陰陽

吉野尚子

第1話 血の通う白磁

 あれは私が夫と離婚しまして、父方の実家に帰っていたときのことです。私には五歳になる息子がおりまして、その子を連れて一緒に帰っておりました。

 父方の実家というのが旅館を営んでおりまして、昔は離れなどもあって大きかったのですけれど、今は老朽化が進んだうえ不景気ですので、離れの方は潰してしまいまして、母屋の方だけ二部屋ほど部屋をつくり、そこで客を泊めております。

 家族経営ですので、大したおもてなしはできないようです。泊まり客というのも昔からのなじみか、紹介のあるものだけに限られていました。

 部屋は庭に面したつくりで、息子としばらく過ごしておりました。今後の身の振り方などをゆっくりと考えたかったのです。

 その時泊まり客の男性が一人いて、お話するのはその方のことです。ある日隣の部屋から息子の声がしました。相槌を打つような男の声もします。私は息子が隣の部屋に邪魔をしているのだろうと思い、息子を引き取りに行きました。

 男性はゆったりと着物を着こなして、いかにも旅行客といった感じでした。座卓の上に新聞紙を広げ、めくる先を息子が首を振って追っています。あぐらをかいた上にあがりこんでいるのでした。

 私が息子をとがめますと、「ああ、いいんですよ。」と言われました。子供の体は温いから、暖が取れてちょうどいいと言うのです。もう十分失礼をしているのですが、失礼のないようにと息子に言いました。息子は機嫌よく返事をします。父親がいなくなってさみしいのかもしれないと思い、連れて帰らずそのままにしました。

 しばらしくて帰ってきた息子に様子を聞きます。何か汚したり壊したりしなかったか尋ねました。すると息子は、「花瓶を温めた」と答えました。聞けばおなかの中に入れて温めたというのです。

 古い旅館ですので、骨董の類もそれなりにあります。そんな遊びをしては駄目だと言いましたら、「花瓶が寒いと言ったから。」と言うのです。息子はいたずらが好きな方ではなく、どちらかと言うとおとなしい方です。私は慣れないところに連れてきたため、さみしくなってふざけているのだろうと思いました。

 1週間ほどしたころです。旅館を手伝いに来てくれている女性がひどい貧血を起こしまして、救急車で運ばれました。手伝いが足りないというので、私が働くことになりました。料理の方ができませんでしたので、掃除と洗濯をしました。

 泊まり客の部屋に雑巾がけをしようと、あの男性の部屋に入りました。簡単な手荷物が部屋の隅にありましたが、男性の姿はありません。留守の間にすませてしまおうと、取りかかりました。書棚の骨董を床に降ろして拭き掃除を始めます。香炉と、床の間に大皿。筆返しのある棚に白磁の花瓶がありました。

 私は骨董の類には詳しくなく、いい物も悪いものも見分けがつきません。ですが、その白磁の花瓶はふと手がとまるほど、美しいものでした。表面が日を浴びて、きらきらと雲母のように光るのです。鯉の鱗を見るようでした。手にとって見ますと、今し方まで水に浸かっていたかのように、吸いつくような湿り気があります。しばらくうっとりと眺めました。こんないい物が今までどこにあったのだろうと思いました。ふと、息子が言っていた花瓶の話を思い出します。男の部屋にあったのだから、おそらくはこれだろうと思いました。よくよく見て、傷など付けていないだろうかと確かめました。くるくるとまわして、細かいひびなどがないか探します。すると不思議なことに、白磁にほんのりと赤みが差してきたのです。白い花弁の付け根に赤い筋がはいるようにして、細く赤みが差していくのです。

 背後に人の気配を感じまして、振り向いたところ、当の男性がいます。私は声を上げてしまい、その拍子に花瓶を落してしまいました。謝りますと、男性の方も謝ります。「驚かしてすみません」と言われました。花瓶は幸い割れませんでした。よかったと口にしますと、「ちょっとやそっとじゃ割れませんよ。」と言われました。花瓶は自分の私物であるとのことでした。怪訝に思い聞き返しますと、「日光浴ですね。」と言われます。虫干しのようなものでしょうか。男性は「高いものではないので、気を使わなくて良いですよ。」と言います。上着を取って庭に下りて行きました。池で遊んでいる息子に近づき、鮒に餌をやり始めました。

