句していた。
だいたいいまどきは、大人でも平気で熱湯をそのまま急須の茶葉に注ぐ。茶碗をあらかじめ温めておくなんてこともしない。それを灯里は湯冷ましの代わりに茶碗にお湯を注ぐことで、茶碗を温めると同時に、急須に入れたときのお湯の温度を煎茶に適した約80℃になるようにしたのだ。しかも温度は指の感覚が覚えていると言う。
こうしたことを小学生で事も無げにやってのけたのだから、柊の母が驚くのも無理はない。
本当に灯里はちっとも変わらない、と柊は思う。素直で真っ直ぐで、凛としていて純粋だ。
「灯里は変わらないね」
思わずそう言った柊の言葉に、灯里の表情が曇る。
それは、柊ちゃんの幻想だよ。
「灯里。今度、帰ってみないか?僕と一緒に」
灯里は一瞬、驚いたように柊を見たが、激しく拒絶するように頭を振った。
「どうして?」
「あそこはもう、あたしが帰ってはいけない場所なの」
帰ってはいけない場所?それは帰りたくても、帰れないってことか?
「ねえ、灯里。教えてくれないか」
その問いの意味を正確に察して、灯里はいっそう頑なに首を振る。
何があったかなんて言いたくない、言えるわけない。
わかったよ、灯里。キミから話してくれるまで、僕は待つよ。
柊はふぅ、とため息をつくと、安心させるように話題を変えた。
「そうだ、灯里。見せたいものがあるんだ。一緒に来てくれる?」
「何?どこへ?」
「一緒に来ればわかる。すぐ近くだから、何も持たなくていい」
そう言って立ち上がる柊を怪訝に思いながら、灯里は白いエプロンを外した。
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