最終話8
随分と静まりかえった森の中で、日光がかすかな一条を苔の上に投げかける。
鮮血が流れ、辺りの清浄さに生臭い気配を漂わせていた。何だろうかと眉をひそめると、茂みに誰かが倒れ込む。
「おい、」
初め、一宇は、それが誰なのか分からなかった。影の中、浮田=ランゼルが口を開く。
「誰か、」
息を殺したように、あれだけの距離を走り抜いたにしては全員が無音だ。静まりかえった世界の中に、来し方より流れ来た風が燻煙の匂いを漂わす。大佐が、揺らぎを微塵も感じさせない声で言う。
「おい、誰か楽にしてやれ」
まるで盆にこぼした水のような目で男はこちらをゆるゆると見上げた。茂みはもう、どす黒く染まり、血の暖かさなど微塵も感じられない。
「腕がちぎれたくらいで、そんな」
囁き声は睨まれて消えた。
一宇は自分の声を激しく呪った。たかがそれくらいのことでも、そう、『足手まといになるのならば』始末しなければならないのだ。
一打で死ぬことの無いような中途半端な傷跡は、『運が良ければ』一週間ほどもかけてウジを湧かせながら『生きる』ことが出来る。しかしそれを幸福だと思うだろうか。
敗残兵に踏みつけられ、動物に肉をかみちぎられ、夜は虫の音が近づくことにむしろ怯え、身体中をはいずりまわる異物の感覚にもがき苦しまねばならない。
そしてそれでも死ぬことは出来ないで。
既に赤痢に似た症状も出ており、その男が行動を共にすることはもはやできそうにもなかった。
医療設備があったところで、すでに足の指まで壊死が始まっており助かるかどうかひどくあやしい。
大佐はみじかくため息をこぼすと、自ら短銃の引き金をひいた。
「すまなかったな」
一言だけ残して、大佐は銃を仕舞う。慌てて数名が男の遺体にたかっていき、未だ使える銃器と未使用の弾丸を回収した。使えるものは残さない、すべて彼らが生き延びるためだ。
やがて、今の銃声が確実に敵兵に悟られただろうことを理解した上で、かの一行は進路を北寄りに変更した。ひどく静かな行軍だった。
「あーやだやだ……湿っぽいのはキライだよ」
バードが言って、いつの間にか血だらけのドッグタグを拾っている。
それらが幾つも列をなして、彼の首にぶら下がっていた。
「あぁこれェ? とりあえず拾えるもんは拾うタチなの、俺。これだって金属で出来てるし、いざってぇときに使えないこともないからねぇ」
一宇の視線に答え、彼はついでに死者からくすねてきた数個のビスをズボンのポケットにしまった。
「勿体ないっしょ、」
「……じゃ、ないんですね」
「はん?」
少年にも見える彼がずっと年長だと――一宇はもう気付いている。
「タグ、持って帰って遺族に渡すんじゃ、ないんですね」
「あー、俺が無事に帰ったら返してるけど。結構、そのご遺族とやらも死んでることが多いからなァ」
死んだことを知らせないのと、知らせることと。
どちらも残酷さ、と無関係なように彼が笑った。
「分かってるだろ若造。さっき大佐が一発で仕留めたのは慈悲なんだよ、俺たちが惨めに騒ぎ立てないように。生き残る可能性はあの状態じゃあ考えねえンだ、利用されるのがオチだからな」
味方がもはや息絶えるばかりの場合、そしてそれまでの時間が長いと判断された場合に限り、彼らは口封じの意味もあって彼を殺す。
そのとき、彼らは一発しか撃たない。
銃弾は無尽蔵にあるわけではないのだ。
それこそ死に行く者のためだけに、生者の安寧が破られて良いはずもない。
だから正確な一撃で仕留められた仲間は、ある意味では幸福と言えた。
普通ならばケガ人は捨てる。わざわざ戻って楽になどしてやらない。手榴弾でさえ自決用に持たせているわけではないと言って奪い取る。
すべては生者が生き延びるためにあるのだから。
「もう、何がなんだか……」
ぼやくようにこぼれ落ちた言葉に、少佐が振り返ったが物言わぬまま前を向いた。
*
日が暮れる。この世で最初で最後の夕日が、黄昏を経て沈んでいく。