 奇妙な印象を受けましたが、それほど悪い感じはいたしません。掃除の続きを始めました。花瓶を見ますと、元の白磁の色に戻っています。光の加減か何かだろうかと気にしないようにしました。

 その日は夕方まで普通に過ごしていました。具合が悪くなったのは風呂上がりです。貧血を起こしたらしく、食事中に倒れるようにして寝込んでしまいました。気がつくと病院のベッドの上で点滴を受けています。息子の事が気になりました。帰りたい旨を言いましたが、一晩は安静にした方がよいと言われ、入院することになりました。

消灯時刻は過ぎましたが、いっこうに眠くなりません。病室は外と廊下の光が当たって灰色をしています。車の往来で光を浴び、照りを帯びるものがありました。花瓶です。昼間の白磁を思い出しました。

 夏場ですので、貧血入院をする女性は珍しくありませんが、私は初めてでした。手伝いに来ていた女性も貧血で運ばれたのです。たったそれだけのことなのに、なぜかあの白磁のせいではないかという気がいたしました。馬鹿な考えだと思いました。でも一度思いつくと気になって仕方がありません。幸い点滴を打って具合が幾分かよくなったこともあり、夜中なのですが帰ることにしました。

 深夜にタクシーで帰ります。鍵を持っていなかったので、悪いと思いながらも祖父を起こし、家に入りました。自分の部屋にはこうこうと灯りがともっています。息子が怖がってそのままにして寝たのだろうと思いました。布団が敷かれて中に息子がいます。寝相を直していると、寝巻の合わせが妙に膨らんでいるのが目に留まりました。ボタンをはずしますと、あの花瓶の首がのぞきます。急いで取り出しました。まるで肉のような桃色をしています。気味悪くなり、悲鳴を上げて部屋の隅に投げてしまいました。

 しばらくすると、隣の部屋で物音がします。男性が来て、障子越しに、「花瓶がお邪魔をしておりませんでしょうか。」と言います。ようようと、はい、とか、ええ、だの返事をしました。

 男性は中に入り、花瓶を見とめました。それが動いているのか、かたた、かたた、と音がします。男性は別段驚くふうでもなく、「寒いと言っているんでしょう。」と言いました。「何度も驚かせてすみませんでした。」と謝ります。それから花瓶についての話が始まりました。

 いつごろからあるものか分からないけれど、長い間家にあって、時々音を立てる。音が鳴りだしたら家の外に持ち出して、しばらく人に触れさせる。そうすると音が鳴りやむということでした。まれに花瓶の声が聞こえる者がいて、肌で温めたりするのだといいます。

 私が黙っていますと、「悪い話ばかりではありませんよ。」と言います。花瓶の声が聞こえるものは、行く先々でよいことがある、と言います。おかしな話です。良く仕組んだ勧誘だろうか、という考えがよぎりました。男性も気付いたのか、「株が当たるとか、そう言った類ではありませんよ。平凡だけれど、それなりに良いことです。」と付け加えました。

 花瓶が、かたた、かたた、と音をたてます。男性は花瓶を拾って出ていきました。それから部屋に戻って寝たようなのですが、ずっとあの、かたた、かたた、という音が聞こえます。息子が寝言を言って起きそうになりました。その晩は息子の耳をふさいで、じっとしていました。

 翌朝目を覚ましました。一緒に寝ていたはずの息子がいません。隣の部屋から息子の声がします。寝巻のままで男性の部屋に向かいました。部屋に入ると息子がいます。また膝に乗り、今度は一緒に朝食を取っているのでした。魚の小骨を丁寧にとってやったものを、口に運んでもらっています。その様子を見て、男の言った、それなりに良いこと、の意味を知りました。

 あれから私は旅館に居を構えて、そのまま手伝いを続けております。男はここが気にいったのか、たびたび訪れるようになりました。花瓶は持ってきていない、ということですが、息子と二人きりにならないように用心しております。また、あの花瓶をあてがわれるのは、やはり良い気がいたしませんので。

 気になるのは、息子があの男性になついていることです。お膝の上においで、などと呼ばれると、上がりこんでしまうのです。家のものも何を勘違いしたのか、もし気があるのなら、あまり待たせてはいけない、などといいます。毎年通ってくるのはそのためだろう、と言うのです。息子に起こった良き事なのですが、私はどうしたらいいのでしょうか。

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