オブリヴィオン。

 出席番号28番 横山みなみ

 出席番号30番 渡辺芽依


 ◆◆◆


 みうと別れて、おとなしく私は帰路についた。

 おでんが、温かかった。みうの手が、温かかった。あの子はとても素直で、とても真剣で、思いやりの塊のような子だ。

 本人はまったく自覚していないんだろうけれど。許し、そのものであるような人。

 大根をきれいに半分に分けてくれた。大好きなしらたきを私に譲ってくれた。今晩、彼女は自分の時間をすべて私のために使ってくれていた気さえした。

 私から何かを感じて。必死で繋ぎ止めようとしてくれていた。

 誰も相手にしないような私の戯言を、きっと本気で信じているから。私が本当に消えてしまうかもしれないと、思っているから。

 だからみうは、全力で私の手を握ってくれたんだろう。

 なんて、優しい子だろう。泣きそうだった。

 泣いていいよ、と囁くような旋律。虫の音が歌に聞こえるなんて、いよいよ私の妄想は来るところまで来てしまったのかもしれない。

 そう、思ったけれど。どうやら本当にどこからかメロディが流れてきているようだ。

 秋の音の隙間を縫って、透き通った調べが私の耳に届いた。吸い寄せられるように、私は歩いて行く。

 山の斜面がすぐそこにある、高台へ続く家並み。木々の間に深い秋の夜が息を潜めている。

 呼吸をするたびに、体の中に長い夜が蓄積していくような感覚。秋の夜に同化しながら私は進む。旋律は確かな形を持ち始める。

 やがて黄色い壁の一軒家に私はたどり着いた。二階の窓から、明かりと旋律が漏れている。

 そっと窓の方に回り込んでいく。道は高台に向かって坂道になっていて、進むほど二階の窓に近づいていく。

 私は窓の正面に立つ。ガラス戸は開け放たれて、窓辺にはよく知った子が腰を掛けていた。

 音色の正体は、フルート。


「……呼んじゃった?」

「うん。呼ばれた。」


 横山みなみは、フルートから口を離して私に話しかけた。

 二人の距離は普通に会話が成立するくらいしか離れていなかった。

 芽依の部屋の窓は、私が立つ坂道より少し高いくらいの位置にあった。その気になれば侵入できそうなくらいには近い。


「なんかあった? 芽依、泣きそうだよ。」

「……優しい人にさっきまで会ってて。」

「私の知ってる人?」

「そうだね。クラスメイト。」

「そう。思い当たるけど言わないでおく。」


 みなみは、とても自然な動作で、またフルートを吹き始めた。こんな夜中に窓を開けて、普通なら怒られそうなものだ。

 でも、この旋律なら。誰も文句は言えないだろう。ううん、何も言えないだろう。

 だって、言葉をなくしてしまうから。

 私は、さんざん吸い込んだ秋の闇を静かに吐き出して、みなみの旋律を吸い込んだ。

 そして、消えることについて考えた。

 もしこの世界から私が消えたら、私は外からそれを観測できるだろうか。

 例えば死んでしまった時。幽霊や死後の世界が存在するかはわからないけれど、私は私のお葬式を眺めることができるだろうか。

 親は泣くだろうか。友達はどれくらい来てくれるだろうか。どんな反応をするだろうか。

 見てみたい。でも人生の答え合わせみたいで怖くもある。ただ、とてもわかりやすい回答だと思った。

 自分の価値、生きてきた意味、そんなものはどうやったら感じることができるのかわからない。

 生きているうちは無理かもしれない。死んでみないとわからないかもしれない。

 じゃあ、お葬式くらいのぞけないと。わからないよ。

 ああ。私が消えたらどうなるんだろうか。この世界は少しでも変わるだろうか。

 今よりもっと私にふさわしい場所はあるだろうか。ここではないどこかへ。あるなら行ってみたい。

 ないなら……ここに私が存在する意味を知りたい。

 消えたいなんて思わなくてもいいような、何か確かなものがほしい。

 そんなことを考えているうちに、私は、本当に泣いていた。


「……私、同級生の泣き顔ばっかり見てる気がするよ。」


 いつの間にか旋律は止まり、フルートを携えたみなみは静かに笑っていた。


「何もかも、いつか終わる。」


 フルートの音色かと思うほどきれいな声で、みなみは囁いた。


「だからきっと、焦らなくてもいい。」


 言い終わると、みなみはフルートを吹き始める。

 私はしゃがみこんで、目をつむった。

 秋の夜闇に潜って、溶けてしまった。

  

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