それが明日ものぼることを、彼らは信じて疑わない。
疑うことが無意味だから。意味があるとしても、それはただ、感傷しか引き起こさない。
銃を手に生きる時点で、日が沈むときのリスクとリターン、夜が明けるときの行動パターンの類比と理解のほうが重要となる。
「夜討ち朝駆けとはよく言ったもんだ」
ランゼルは掘り返した土の中でそうぼやいた。
夜陰に紛れて影に沈めば、気付かれるまでの時間が稼げる。少なくとも、昼間よりはあからさまに見えはしない。
「おい、今度こそここだろうなァ……」
うんざりとした言葉に、内田がひたすら平身低頭する声が聞こえる。
『間違いないはずです……!』
「なら良いンだけどよぉ……」
そこでふっとため息をつき、ランゼルは大佐らしく全員に指示した。
「じゃ、行ってくら。適当に布陣しいてガンバレ。粘れ、ぎりぎりまで粘れよ、バレんなよ」
「イェッサー、お気を付けてー」
ばらばらと森に紛れていく軍人の中に、あのバードも居た。
「お前も行くンだろ、中」
すれ違いざまにそう言われ、一宇は慌てて頷いた。向こうでは、大佐が土の中にあった人工の岩盤に掘られたナンバーを読み上げている。
「ハイ、多分」
「なんだそりゃ」
ぽんと一宇の腕をはたき、バードはまたなと口にした。とてもさりげなく当たり前で、しかしもっとも難しいことだった。
「はい、また後でっ」
返して大佐のもとまで駆けていく少年のことを目を丸くして見送った後、バードは、ふっと笑みを含んだ。
「……そうだな、できればな」
研究所の位置を示すプレートに従い、彼らは再び点々と散りながら移動を始めた。
*
「死ねえええェッ!」
「冗談じゃない、こちとら家族だの色々守るものがあるんでね」
口の端だけを歪めて大佐が引き金を引く。
飛びかかってきた人間の目は包帯のようなものでふさがれていたが、それでも動きは鈍くない。
「ここは自分が……ッ!」
佐倉少佐が前に出て大佐を行かせる。
「早くしろ!」
一宇を睨んで叫び、彼はまだ自由には動かせない右腕で銃を取った。相手はサバイバルナイフ一本きり、それでも銃で押し合ったまま佐倉は身動きがとれない。
「迷うな、来いッ」
大佐の後ろ姿が見る間に遠ざかる。一宇は叔父の無事を祈りながら先を急いだ。
一人欠け二人欠けして、あちこちから聞こえてくる銃声や悲鳴が誰のものかと考えるとぞっとした。
「行け!」
大佐が替えのマガジンを掴んでそう叫ぶ。指示を受け、一宇は何年も強い日差しにさらされて脆くなった岩を数歩で飛び越え、広い赤茶の岩盤に立った。腰にある物入れから震える指で布に包んで保護していた煙草ケースに似たものを取り出した。
「大丈夫だ、」
周りを固めてくれた数人が、こわばった一宇の表情に対して力強く頷いてくれる。
――大丈夫、でなければ困るのだ。
一宇は身震いして赤茶色の岩陰に接続コードを伸ばして繋いだ。外気にさらされた得体の知れない拳大の銀盤からドライバーでこじ開けるようにしてカバーを外すと、幸い中には、ゴミや埃で目が詰まってはいない多くの大小の細かな穴が開いていた。そこに繋いだ機械が、『向こう』からのデータを読み込む。
――Mの機密データでは、旧式のデルタ法とカクラース法が同時的に用いられています。
それが何だったか覚えがなかったが、一宇は、つまり研究所はこうしてデータで開くものと物理的な錠前とが併用されていることは理解できた。内田の声が、普段よりいくぶんしっかりして聞こえた、そのことまでも思い出す。
(左目の網膜認証時にチップの内容から介入を許可する指令のほうが、普通に突破するために偽造してシステムを騙すよりはやく済む、んだっけ)
でも、どうせなら誰か情報専門の局員と、自分、二人くらいセットにして送り込んでほしかった。焦る手で指定されたキーを打ち込み、一宇は認証システムが動作していくさまを息を詰めて見守る。
