第8話 ライヒと愉快な仲間たち
その日、『星の智慧派』本部の会合にて、ライヒ・パステルツェ司祭はナイ神父から重要な作戦の指揮協力を命じられた。それは『ダゴン秘密教団』と共闘して、その敵対組織の殲滅に協力するというものだった。
『ダゴン秘密教団』に敵対する組織の行動が活発化してきたので潰すことに決定したそうだが、その際に現場指揮を執ってくれる協力者を『星の智慧派』に要請してきた。『ダゴン秘密教団』と『星の智慧派』は1980年代に手を結んだことがあり、その協力関係は頻繁ではないにしても今なお継続状態にある。
当初その役目に選出されたのはヘルマイヤー・ストラトス司祭であったが、現在没頭している研究に全精力を注ぎたいという旨を提示して辞退した。そしてその結果、新たに抜擢されたのがライヒだった。予想外の事態に弱いという欠点はあるものの、それでも彼女の指揮能力はそれを補って余りあるほど高い。
こうして責任ある役目を承諾したライヒが一礼して退出すると、自室へ向かう途中で、いかにも性根の腐敗していそうな因業深い老人とすれ違った。ヘルマイヤーだ。
無視して通り過ぎようとするライヒの耳に、厭らしいしわがれた声がかけられる。
「ライヒ嬢、このまえ君に手を貸してもらって黄色い劣等猿どもの島国へ赴いたときに某施設で手に入れた物は、わしの研究に非常に役立っておるよ。いずれその成果を君に見せてやれるときがくるじゃろうて」
「それはどうも」
自分にとっては嫌な記憶しか残っていない話題を持ち出され、すこぶる不愉快な感情が呼び起こされたライヒは、素っ気なく返事してそのまま通り過ぎた。
ヘルマイヤーがあの施設で入手したものが何だったのか、ふと気になったこともあるが、わざわざ胸のむかつく思い出を蒸し返したくないため問いただすことはしていない。
ザルツブルクの自宅に戻ったライヒは、さっそくシュヴェイクを呼びつけ、以前聞いた彼の能力を使うことを命じた。
即ち、シュヴェイクの仲間たちの召喚である。
正直なところ気は進まなかったが、此度の共闘作戦の協力遂行にはどうしても自分に忠実な少数の手勢が必要である。想定外の事態が起こった時に対処するためだ。
そういったわけで、シュヴェイクは嬉々として召喚を実行し、数分後には、かつてのオーストリア・ハンガリー帝国の軍服を身につけた複数の中年男が室内に現れたのだった。
胸元まで伸びる深々とした顎鬚を生やした、肥った大男。――従卒バロウン。
頬いっぱいに鬚の剃り跡が目立つ、小さな白髪交じりの男。――主計曹長ヴァニェク。
どこかふてぶてしい面構えの、眼鏡をかけた肥っちょの男。――大隊史編纂係マレク。
シュヴェイク同様に禿頭である、理知的な心霊学者の男。――炊事兵ユライダ。
第九十一連隊第十一中隊の面々である。
ライヒは自宅の居間を腕組みしながら行ったり来たりしていた。しかめっ面をしているので、少なくとも良い気分にあらずというのは誰が見ても明白だ。
彼女の傍らには大隊史編纂係のマレクが立っていた。ドアのところには新しい従卒バロウンが気をつけの姿勢で立っている。民間ではどこかの村の粉屋だったらしい大男のほうをちらちらと見やりながら、ライヒはマレクに向かって言った。
「小説の中の人物が現実に具現化したら相違点が生じるのはシュヴェイクが実証済みだけど、まさかあそこまで悪い方向にパワーアップしてるとは思わなかったわよ」
あれから数日が経過していた。一気に四人も居候が増えたわけだが、屋敷の部屋数は一人一部屋ずつをあてがってもまだ空きがあるほどなので問題はない。問題があったのは彼ら自身のほうだ。
「私だってあなたたちの特徴や性質は把握してるつもりよ。特に食事面において底なし胃袋をもつバロウンの厄介さはね。だから彼だけ食事の量を多く配分してやったわ。そうしたらびっくりよ、それだけ食べても足らないのか、よりによって私の食事をこっそり半分食べてしまったんだから」
「こんなこと言っちゃなんですが、こぼしたのであります」
それまで黙っていたバロウンが言い訳がましい口調でそんなことを言った。
ライヒは鮫のように目を細めてドア付近に立つ従卒をにらみつける。
「よろしい、こぼしたのね。従卒として主人である私に食事を持っていこうとしたけれど、うっかり床に半分落としてしまったから処分したと。スープやパンならともかく、一枚のステーキをどうやったらきれいさっぱり半分に切れた状態でこぼせるのかしら。それからアップルパイはどこへ消えたの」
「わたくしは……」
「弁解無用、あなたが食べたに決まってるでしょ!」
ライヒがものすごい剣幕で怒鳴ったので、バロウンは思わず数歩あとじさった。
「私は自分の食事は自分で作るけど、せっかくだからユライダに私の分まで任せたのが失敗だったわ。私はあなたが満足できるだろう量の食事を与えてやったというのに、それでも足りないみたいね。いったいどういうことよ」
