きつねのこ
たま史郎
第一話 真っ黒な世界
わけもわからず立ち尽くした女性の視界は、真っ黒としか形容できないものでした。
彼女は決してわざとここに来たのではありません。仕事帰りの黄昏時、盲人用信号から流れる「とおりゃんせ」を聞いていただけなのです。
強いていつもと違うことを挙げるならば、この日はほんの少し、意識してこの「とおりゃんせ」を聞いていたことでした。運が悪いことに、いつも使っている音楽プレイヤーの電池が切れてしまっていたのです。
彼女はぼうっとしながら信号を渡り、気づいたらこの真っ黒な世界に立っていたのです。
ここはどこだろう、と彼女がどうにか冷静になろうと努めるのも、無理はありません。しかし、かといってこの状況が打破されるわけでもなく、むしろ冷静になればなるほど絶望感が彼女を襲うのでした。
だって、冷静に考えたら、夢でもない限りこんなことはありえない。しかし夢でないことはすでに確認済みです。つねった頬に痛みがわずかに残っています。それになにより視界が真っ黒なのです。夜中に真っ暗な部屋に入り、目が慣れるとあらかたのものは見えるようになりますが、ここはそんなことは全くなく、ただひたすらに真っ黒なのです。目の前に壁があるような、瞳をなにか黒い絵の具で塗りつぶされたような、そんな感覚です。ですから、自分で自分を触ることはできますが、見ることは一切できないのです。
これも先ほど彼女が試したことですが、腕を目の前に上げてみたものの、全く見ることが叶いませんでした。腕はちゃんとそこにあるはずなのに、見えない。そんな不気味な現象に、彼女は錯乱しそうになりました。
そして、なんとか気を取り直した女性は、歩き出しました。立っているという感覚すら怪しくなっていたところでしたが、歩いてみるとコツコツと音がします。どうやらちゃんと立っているようでした。しかし相変わらず視界は真っ黒で、きっとこの先歩いていてもどこにもたどり着かないような、そんな不安に襲われてしまいました。
彼女は少し歩いてから、座りこんでしまいました。このまま留まっていれば、先ほどのように感覚が失われ、自分が空間に溶けていくような、そんな感覚になってしまうことは十分に考えられます。それでももう、彼女に歩く気力は残っていませんでした。コツコツという歩く音だけでは、自分の存在を確実に認識し続けることは難しかったのです。
「助けて…」
虚しく響く声は、どこまでも広がっていくようでした。
***
ここに、銀色の髪に白い肌、青色の瞳、白い水干を着、狐面をずらしてつけている男の子がいます。彼はその狐面から取って、「きつねのこ」と呼ばれています。きつねのこは、青空にぽかりと空いた黒い穴を見つめていました。黒い穴からは、赤い光がゆらゆらと揺れながら降り注いでいます。実は、穴の上は真っ黒な世界が広がっているのですが、この穴の真上には、淡く赤く光る鳥居が立っているのです。この穴の表面は水面のようになっていて、常に波紋が立っています。そのために鳥居の光がゆらゆらと揺れながら降り注いでいるのです。
きつねのこはこの光の降るこの場所が好きで、こうして光の下に座り、一日の予定を考えることが日課でした。しかし今日はいつもと様子が違うようです。
「た……て…」
先ほどからかすかに聞こえてくる人の声。
「たす…て…」
押しては返す波のように響く小さな声。
「助けて…」
ようやく聞き取れたきつねのこは、大慌てで立ち上がりました。近くに生えていた白い鬼灯のような植物を一本摘み、ふわりと飛び上がって穴の中に入っていきました。
穴から出るとそこは、真っ黒な世界が広がっていました。不思議なことに、きつねのこが出てきた穴は、黒い世界に降り立つと池のようになっています。中から見えるように波紋も立っています。その池を囲むように石が置かれていて、わずかに水のようなものが零れていますが、その水の行き先は誰にもわかりません。囲い石のそばにはふわふわとした、淡く光を放つ白い綿毛のようなものをつけた植物がたくさん生えています。そして、なにより、池の中には赤く大きな鳥居があります。
きつねのこは囲い石のそばの綿毛の植物を取り、先ほど取ってきた白い鬼灯の身の部分を取り出して、代わりにその綿毛を入れました。すると白い鬼灯は提灯になりました。この光に当てられると、この真っ黒な世界でも自分の姿などを見ることができます。
きつねはもう何度も同じことをしてきました。
「待っていてね」
顔も知らぬ迷子さんを思いながら、きつねのこは歩き出しました。
***
あれからどれだけ時間が経ったのか、女性には知る由もありませんでした。
