鉄道橋と朝四時の氷

伯田澄未一

第1話

  キンポウゲの花が揺れる。

部屋の中、ガラス戸の陰から、何も身に着けない状態で、その群生を見つめる。

 私の眼は、くぐもっていると錯覚するくらい不良だ。花の金色がよどんで見える。

私は、廊下を戻り、戻りながら、

そこら中に転々と脱ぎ散らかした衣服を拾う。

脱衣所を通り過ぎ、二、三世代は古い洗濯機にぼととと投げ落とす。


 タンスから引っ張りだしてきた部屋着用のシャツとジーンズをずるずると履く。

 手首が隠れるほどのぶかぶかのシャツ、

裾を三回折らないとちょうどいいサイズにならないジーンズ。

なぜ大きいサイズの服しか持ち合わせていないのか。

理由は簡単だ。試着を拒んでいるからだ。外着はいいが、部屋着は着れるであろうサイズを買う。ちょうどいいものでなくていい。誰も見る者なんて居ないのだから。


 時計を見る。私が来る前からこの家にある壁掛け時計。内部には、昔は金色だったと思われる振り子。今は鈍色に変わり果て、秒針に合わせ、かちこち揺れる。

 時刻は午前4時17分。出勤までには一時間と少しほど時間がある。


台所まで戻り、ガラスのコップに氷を入れる。朝四時に精製される氷。私が冷蔵庫の製氷機に入れると大体この時間に出来上がる。これより早くては出来上がらない。コップの淵からこぼれるほど水を灌ぐ。ぱきぱきと水の温度が一気に下がる。


伸ばした服の袖で冷えたコップを包み、裸足をガレージへひたひた歩かせる。

 水を零さないよう慎重に私は歩く。

 古い家だから私の一歩一歩で軋んだ音が鳴り、それがやけに反響して私だけでないような可笑しな錯覚に陥りそうになる。

 一人だけでいることより人と居る方が怖いので、そんな思い込みは頭から追い出す。


再びガレージに戻り、木造の高い床から上から打ちっぱなしのコンクリートの地面を見下ろす。

 昔、車を二台置いていたというこの古家のガレージ。今は車は一台も無い。ここは、玄関にしてはやけに広く、ガレージにしては狭い。高低差の広い上がりかまちから足を下げ、花壇に植えたキンポウゲの花を見下ろす。花壇は6つある。6つ全てがキンポウゲだ。特別キンポウゲが好きというわけではない。ただ、通りがかったホームセンターの店先でそれが一番安かったから買っただけだ。


 花を見つつ、冷えたコップを両手に持ち、少しずつ冷水を喉に流し込む。美味しいと思うのは、私が食べることに執着がない象徴だろう。

氷を口に含み、口内の熱で溶かす。


 闇夜と、外から差し込む街灯の光と、香を放つキンポウゲと冷たい自分。

もうここで一日が終わってしまえばいい。願って違わない。

 花の香りは、私にとって華やかな印象よりも気怠い香のような印象の方が強い。

はっとさせられるというより、絡めとられて逃げられない。


ジョウロをとるのを忘れていたので、台所に行き、シンクの下に置いたジョウロにめいいっぱい水を注ぎ、花壇にまんべんなく、惜しげもなく注ぐ。

 6つの花壇全てに水をやり終え、ジョウロをガレージに放るように置いた。この家の周辺には高い建物は何もないから、戸建の物件にしては空が明ける様子がよく見える。


 外が明るくなれば明るくなるほど、私の気分は沈んでいく。沈むというより、どうしていいかわからない不安で満たされる。コップの水を空だった自分に飲ませる。

飲ませる。そういう言葉が適している。

意思のなさは何者にも負けない。

だが、それでは、生きていかれない。

ちゃんとしろよと、パーツを一つ一つはめ込むように、がしゃがしゃと、コップを片付け、虚ろに日常を、溶かしてかけていく。

ひどくでたらめな感覚で、進まないながらも出勤の準備をする。

 出勤用のカバンを持ち、いつものブラウスとパンツスーツ姿で、ガレージから外に出る。この家の玄関はこのガレージだ。セキュリティもへったくれもないクレセント錠をかける。