「申しあげます、司祭殿、ご存知とは思いますがわたくしはしょっちゅう腹が減っているのであります。それはこの現実世界に召喚されたわたくしはさらにその性質が大きくなったものだと思われるのであります。司祭殿、わたくしは別においしいものを食べなくともいいのであります。ありふれた食べ物を見ただけでむずむずし出し、すぐ胃袋めが権利を主張しはじるのであります。司祭殿、なにとぞこのわたくしにさらなる食事が与えられるよう、許可をお願いしたいのであります。ほんとうに心の底からそうお願いしたいのであります」
「よろしい、あなたの厚かましい願いはしっかりと耳にしたわ、バロウン。あなたも聞いたわねマレク、こいつは三人分の食事を腹におさめただけでは足らずに私の食事まで食べたうえに、さらにもっと食事の許可をくれというのよ。いくら私でもそこまでお金の余裕があるわけないでしょ」
これまではシュヴェイクひとりなので作家としての収入だけで事足りた。だがさらに四人も居候が増えるとなると話は別だ。自立した一人暮らしをやっていくという自負のため親からの仕送りには手をつけなかったが、こうなるとさすがに頼らざるを得ない。
しかしバロウンの腹を満足させようとすれば破綻は眼に見えているので、食事の追加を許可するわけにはいかない。
「バロウン、罰としてあなたは今日の夕食は抜きよ」
「そ、そんな!」
殆ど絶望的な表情になる鬚もじゃの大男を尻目に、ライヒはマレクのほうを向いた。
「マレク、今日の夕食時、この男を居間の柱に縛り付けて放置しておきなさい。下がってよろしい」
「承知いたしました、司祭殿。バロウン、来るんだ!」
マレクがバロウンを連れて退出すると、少女は眉根を押さえて溜息をついた。
ライヒはこういった見せしめの罰を与えることを好んではいない。しかしそうするほかどうしようもないのだ。人間というものは少しでも甘い顔をするとすぐにつけ上がるものなのだから。
それからライヒはシュヴェイクに連絡するため携帯を取り出した。
「申しあげます、司祭殿、わたくしはまだコーヒーを飲んでいないのであります」
『それじゃコーヒーを飲んでからでいいから、『星の智慧派』本部の私の部屋に来て、私が呼ぶまで待機するのよ。シュヴェイク、もしもし、あなたいまどこにいるの?』
「ここにいるのであります、司祭殿。ちょうど今、コーヒーがきたところであります」
『「ここ」でわかるわけないでしょ! シュヴェイク、もしもし!』
「司祭殿、ここにいるのであります。コーヒーは味が薄いのであります」
『この畜生、シュヴェイク、あなたにも苦労をさせられるわ。とにかく、言ったとおり本部の私の部屋へ来て待機しておくのよ? 通話を終えてよろしい』
携帯を切ったシュヴェイクは、おもむろにテーブル上のコーヒーを再度口につけた。実はちょうど『星の智慧派』本部のライヒの部屋に来ているのである。知り合いの信者にコーヒーを頼んで持って来させていたのだ。
シュヴェイクの正面に腰を下ろしていた主計曹長のヴァニェクが、彼のほうを見て、言った。
「うちの司祭はバカに大きな声で電話の話をするじゃないか。おかげでおれは一つ一つの言葉が聞きとれたよ。シュヴェイク、お前は司祭殿とはとても親しい仲に違いないと思うな」
「ぼくたちはウマがとてもよく合うんだ」
と、シュヴェイクは答えた。
「ライヒ司祭とぼくはいい相棒なんだよ。司祭殿からはルカーシ中尉と同じ波長を感じるのだ。この現実世界に架空の英霊として召喚されたぼくは、中尉殿の代わりとして司祭殿にめぐりあったのさ。言ってみればぼくとライヒ司祭の出会いは運命に手繰り寄せられたもので、なんびとであっても引き離すことはできないんだ。その証拠にぼくは司祭殿の従卒から副官へと昇格したんだからね」
「だが司祭殿が中尉殿と違うところは女だということだな。日本の古文には源氏物語っていうのがあって、その主人公である光源氏とやらは器量のいい幼子の娘に眼をつけて仲良くなり、きれいに成長したところでものにしたらしいぜ。見たところ司祭殿はなかなかの器量よしだ、あと十年もすりゃいい女になるんじゃないか?」
「ぼくたちはねんごろにはならないさ」
ラム酒を混ぜたコーヒーをぐいぐい飲むヴァニェクに、シュヴェイクはめったなことを口にするもんじゃないよとばかりに手を振って見せた。