とてつもなく長いような気もすれば、短いような気もする。ただただ真っ暗な世界の中に放り出された彼女は、何も見えない中で、自分で自分に触れる温もりと、気が狂いそうな中で必死に保っている自我だけを頼りに息をしています。それでもこの真っ黒な闇は、彼女の心にじわりと不安、恐怖、悲しみ、絶望といった形で染み込んでいきます。一度黒色に染められてしまえば、拭うことは難しいものです。彼女は、ついに諦めてしまいました。諦めて、黒い闇を受け入れて、眠りにつこうと考えました。きつく抱いていた身体を開放して、寝そべりました。不思議なことにちゃんと横たわっているはずなのになんの感触もありません。このまま溶けてしまおう、そう思った女性は、静かに瞼を閉じました。
***
「お姉さん、起きて」
優しく少年らしい高い声が聞こえてきました。
「お姉さん、そのまま寝ていると溶けてしまうよ」
明るい声で言い放った少年の言葉に戦慄した女性は、一気に先ほどまでの恐怖や不安を思い出して、飛び起きました。
「ああ、よかった。間に合った」
女性は驚きました。目の前の少年が真っ白だからです。正確に言うと、目は青く、髪は銀色なのですが、彼の放つ淡い光と相まって真っ白に見えるのです。それまで真っ黒だった女性の視界に、その光はあまりにも眩しいものでした。思わず目を眇めた拍子に、涙がこぼれ落ちました。少年は、彼や彼の持つ鬼灯の光に照らされて光った涙を見逃しませんでした。
「お姉さん、泣いているの? もう大丈夫だよ」
「…ありがとう」
次第に光に慣れてきた女性は、少年の顔をじっくり見ることができました。青い大きな瞳は、垂れた眉と相まって、優しげに見えます。よく見ると髪が銀色であることに気づきました。狐面をななめに被っているのが、わずかに不気味に見えました。
「あの、本当にありがとう。もうここから帰れないと思っていたから…」
「ふふ、僕お姉さんの声が聞こえたからここまで来たんだ。間に合ってよかった。ここはたまに迷子になっちゃう人がいるから」
「迷子? 」
「そう、迷子。なんでかわからないけれど、上の世界からここに落ちてきてしまうの。間に合わないと、この黒色に溶けてしまう。だから、本当に間に合ってよかった」
女性には少年の言っていることがほとんど理解できませんでした。しかし、なんとなくわかったのは、もしも少年がここに来ないでいたら、彼女はこのまま死んでいたかもしれないということです。先ほどまで見えなかった自身の身体が、少年の光に照らされてぼんやりと見えるようになりました。ぞっとした女性は、再び少年にお礼を言いました。
「ありがとう…君がいなかったら私は、死んでいたんだね」
「どういたしまして! 」
ほっと一息ついた女性は、少年の名を尋ねました。
「ところで君、名前はなんと言うの? 」
「僕?僕は『きつねのこ』!」
「きつねのこ?」
「うん、そう。多分、このお面をかぶっているからだと思うよ。皆にそう呼ばれているんだ」
名とは生まれついた時にもらうものではないのでしょうか。少年の名が、外見的特徴から名付けられた、まるであだ名のようなものであることに、女性は驚きました。女性は訳を聞きたいと思いましたが、なにか深い訳があったら困ると思い、黙っていました。きつねのこは彼女のそんな考えも知らずに、黙り込んだ女性を不思議そうに見ています。はっとした女性は、きつねのこに謝って立ち上がりました。
「ええと、その、君はここの出口を知っているの?」
「あ、そうだ、僕はお姉さんを帰すために来たんだ。ついてきて」
「わかった、ありがとうね」
きつねのこは、先ほどからお礼ばかり言う女性を少し大げさだなあと思いました。そんな彼女の様子を見て、きつねのこは思い出しました。
「ねえお姉さん、お姉さんを送る代わりに、僕に上の世界についてお話してほしいな」
「もちろん、そんなのお安い御用だよ!」
女性は、なにか恩返しをする方法を先ほどから考えていました。しかしなにも思いつかず、申し訳なさのあまりお礼をたくさん言っていたのです。少しでもきつねのこのお願いを聞くことができる、と思った女性は、朗らかな表情になりました。
「上の世界」とはなんだろうとも思いましたが、きっと自身の住む場所の話をすればいいだろうと思うことにしました。
二人は、歩き出しました。
***
きつねのこは、いろんな質問をしました。女性の着ている物のこと、食べ物のこと、人のこと、仕事のこと。きつねのこにはわからないことも多くありましたが、それでも、新しい世界を知ることができました。きつねのこにとって印象深いのは、空の色です。きつねのこは、青い空しか知りません。もちろん、時間によって濃さは違いますが、きつねのこの知る空はずっと青色でした。