 振り向いて、擦りガラス越しのキンポウゲを見つめながら、私は声を震わせる。

 震えるのは、自宅で喉を数えるほどしか使わないからだ。

「行ってきます」

 私が唯一、家で発する言葉だ。

 ただいまもおかえりも、いただきますもごちそうさまもありがとうも、ごめんなさいも、この家にはない。

 キンポウゲが揺れる。

いってらっしゃいと言われたことはこの家では無い。

 それを望むのかと言われれば、望んでないと答える。

 一人が良い。

 強いからではない。

 ただの臆病者。

 だから花なんか愛でるのだ。


          *


 綺麗に巻かれたミルクベージュの髪。一本一本が水を含んだような輝きを放つ。

 薄い唇には派手な色のリップバームで染められ、血色が悪いと称されそうなほどの白く細い足を彼女は惜しげもなく晒している。

 長い睫毛にはパーマがかけられており、綺麗にカールを描き、目元は涼やかな紫で彩られている。

 全体的に派手な印象がある女性だ。存在感がある。堂々と、凛とした態度の彼女に振り向く男性は少なくない。

 ただ、彼女はそんなことは全くもってどうでもいいという様子で、眉間に皺を寄せ、腕を組み、ヒールで不機嫌に闊歩かっぽする。

 近づきがたい雰囲気美人とでも言ったところか。

 呻くような声をごくごく小さい後悔を漏らしながら彼女は通りを駆くように歩く。


 私は、あなたのどういうところが好きで、あなたは私のどういうところが好きだったんだろう?日の光に煌めく自分の爪のジェルネイルの眩しさを鬱陶しく見つめながら思う。

 あなたのことが分からないのは当然かもしれない。でも、自分の感情も今となっては十分謎なのものになってしまった。

 コーラルピンクにレース模様とラインストーンが上品に施されたネイル。誰もほめないそれを空しい気分で見つめる。輝樹てるきが見てもこんなの褒めてくれなかったろうけど。

 どうしようもない気持ちをしまい込み、行くところを探していたんだっけと、通りの向こう側を見つめる。しまい込んだところで、何をしようにも今の私には途方のないことに思える。

 今、私は名のつかないような通りをふらふらしちゃってる。名はあるんだろうけど、私だったら名前なんて付けない。なんなのこのザ・何もない通りは。店も何もないっていうか軒並みしまってるか怪しいマッサージ屋かハンコ屋しかないんだけど。爪に何も施されていなかったら噛んでるところだ。

 平日の日中、五月だというのに日差しはやけに強くて、外にいることも非難されている気分。御茶ノ水でサークルの子たちと打ち合わせをした後、なんとなく電車を乗り継いで神田まで来てしまった。数えるほどしか来たことないのに。高校時代の先輩が写真の合同展覧会やった時くらい。ここら辺のお店は全然知らない。なんでこんな何もないとわかっているところに、わざわざ足を運んでしまったんだろう。いつもみたいに新宿のルミネかスタバにでも行って、お茶して帰ればよかったのに。明るく開いた通りなのに御茶ノ水に比べて人はまばらで、出てきてもすぐどこかへ去っていく。

 目的のない私はそうすることができない。なんだか嫌に悲観的になる。

ぐずぐずとした苛立ちは引き際を逃して私の胸を引っ掻き回す。

 やだわ、情緒不安定。額に手を当てる、少し汗ばんだ額の汗をゆっくりと手の甲で拭う。バッグの中を見たけど、生理痛の薬しか持ってない。

 仕方がないから、路面のコンクリートをビジュー付きのヒールで叩くように歩く。石橋を叩いて渡るっていうけど、崩れるか確かめるために叩いてるんじゃなくて、崩れない確信があるから叩いていると思うのよね。

