ⅱ
「変わってない」
灯里と別れて帰る道すがら、柊はそう呟いた。
灯里、キミはちっとも変わっていないんだね。
キミがどんなに蓮っ葉に装ったって、悪女ぶってアバズレだなんて言ったって、本心じゃないことは僕には手に取るようにわかる。だってキミは伏せ眼がちで、長い睫毛が震えていたじゃないか。その眼の奥の色は不安げで、あんなにも悲しそうに揺らいでいたじゃないか。僕たちがどれだけ長い時間を、幼なじみとして過ごしてきたと思ってるの?
まだ幼かったあの頃、2つ年上のキミは僕より背が高くて、すらりと手足が長く、駆けっこがとても速かった。いつだって風のように走り抜けていくキミは、誰にも捕まらなかったよね。灯里、気がつけば僕はキミの背中ばかり追いかけていた。
中学になって新体操部に入ったキミは、そのしなやかで繊細な演技で競技場の妖精と秘かに噂されていた。凛として可憐で触れることすら憚られる真っ白な存在に、「汚らわしい」想いを抱いてしまった自分を、あのとき僕は許せなかった。だからキミに少し距離を置いてしまったけれど、そんな僕にキミはそれでも戸惑いながら精一杯の笑顔を向けてくれた。灯里、それが僕にとってどれだけ救いだったか。
そしてキミに大人が勝手に決めた許婚がいると知ってからも、僕は諦めることなんてできなくて。ずっとずっと心の中に秘め続けてきた大切な人、一番近くで見つめ続けてきた灯里。
やがて東京の大学に合格して遠くに行ってしまったキミは、それきり故郷に帰ってくることはなくなって消息不明になってしまった。それは許婚だったはずの勝哉という板前が、キミの異母姉妹の繭里と結婚することになったことと何か関係があるの?あの許婚は周りが勝手に決めたのではなく、もしかしてキミは彼のことが本当に好きだったの?
わからない、わからないよ、灯里。何故なんだ。キミの消息は誰もわからないと繭里は言った。実際、キミの家族や友人や恩師や、誰に訊いても消息を知る人はいなかった。
キミを追いかけるように、僕も東京の大学に無事進学することができて、僕はキミを探したんだよ。
キミの大学に何度足を運んだことか、でも偶然に出会うことはできなくて。大学に幼なじみを探していると問合せたこともあったけれど、個人情報だからと教えてもらえなくて。代わりに僕の連絡先を伝えることはできると言われて、僕はずっと期待して待っていたんだ。でも、キミは連絡をくれなかったね。
最後には、灯里はこの同じ東京の空の下にいる、そう思うことにした。
だけど灯里、とうとう逢えたんだね。やっと、6年もかかって。僕はもう、キミを逃がしはしない。僕たちはまた、新しくはじまるんだ。そうだよね、灯里。
✵ ✵ ✵
「変わってない」
柊と別れ、独りマンションの部屋へ入ると、灯里は呟いた。
部屋には、まだ開けていない段ボールが何個か積まれていて、今週末で片づけきらないと灯里は思う。
もう逢わないと、逢えないと思っていた幼なじみ。ただ、この同じ東京の空の下に柊ちゃんがいると思うだけでいいと思ってきたのに。
でも偶然に偶然が重なって、柊ちゃんとまた同じ時間を過ごせるかもしれないと思ったとき、信じられないほどに胸が高鳴った。逢いたい、と心の底から思った。その再会のときが、こんなに早く来るなんて予想していなかったけれど。
照れ屋で、無口で、県内トップの進学校に通うくらい秀才で、心がきれいでひたむきで、いつもあたしや繭里の願いを叶えようとしてくれた優しい柊ちゃん。
お祖母様が地元の短大進学しか許さないと言って許婚を決めてしまってからも、諦めないで東京の大学に行くことだけを考えて頑張ってきた。いつかお祖母様があたしの気持ちをわかって、許してくれる日が来ることだけを願って。
それは別の形で、悲しい形で叶ったけれど。そしてもう、あたしは昔のあたしじゃなくて、柊ちゃんにこの想いを告げることは生涯ないと思うけれど、それでも逢いたかった。ほんのひとときでいい、許される間だけでいい、もう一度、幼なじみに帰って柊ちゃんと話したかった、笑い合いたかった。
そしてその短くてもキラキラした思い出さえあれば、あたしはこれからも独りで生きていける。だから勇気を出して、柊ちゃんに逢うことに決めた。こんな穢(けが)れたあたしでも、幼なじみとしてなら傍にいていいよね?
ねぇ、柊ちゃん、あたしたちはこれからも逢う。今日はそのはじまりに過ぎないんだよ。
春まだ浅い3月、幼なじみのふたりは同じ夜空を見上げていた。
柊は暗い夜道を、それでも一筋の希望を抱いて歩きながら。灯里は、引越したばかりの新しい部屋の窓辺で、不安と期待に震える躰を自身の両腕で抱きしめながら。
星のない夜空に、細い月がそれでもくっきりと浮かんでいる。その冴え冴えとした月の満ち欠けを、これからどれだけ長い間、一緒に見ることができるのか。
柊は永遠にと願い、灯里はその儚い時間を渇望しながらも恐れた。ふたりの運命の第2章は、まだはじまったばかりだった。
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