ⅵ
「だから、魔性の女なんだって」
酔いで目元を赤くしたカオリが、バンザイをしながら言う。その手を下げさせながら、シンジが言った。
「わかった、わかった」
「魔性の女なんて、言われたことないよ」
灯里は困ったような顔で、カオリとシンジを交互に見る。
「だってあの男、合コンで灯里狙いだった男…」
「お前ら、合コンなんてしたの?いつの間に?」
そう訊くシンジを無視して、カオルは灯里に詰め寄るように言う。
「あの男の友達ってヤツに、しつこく灯里のメアド訊かれたよぉ」
「ごめん」
「で、お前、教えたのかよ?」
カオルが今度はシンジの腕を、ばしばし叩きながら言う。
「だって。その友達ってヤツが結構イケメンだったんだもの」
「カオル。お前、友達売ったのかよ」
そう言うシンジに、灯里が思わず苦笑する。
「友達売るって…シンジ。大袈裟、あはは」
「悪かった、ゴメンね、灯里。ホント大丈夫だったの?あのストーカー男」
「ス、ストーカーぁ?」
今度は、シンジが素っ頓狂な声を上げた。
「ストーカーじゃないよ。ちょっと、しつこかったけど」
「まだ、しつこくされてんのか?」
シンジが心配そうに訊く。
「ううん。もう、大丈夫だと思う」
あの夜、しつこくつきまとっていた男を、繰り出した拳で触れもせずに撃退してくれた柊のことを灯里は思い出した。子供の頃から頭が良かったが運動神経も良い方で、中学の時はバスケ部だった柊。進学校だった高校時代は、受験勉強に集中するため部活はしていなかったけれど、それでも朝ジョギングをする姿を見かけたりしていた。
その柊がいまはボクシングだなんて…でもひたむきにサンドバッグを狙う姿は柊らしく、灯里には容易に想像できた。
幼い頃から知っている柊の逞しくなった姿を思い浮かべている灯里に、シンジが言った。
「なんかあったら、俺に言えよ」
そう真顔で心配するシンジに、カオルが言う。
「ほらっ、ほらね。シンジだって灯里のこと心配するでしょ?だから、魔性の女なのっ」
「あー、わかった、わかった。カオル、もう酒は止めとけ」
「大丈夫っ!」
そう拗ねたようにカオルは言ったけれど、シンジはバーテンダーに手を挙げて、3人分の水を頼んでくれた。
「ほら、カオル。水飲んで」
「う、うん。ありがと」
結局、素直にシンジが差し出したグラスを受け取るカオルを見て、灯里は我儘も言うけど可愛い
ビスタチオの殻を剥いて口に放り込みながら、シンジが訊いた。
「ところで、引越しの方はもう片づいたの?」
「うん、やっと、何とか」
「新しい仕事、はじまったばかりだろ?どう?」
「うん、証券会社と違って、なんていうか穏やかっていうか余裕がある気がする」
「ふ~ん、カッコいい人とかいる?」
そう訊くカオルにシンジが突っ込む。
「カオルは、二言目にはそれだな」
「だって、あたしなんか職場が実家の歯医者だよ。出会いがめちゃめちゃ、少ないんだから。就職先、間違えたよ」
「なに、贅沢言ってるんだ。食いっぱぐれなくて羨ましいよ」
「あたしは、才能で生きていけるシンジのほうが羨ましいなぁ」
「俺なんて、フリーターみたいなもんだから。安定してるほうが絶対いいよ」
「そうかなぁ」
「あたしだって、2年間は契約職員みたいなもん。ボーナスなんてないんだから」
と灯里も言う。
「じゃあさぁ、なんでお給料もボーナスもいい証券会社、辞めちゃったの?」
うん、と曖昧に灯里は笑う。
「もしかして、不倫とか?」
「おい、カオル」
とシンジがたしなめるが、悪気のないカオルは無邪気に続ける。
「だってぇ、証券会社とか銀行とか、そういうのありそうじゃない?」
「残念ながら、そういう色っぽい理由じゃないよ」
灯里は苦笑しながら言った。
もっと別な理由。でも、言えないことなんだ。
ごめんね、カオル。
これが最後の想い出づくりになるからなんて、恥ずかしくてとても言えない。
「ま、取り合えず、灯里の新しい人生に乾杯しようぜ」
そうシンジが取り成すように言う。
「うん。あ、じゃあ、あたしジントニックおかわり!」
「おいおい、カオル」
「じゃ、あたしも!」
結局シンジが、3人それぞれのドリンクを追加注文してくれる。
「じゃ、あらためて乾杯だな」
「うん、でもあたしだけじゃなくて、3人の未来と友情に乾杯したいな」
そういう灯里に、シンジとカオルが頷いた。
「じゃあ、俺たちの未来と友情に!」
「かんぱ~い!」
3人はそれぞれのグラスと声を合わせた。
やがて、今夜も酔っぱらって、テーブルに突っ伏して寝てしまったカオルを見ながらシンジが言った。
「あ~あ、やっぱ潰れたか。最後のジントニックが効いたな」
「でも絡むわけじゃないし、基本楽しいお酒だし、可愛いよ、カオルは」
「まあな」
カオルが寝てしまうと、さっきまでの賑やかな雰囲気が消えて、急に夜が深まったような気がした。平日のダイニングバーはお客がそれほど多くなく、カウンターには独りで飲んでいる男性客、テーブルには数組の男女が大人の雰囲気でグラスを傾けている。
「なあ、灯里。ダンススタジオ、辞めないよな」
「辞めないよ、どうして?」
「前は、会社の帰り路線だったろ?」
確かにいまは路線が違うし、現在の職場とは逆方向だ。
「でも、そんなに遠くないし」
シンジが、少し考え込むような表情を見せた。
「遅くなると、例のストーカー、大丈夫か?」
「大丈夫だよ、きっともう、つきまとわないと思う」
柊が二度と近づくなと、釘を刺してくれたし。
「ほんとは、送って行きたいんだけど」
とシンジは、潰れたカオルを見て言う。そして再び灯里を見つめた眼に、想いが溢れているのを灯里は気づかないフリをした。
「あたしなら大丈夫。それより悪いけど、カオルをお願い」
「しょうがないな」
灯里が眼を逸らしたことにため息を漏らしながら、シンジはそれでも笑顔をつくった。
「ほら、カオル。起きて、もう帰るよ」
やわらかな子猫のように幸せそうに眠りこけているカオルを、灯里は姉のように揺さぶった。
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