きつねのこは、女性から夕方の話を聞きました。燃えるような赤の日や、さわやかな橙色、神秘的な紫色。その日の天気などによって色が変わるというのです。それはあまり多くの色を知らないきつねのこにとって、夢のような世界でした。特にきつねのこは、赤色の夕焼けを見てみたいと思いました。
不思議なことに、きつねのこは青色と白色とほんの数色しか見たことがないはずなのですが、他の色もたくさん知っているような、そんな気がしているのです。
「きっと綺麗なんだろうなあ」
「そうかな…普通だと思うけれど」
女性はきつねのこの反応を不思議に思いましたが、こんな非現実的なところに現れるのだから、この反応もあり得るものなのかもしれないと思うことにしました。
しばらく歩いていると、白い四角形が遠くに見えてきました。
「あれが出口だよ」
「あれが…?」
「そう。さあお姉さん、お別れだ。あの四角形だけを見て、このまままっすぐ歩いてごらん」
振り向いてはいけないよ、ときつねのこは念押ししました。どこかで見た映画のようだ、と女性は思いました。
女性は最後にきつねのこをじっくり見ました。異様な姿ではあるけれど、とても優しい少年でした。なにかお礼はできないか、女性は考えました。ふいに、首元で何かがきらりと光るのが見えました。女性のつけている首飾りです。高いものではありませんが、今の女性にはこれくらいしかあげるものがありません。
「きつねくん、これ。安物で申し訳ないけれど、お礼にあげる」
「なあに、これ」
「ネックレス…って言ってもわからないか。首飾りだよ。首につけるの」
女性は、自分の首から外して、かがんできつねのこの首につけてあげました。その拍子に触れたきつねのこの肌が、ぞっとするほど冷たかったのですが、女性はもう気にしないことにしています。
「うーん、その格好だと似合わないなあ。というか、女物だし…」
女性はぶつぶつ呟いていますが、きつねのこは首飾りに夢中です。こんなにきらきらと光る綺麗なものは見たことがありませんでした。
「お姉さん、ありがとう! 大事にするね! 」
女性は、きつねのこの笑顔を見て呟くのをやめました。かわりに満足したようで、女性も笑顔になりました。そして覚悟を決めたのか、
「それじゃあきつねくん、今までありがとう! 」
「うん!お姉さんも気を付けて! 」
女性は真っ白な四角形に向かって歩き出しました。
決して振り返らず、ただ白い四角形を見つめ、女性は歩いて行きました。
真っ黒だった世界は、次第に灰色になり、やがて真っ白になっていきました。ついに四角形の中に入った女性は驚きました。あの信号の前に立っていたのです。赤信号でした。やがて青信号になって、この時も盲人用信号のボタンが押されたのか、電子音のとおりゃんせが聞こえてきました。信号を渡りきると、目の前に神社があることに気づきました。
「神社…知らなかった…」
女性は、いつもこの信号を使っているというのに、意識したことがありませんでした。そして神社の傍には、落ち着いた雰囲気の喫茶店がありました。女性はこれまで知らなかったことが多かったと気づきました。よく見ていると、見慣れたこの街のことを全然知らないのだということがわかります。
しかし、女性は自身の心境の変化がどうして起こったのかが思い出せません。彼女は新しく感じる街をぶらぶらと歩いています。どうもそのまま家に帰る気にならなかったのです。
とある店の前を通った彼女は、ショーウィンドウに写る自身の首元に、ネックレスがついていないことに気づきました。
「どこで落としたんだろう」
決して高いものではないため女性はまあいいか、と呟いてようやく帰路につきました。
***
きつねのこは、女性が白い四角形に飲まれてからしばらくは真っ黒な世界でぼうっと立っていました。
気が済んだきつねのこは、鳥居へ帰っていきました。囲い石の上に立ち、ふわりと飛び上がって青い池の中に入っていきました。わずかに水の中に入る感触があり、一瞬後にはふわふわと空を舞っていました。赤い光の中を降りていったきつねのこは、そのまま静かに着地しました。その拍子に揺れた首飾りが、赤い光を反射してきらりと光りました。きつねのこは微笑んで、住処へ帰っていきました。
外はもう、濃い青色になっていて、白い星のようなものがちらちら輝いています。きつねのこは、首飾りを外して手に持ちました。空に向かって掲げると、首飾りもまた星の一つのように輝きます。
「楽しかったなあ」
きつねのこは、赤い夕日の話が忘れられません。いつか見たいと思いながら、眠りにつきました。
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