もし自分が手順を間違えば――そういうことは考えない。なるべくならすべて、成功する方向でイメージしておきたかった。
「何をやってる、まだか」
ランゼルが少し遅れて地点に到着する。使い切ったマガジンを投げやって、彼はしきりに後方を気にした。
「すいません」
「謝るな、練習したンだからその通りならできるだろ、後三十五秒!」
これは、何度も練習した手順。
外部戦闘の前には必ず演習を行う――腐っても軍だから、いくら法規や統率が乱れていようと、ただの自警団と見なされようと、彼らは常に歩数や手順、位置などを擬似的に計算されて作られた場所での練習を欠かさない。
一宇もまた、何度も閉鎖空間や外部で、この手順を練習した。
――大丈夫。
情報管理のプロである情報局局員は、殆ど全員、それぞれの戦局に対応していて手が余らない。しかも常ならぬ事態――マザーコンピュータMの始動に関わり、かつてない量の情報にさいなまれている。一人くらい補佐にほしかったが、出入り口ではなく数キロメートル離れた場所に数名のチームが待っているだけだ。そして彼らは、一宇が扉をあけたとき、その回線を受け継いで処理してくれる手はずである。
――俺が持ってる『目』が必要なんだったら。
きっと、開く。
(動いてくれ……!)
黒いコードがまるで有機物のように壁面を這う。じりじりと汗が赤錆びた景色の中に落ちた。一宇は託されていた認証コードの配列をメモリ内から片っ端から吐き出させる。
(動いた!)
びくりとした一宇に反応し、ランゼルがこちらを見る。しかし一宇は何かを返すどころではない。
網膜のチェックデータを求められ、一宇は持っているモバイルを使おうとして、右端の岩がかすかに崩れるのを目撃した。
「動きます! ちょっとすいませんっ」
周りの軍人を押しのけて、這うように身をかがめて一宇は端に移動した。
「あっ、た……!」
小さな穴。ざらついた岩に指をかけ、一宇は左目でそこをのぞき込んだ。そうまでしなくとも良いような気がしたが、確実性を期したかった。
どうやら確認はとれたらしい、手にしてコードを引きずってきた機械の画面に『仮許可a1817E6AWB』という文字が配列される。穴の中で耳慣れぬ金属音のかすかすという響きがして、穴が塞がり、一宇は再び元の場所に戻った。
「開くか?」
大佐のひりついた視線を背でうけて、一宇は頷いて――しかし一瞬の後に心臓が冷える。
声紋判定?
「ど、どうしましょう大佐……!」
声紋データを求められた。これはラファエルらの出した起こりうるチェックの可能性には入っていない。あり得ない話ではなかったが、網膜判定を行なうのであればそれ単体で済ませてくれるはずだと誤認していた。
縋るような眼差しに迷ったランゼルは、うろたえるように数度息を吸って吐き、一言、言った。
「ひらけごまでもなんでも良いから、どうにかしろ……!」
「そんな無茶な! 大体これ、声紋なんですよ!? 呪文じゃないんですよ!?」
「呪文とか言うか普通。暗号と呼べ」
「あ、暗号?」
voiceprintもしくはvocal printのアナグラムは?
「ダメだー思いつかないー!」
「ダメとか言うなバカ! 志気が下がる!」
一宇の後ろ頭をはたき、ランゼルは大佐らしくふんぞり返った。
「考えろ、何のためにお前を連れてきたと思ってるんだ! そんな腰抜けに姪はやらんぞ!」
「何でそこで大尉が出てくるんですかー!?」
半泣きの一宇に、大佐は更に重ねて言う。
「成功したらものすごく見直される、かもしれないな、英雄だな、そうかもしれないなー」
「あぁっ大佐それで良いんですか!? よくわかんないけどッ」
「ところで一宇、声紋って何だ?」
「音声を周波数分析によって縞模様の図表に表したもの。指紋とともに犯罪捜査に利用……って大佐後ろっ!!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます