最終話17

 首を巡らせようとすると、貧血のために目がくらんだ。おそらく、全員死んだものと見なされて追っ手がかからないのだろう――もしくは向こうの手駒が切れた。

 この分だと一宇は無事に戻れそうだ……。

 星空が朝日に食い破られる予感がする、それを見上げ、ランゼルは傷口から手を離した。その温もりだけが体を温め、しかしそれは表層のみでしかない。

「……寒いな」

 身震いして、もはや痛みのない状態に薄ら笑う。穏やかだ。静かすぎて怖くなる。

 寒い、

 何を考えているのか分からない。

「帰り、たかった……」

 さいごに思い浮かべるのは、一体誰の顔だろう。

「寒いな……」

 砂が、いつかすべてを覆い隠す。

 

 どのくらいの間、走り続けていたことだろうか。砂の中の曙。曙光を受けて、気が晴れるわけもなく。しかし一宇は、叫び声をあげながら、見えてきた基地に突進していった。どうしようもなく安堵する思いと、裏腹に引き裂かれる重い痛み。体の半分を砂のどこかに置き忘れてしまった、それがずっと呼んでいる、けれど振り返ることは出来ない。とらえられて砂に沈むのは、半身だけでたくさんだ。

「必ず、かえ、る、から……ッ」

 転ぶ、けれどすぐに両腕をついて起きあがる。天は高く澄み渡り、明けゆく色が徐々に青さに吸われていく。

 希望を期待させる空。誰も救いはしない空。

「誰が、死んで、も、……っ」

 足が重い。体が鉛のように沈む。軽い色の黄砂たちが、嘲笑うかのように辺りを囲む。この砂のどこかに大佐が居る。どこかにはレジスタンスが屍を並べ、またある場所では子供たちが目を覚ます。平穏無事であることを祈り、ある者は復讐を誓って起きあがる。

 この世界には希望がない。しかし、何もかもを諦めてしまうには早すぎる。何もかもを奪われるこの大地では、生きることだけが存在証明だから。どんな絶望も越えていこう、この世界で生き延びて、そうして、成すべきだと思ったことをなす。思い残しのないように。後悔を、しないように。取り返しが付かなくなる前に。手が、届かなくなるその前に。自分自身のためだけに、誰かを愛し、誰かを守り、慈しんで、生きていくから。たとえどんな犠牲を払おうとも、悔しさを抱えても、絶望しても、希望が無くても、……それでも私は、この地に生きる。

   *

「戻ってきたぞー!」

 誰だろう、懐かしいようなそうではないような、感極まった声が耳元で聞こえた。

 一宇は倒れかけた体が何かに受け止められるのを感じ、それが砂ではないことを不審にさえ思った。

「よし、よし……!」

「よく戻ってきたな……!」

 左右からわしわしと頭を掴まれ撫でられる。よろけた体を、真後ろと脇から誰かの腕が支えている。

 真上から被せられた毛布から嗅ぎ慣れた基地の匂いを感じて、一宇はどっと力が抜けた。

 戻ってきたのだ。……自分一人が。

「ど、どうしよう先輩、お、俺、たい、さっ……大佐が」

 ざ、と砂を踏む。引きずる足が、わなわなと震えた。体が力の底を尽き、足腰がまったく言うことをきかない。

「たいさ、が、」

「……うん、分かった」

 それだけで、周囲の軍人はその理解を共にした。長い間の経験が、彼らに、ある法則をしみこませていた。時間までに戻れない者は、大抵、この世の住人ではなくなっている。

(必ず、戻る)

 そう思うのは、誰だって同じこと。

 しかし、誓いは破られた。

 彼は戻らなかったのだから。

「これが夢だったらどんなによかっただろう」

 誰かが言った。一宇は薄れ行く意識の中で悲鳴をあげる。ふざけるな、これが現実だと、ここが生きる場だと、自分たちが認めないで、誰が認める?

(大佐が、死んだかもしれないなんて、そうやって守った現実を否定するなんて)

 まぁそう怒るな。

 あの笑い方が脳裏に浮かぶ。

 許したいのかも知れない。

 本当は誰もが、自分自身を許したいのかもしれない。そして世界を。

   *

「以上をもって、連合国家ティマス設立を宣言するものとする!」

 歓声のわく会場に、あくまでも悪運の強い男が毅然と立つ。それを半ば呆然とみやり、一宇はその軍勢の中には加わらず、そっと列を離れていった。階級と所属を言えば、それなりに自由を保障する――生きて戻った“功労者”にはそう言った確約と言う名の管理が確立されていた。功労者の中には無論九条や内田らも入っている。

 砂の上を黙々と歩いて基地に戻る。

 途中、さびれた囲いの中に木が立っており、その中に数名の人影を見る。

「……先輩?」

 九条が片手をあげて招く。無言で呼ばれ、一宇は自然足を速めた。

「ここはな、一応、名前だけでも残しておこうって、何年も前からこっそり使ってる場所なんだ」

 地上に居るのにもかかわらずエアジャケットに首を埋め九条が指さす。

 遠く、広場から聞こえる声。拡声器は無情にもその者を大衆と選別する。

 ――諸君の手がなければなしえなかった、

 声はどこまでもうろんに響く。

 足下の砂が、植わった木に遠慮なく吹き付ける。

 ――国家という枠を失い崩れた統制を取り戻すことは危険だろうか、

 その木の下に、小さな、手のひらにも十数個並べられるような、木ぎれで作られた墓標がある。

 基地に居ながら死んだ者のために。

 外の世界で殉死した者のために。

 戻っては来られなかった者のために。

 ――滅び行く文明は、画一化によって起こされたが、同時に、国家を失うことで互いの関心を失ったため自身の文化に慢心したためとも考えられる、

「そんな……その程度で滅ぶような世界、」

 繰り言を言う為政者の声に、熱に浮かされた民衆は容易に騙されていく。煽動者の声に耳を傾けてはいけない、彼らはこちらの声を聞いていないから、必ずや丸め込まれる。

「こんな世界、滅びてしまえ」

 砂の上にはたはたと舞う国旗、古びた軍旗。太陽。雲は流れ、誰の上にも影を落とす。

 もう二度と出会えない。これはすべて歴史となり、ありうべきすべてであり、やがてすべてから忘れ去られ、憶測の元で偽りだけがまことしやかに語られることとなろうとももはや死者は訂正の声を持たない。

 苦しいかと誰かが問う、

 誰かの口を借りて問う。

 あと一年早ければ、あと二年、あと、

「……仕方ないですよ」

 それを言うしかないから、一宇は苦い顔で地面にしゃがみこむ。

 過去には既に手出しが出来ないから、

 だから彼らは涙をぬぐう。

 語ることだけで復讐をする、失われていく過去に向けて、飲み込んでいく未来に向けて、

 せめて今だけ。

 貴方の名前は、勇姿は、残したい。

 見たことのある名前、知らない名前、既に字も削れた木、そして地面に埋もれて再び地上となった墓標。

 その中にはあの人が居ない。

 一宇の視線に気が付いて、九条も隣に腰をおとした。

「あの人、まだ分かんないだろ。どっかに居るんだったら助けに行かなきゃ」

 うつむいた一宇の頭を撫でる大きな手のひら。見知らぬ男が乱暴に、励ますように触れていく。軍曹の階級章を持つ者などここに来て何年か経つ者たちは、別れの経験がかなり多い。初年兵は大半が死ぬから、やむを得ないと言えばそうだ。

「もしここを出ても、俺たちに言えば入れてやる、ここには皆、帰ってきても良いんだ」

 がさついた声と手で背を押され、一宇は数度頷いた。

「戻ってきて、良いんだぞ。この基地に所属したことのある奴らは皆、この木のしたで宴会をしても良いんだ、生きてる者もそうでないのも」

 一度壊滅状態にまで被災したこの前線基地で、この木は焼け跡に残されていた。足下の墓標も多く残った。誰もが奇跡を信じたくなる、そうだろうと男が笑う。いつまでも戻ってこられる故郷になると、彼は涙声で笑う。