「それに人間そう物語のように先々描いたふうにはいかないよ。お前さんがいま話した日本の古文のなかにはこんな話もあるんだ。ある日オホハツセワカタケノ命という名の天皇が三輪川のあたりに遊びに来ていたら、川のほとりで衣服を洗っている容姿端麗の若い娘が眼に止まった。彼はこれを見過ごす手はないと思い、さっそく声をかけた。女の子は相手が天皇だと知ると、はにかみながら自分の名前をアカキコと名乗った。それで天皇は『お前は他の男に嫁がないで待っておれよ。今にわたしがきっと、お前を宮中に召しだすから』と言った。つまり、いずれは后か側妾にしようという約束さ。アカキコはこの言葉をとても喜んで、満面の絶頂でその日が来ることを待ち望んだわけだ。ところがそれからどれだけ歳月が過ぎても天皇からの連絡はない。そしてとうとう乾上がって消えてゆくだけのババアになっちまった。勿体ぶって守ってきた貞操も塵芥に化してしまい、色褪せて凋んで朽ち果ててしまったわけさ。アカキコはとうとう決心して献上の品を持って天皇のもとへ参内した。見も知らないばあさんがやってきたんで、天皇は驚いて『このわたしに何の用だ』と訊いたら、アカキコは『あの日以来天皇のお言葉をずっと守って、誰にも嫁がず生きてきた志のほどを、申しあげにきました』と答えた。すると案の定、天皇は彼女に言ったことをすっかり忘れていて、『あたら女の盛りを空しく過ごさせてしまったようだ。気の毒なことをした』と言うだけですませたそうだよ。天皇はアカキコにたくさんの品物を贈って国に帰したというが、結局お迎えを待つばかりのばあさんになったアカキコが得たのは、今更使い道のない品物だけだったのさ。つまり先のことなんかどうなるかわからないってことだよ」
「一年後にもらえる十万コルナより、今日もらえる一万コルナってやつだな。おい、ユライダ、お前はどう思うね?」
シュヴェイクの講釈を勝手に解釈したヴァニェクが、心霊学者の炊事兵に話を振った。
ユライダは書棚の書物を興味深げに読みふけっていたが、二人のほうを向くと、名残惜しそうに書物を棚に戻してテーブルの席に着いた。
そして彼は二人に答えようとして、その時どういうわけか手を振ったので、思わずテーブルの上にあったコップをみなひっくりかえしてしまった。
そんなことをしでかしたあとで、
「すべての現象、形態、事物は非実在物なのだ」
と、心霊学者の炊事兵は悲しそうに言った。
「形態は非実在物であり、非実在物は形態なのだ。非実在物は形態からは分つことができず、形態は非実在物から分つことができない。非実在物であるもの、すなわち形態であり、形態であるもの、すなわち非実在物なのだ」
ユライダはそれから沈黙の帳に包まれたまま、コーヒーをかぶって濡れているテーブルをじっと見つめた。そんな彼は民間では『生と死の謎』と題する心霊学の雑誌と双書を発行していたのだった。
シュヴェイクとライヒ司祭についての議論は、これで終わったのである。
『星の智慧派』本部での用を済ませ、夜遅く自宅に帰ったライヒは、髯の大男が居間の柱に縛り付けられているのを眼にした。
「おかえりなさいませ」
と、バロウンは申し訳なさそうに頭を下げた。夕食を口にできなかったのが相当にこたえたらしい。
そんな彼を見ているうちにライヒは、バロウンがまるで哀れな大きい子供のように思われたので、大食いという理由だけでこんな仕打ちをしたことに後悔の念が募ってきた。
「バロウン、明日はあなたのパンをもう一人分追加できるよう考えてあげるわ」
そう言ってライヒは従卒の束縛を解いてやった。
それから彼女は、手にしていた紙袋を机の脇に置き、よほど疲れていたのか、そのまま机に突っ伏して眠りについた。
するとバロウンはライヒがぐっすり寝入ったのを見ると、息をひそめて室内を見回し、夜中のゴキブリのように獲物を漁りはじめた。机脇の紙袋に気がつくと、中に手を突っ込んでごそごそやりだしたのである。
ライヒの怒声が屋敷中に響き渡ったのは早朝のことだった。
「シュヴェイク、バロウンはどこ!? あの悪党は私が眠っている間に、私が買ってきたチョコレートをみんな食べてしまったのよ。ヴァニェク、あの畜生を見つけたら直ちに現世での具現化を解いてちょうだい」
シュヴェイクが召喚した仲間たちの送還権限は主計曹長のヴァニェクにある。ライヒは彼にバロウンの送還を命じると、どっかとソファに腰を深めた。
ふとテーブルに眼を向けると、大隊史編纂係のマレクがノートパソコンを開いて一所懸命にキーを打っているではないか。
「何をしているの」
ライヒが後ろから覗き込むと、マレクは満面に笑みを浮かべて説明を開始した。
「申しあげます、司祭殿、今度司祭殿とともに我々が参加する作戦の行動記録史の内容を今から考えまとめているのであります。そこで司祭殿、司祭殿は今度の作戦にて名誉の殉職をされるか、片手片足を失いながらも任務を果たしての帰還、どちらを望まれますか?」
「縁起でもないこと提案しないでちょうだい!」
声を張り上げて一喝し、はたしてこんな調子で大丈夫なのかと、思わず眩暈がしそうになるライヒだった。
『ダゴン秘密教団』との共闘作戦実行まであと一週間――
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