第20話 夜の水族館

 お土産物売り場から、そう遠くない場所にそれはあった。


「こちらです」


 水族館最大の見せ場である巨大水槽だった。中では数百種の珍しい魚が群れを成して泳いでいる。そのはずだ。


「暗くてわかんないなぁ」

「おい、明かり点けろよ」

「あなた達なら、これのスイッチ入れたら見えるかもしれませんわよ」


 波野が飯塚と早房に声をかけ、内ポケットから腕時計型の機械を摘み上げた。5人とも、水槽にへばりつくようにしている。ちなみに波野は、普段は機械を身につけていない。持ち歩いてはいるのだが、デザインが気に入らないらしい。


「なんでそう思うんだ?」

「……夜行性だから」


 代わりに篠原が答える。


「そうかもな」


 怒りはしなかった。確かに飯塚が力を受けるヒョウと早房のタコは夜行性の動物だ。反論されなかったことに拍子抜けしたのか、波野は若干つまらなそうに本人も時計を腕に巻いた。

 水槽に明かりが入る。ほとんどの魚がただ悠然と泳いでいた。


「普通の水槽だな」

「ほんと、何の変哲もありませんわね」

「でも、なんだか魚、少なくない?」


 鏡に額をべったりとつけながら、緑子は眉を寄せた。飯塚が並んでいた。


「そうだな……おい、あれ、マンボウじゃねぇか?」

「あ、ほんと。うわっ、エイまでいる。うわぁ、大きーい」

「鮫がいるぜ。他の魚を食べないのか?」

「あっ、見てあっち、華麗ちゃんの仲間だぁ」

「おお。おい、見てみろよ早房、お前、そのうちああなるんだぜ」


 下の岩場で、タコがうねっていた。


「お2人とも、任務のこと忘れていません?」

「そのうちお前等を動物園に連れて行って、そっくり今の言葉を返してやるからな」


 波野と早房が、全く違う感想を口にする。2人とも腕を組んでいたが、呆れたように額を抑える波野に対し、早房はいらだたしげにタバコをふかしていた。ちなみに、全館禁煙である。

 ただ、篠原だけが違った。


「……いるね」


 その言葉に、4人に緊張が走る。朔間と飯塚が水槽から離れ、波野と早房は黙って篠原を見つめた。中谷の出番は、始めからなかった。


「どこだ?」

「……その岩の裏側」


 篠原が歩を進め、4人が従う。水槽は巨大で、円筒形をしていた。三六〇度どの角度からでも見られるようにという配慮からである。どれだけの金がかかっているかは、誰も気づかなかった。


「でっかいな」

「イソギンチャク男ってとこか?」

「っていうより、ただの巨大イソギンチャクだよ」

「人間の形跡ねぇじゃん」


 4人がそれぞれに評す。岩に張り付いていたのは、ピンク色の触手をたゆたわせた、余りにも大きなイソギンチャクだった。

 無数の鞭のような触手に覆われ、ただ岩にへばりついている。近寄った魚がいれば敏感に捉え、捉えられれば、決して出てくることはない。


「……コンタクトしてみる」


 篠原が目を瞑る。こめかみに指を当て、集中を始める。すると、形が変わり始めた。中央部分から盛り上がり、人の姿を成す。その周りにもびっしりとピンクの鞭が生えているため、不気味きわまりない。


「苦しんでるみたい。そのまま、やっちゃえ」


 気持ち悪い相手に同情する気にもなれず、緑子はこのまま解決されることを願った。


「話しているのか?」


 飯塚がむしろ冷静に尋ねた。飯塚としても、水の中は不得手である。格闘技経験者として、不利な舞台では戦いたくないのだろう。


「……ううん……話ができるような知恵は……もうないみたい。私はただ、精神波を送っているだけ……」

「人間だった頃の本能みたいなもので、ああいう形をとっているってことか」


 ただの巨大イソギンチャクであれば、むしろ水族館の見世物になる。だが、時々人間の形をとるとなっては、人前に出すわけにはいかないだろう。同じく軟体動物の力を得た早房でさえ、顔をしかめていた。


「このまま、放っておくってのは駄目なのかな? 別に害はないんでしょ?」


 緑子は水族館の職員を振り返った。


「そうですわね」


 波野も同調する。だが、水族館の職員は悲しげに首を振った。


「そいつは、私の同僚でした。本当によく魚の面倒を見ていましたが、その姿になってから、水槽の魚を半分近くも食べてしまいました。本人にもし意識があったら、どれほど辛いかわかりません。それに、もし見世物になったり標本にされたりしたら、これほど惨めなことはありません。あれは、人間なんですから」

「じゃあ、殺せっていうのか? あんなのでも、人間なんだろ?」


 赤い髪を掻き毟りながら飯塚が問う。揚げ足をとったつもりではないだろう。普段から言動は乱暴でも、意地悪をする性格ではない。


「……戻らないのなら、せめて、苦しまないように……」


 水族館の職員は苦しげに答える。緑子も、早房や飯塚と同じように気が進まなかった。

 気持ち悪いだけで害がないのなら、放置していてもいいのではないだろうか。唯一、そのような感慨を一切持たない者がいた。


「保証はいたしかますわね。苦しいかどうかは、本人の問題ですもの。まあ、あんな不自然な物体を野放しにしておくのは、確かによくはありませんものね。さぁ、みなさん、始めますわよ」


 全く迷いがない物言いだった。実際、命令でやってきた緑子たちに選択の余地はないのだ。割り切ることのできる波野の性格は、むしろありがたい存在なのかもしれない。そうは思っても、緑子はささやかな抵抗を試みた。


「えーっ、やっぱりやるのぉ?」


 口を突き出してみる。


「ま、しかたねぇだろ」

「気は進まねぇがな」


 味方はいなかった。もとより、本気で逆らうつもりもない。緑子が小さくうなずくのを待っていたかのように、篠原美香が自らの腕に巻かれた機械を示した。

 5人は、同時に獣の遺伝子を覚醒させた。

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