 泣き笑いの顔をする彼らは、とても戦場の冷徹な者たちとは思えなくて、一宇はただ、呼吸のたびに息が震えた。

   *

 彼らと離れ屋内に戻ると、たちまちのうちに感傷が日常の中に埋没した。

「ハイそこの人、診断はちゃんと受けた?」

 白衣の女に呼び止められ、一宇は答えるために気持ちを切り替える。

「はい」

「なら良いの。感染症には気をつけるのよ」

 女は手を振ってそれだけを言うと、再び他の者に声をかけて医者にかかるよう指示をし出した。

 生き延びた者らの、乗り越えた先にある苦難というジレンマ。それを感じさせず、他の軍人たちはてきぱきと動く。

 

 宿舎には殆ど人気(ひとけ)がない。

 本当に、ここに居るのが自分で良いのかと、一宇はひどく不安になる。

「本当に、俺が帰ってきて、良かったのかな」

 自分の使っている部屋のドアの下に手紙が挟まっていた。家族の名の記された封筒を手に、一宇はそのドアを開ける。

 手紙の封を切ると、どこか懐かしい匂いがした。気のせいだろうか、妙に感性が過敏で鈍感になっている。

 封筒から手紙を引き出すと、そこには母の筆跡から祖父の字、さらには他の血縁の者の字が踊っていた。ふと思い出す。祖父に、以前、何故そんなにひからびてまで生きているのかと問うたことがあった。――実際は曾祖父だか何からしいが、一宇はきちんと続柄を覚えていない、ただ爺ちゃんと呼び慣わされている男であるとは分かる。そのころ一宇はまだ幼く、今でも思い出すだに恥ずかしくなるのだが、毎日さほど笑うこともなく生きている男のありさまが気になったのだろう。

 そしてそんな無礼な発言に対し祖父は言う、すべてから自分が忘れ去られても子孫が居ればそこにすべてが繋がるからと。

 だから決して悔いないのだと。

 飽きもせずに今年も砂漠を緑化するために苗を買うのだという手紙を貰い、一宇は呆れた顔をして、それから、机に突っ伏した。

 基地の中はひどくがんらんどうに見える。

 外を歩く人影もまばらだ。

 途中で抜け出して、こうして部屋に戻っても、今はまだ誰も咎めない。

 手紙。

 にぎりしめた紙片が音を立てる。叔父の笑んだ顔を思い出す。砕けかけた飛行機を操って戻ってきた男は、そのとき煤(すす)けた頬に家出をして戻ってきてしまった少年のような笑みを浮かべていた。叱られるかなと笑う彼が、生きて戻ったことに人は驚いた。遊撃隊の名に恥じない働きをしたとどこかの記者はかき立てたが、すぐに話題は他へ逸れた。それはほんの数日前の出来事である。

 怒れないよ、

 一宇は唇だけでそう言って、再び机から顔を上げた。

 日差しはうららかに地を照らし、今もどこかで同じ戦争が行なわれている。

 何かを、誰かを、責めていられたら良かったのに。ただ無心に、敵対者を掲げていられれば、この不条理に気付かなかったのに。

 戦うことに何ら痛みを伴わない者も見た、徴兵されて戻ってきた者らが精神的な痛みから逃れるために酒浸りになるほかなかった現実も見た。昔は何も知らなかった。あまりにも無知だった。誰かが死ぬことも生きることも、それぞれの苦しみも痛みも、ちゃんとそこにあると、理解できていなかった。

 今は、違う。理解はできないけれど、あるのだと気付いた。ため息をつき、一宇はポケットを服の上から押さえる。まだ、この基地を去れない。やり残した事がある。思い出すと自然と脳が耐えられるように調節機能を働かせる、涙が出てすべてを思い出に昇華してしまおうとする。

「出会わなければ、良かったのに」

 違う。立ち上がる。

 これ以上立ち止まらないで済むように。

 

 僕は、生きるために戻ってきたのだから。

 君たちに会うために生まれてきたのだから。誰かに出会うために生きてきたのだから。

 それらは決して、死ぬためじゃない。

 死んでいくから生きられるのだと。

 ただ、信じて。

   *

 喫茶店に赴き、これ以上もなく途方に暮れた顔をして、佐倉一宇はドアを開けた。

「あら、いらっしゃい」

 軽く片眉をあげ、迷子みたいね、と女性が笑う。

「すいません、お仕事中に」

 確かに、家族には彼の不在が告げられているというのに――マリアンは普段通り、紅茶をいれて客に運ぶ。

「ですが、お渡ししたいものがあって」

「私に?」

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