 誰が為でもない自分のためのヒール。レース模様のデコラティブなネイル。グレーのショートパンツ、オーバーサイズの首の詰まったロゴ入りのスウェット。サマンサタバサの合成皮革のハンドバッグ。

こういう全体的に統一感のない恰好。あの人の嫌いなもの。それをあえて身に着けて歩く。何のためにって聞かれたらただただ笑いたいために。今日は久々にこういう格好して外に出た。自分の胸が高鳴る音が聞こえた。

 好きな人が嫌がる格好をして喜ぶなんてどうかしてる。

いや、厳密には好きだった人かしら?

 ううん、あなたのことはもういいの。考えたくなくても自然に考えちゃうから。 代わりに私が好きなタイプを浮かべていく。

眼鏡をかけている男の人。

あなたは眼鏡をかけていなかった。

優しい。

自分のアイスの一口をくれないような人だった。

食べ方の綺麗な人。

あの人は、輝樹は、

見ていて顔をしかめたくなるくらい汚い食べ方をする人だった。

交友関係の少ない、卑屈で・・・もういいでしょ。

結局あの人のことしか考えられない。

 一体私はあの人のどこが好きだったのよ?

 疑問符を自分に投げかけるまでもないことは明白なのにわざわざこんな禅問答するのは、それがチープすぎて認めたくないからだ。。

 ただ私を、樺中紅珠かばなか こうじゅを好きだと言ったから。それだけのこと。

 なんでそれでオーケーしちゃうのかな。居るから幸せとかそんなわけないのにほんとバカ。二年一か月前の自分がいたらソロ充の方が百万倍いいわよって服の裾が伸びるくらい必死に止める。(むしろ携帯をトイレの洗面器に沈めるわよって脅す、それくらい辞めといたほうが良かった)

 ちょうど私も彼氏がほしかったし、人に求められて悪い気はしなかった。そういうところよ。そういうところが安いのよ。だからいつも何かに対して手放しで喜べない。

 本当に自分がそれを好んでやっているのか分からない。そうであるべきなんだろうなって方に行っちゃう。それ誰が見てんのよ、誰に褒められたがってんのよ。

 望まないもので埋め尽くされてる。やだわ、ぐらぐらするし、異様に喉が渇いた。

 もう本当、ままならない。逆にままなってきたことがあったっけ?やば、もうこの思考が最高にダウナー。

 なんでこの場所で禅問答しながら店探すのにこだわってんのかしら、戻ろ。くるりと体の向きを反転させた瞬間、眼の端に一件の喫茶店が入ってきた。夏那なつなと一緒の時だったら、喋りながら通り過ぎて話題にもしないようなお店。でも、私、本当はこういうとこ好きなんだよね。あまーくてふわふわでシズル感あるメニューも、それはとても素敵だけれど。一人でも生きていけるような人たちが集まって時間を共有しているような、こういうお店も好き。ひとりでもっていうか、ひとりじゃないと?

 店は『角砂糖』という店名だった。軒下にアンティーク風のオシャレな鉄製ボードの看板がぶらりと釣り下がっている。角砂糖の文字は黒地に白い文字でところどころに蟻が群がってる。凝ったつくり、こういうの可愛いと思う。

外壁が煉瓦で、店の半分程が蔦に覆われて、ノスタルジックな、雰囲気があるお店。

 ビルとビルの間に取り残されたみたいな佇まいに惹かれて、弱った私は、ふらふらと入ってしまった。

「いらっしゃいませ、お好きな席にお座りください」

 店に入った私を迎えたのは若いウェイターだった。頭を明るく染めた人当たりのよさそうな男の人というより男の子という印象の方が強い。彼が、その若さにそぐわない優美な仕草でフロアに立つ。

 言われたまま私は一番奥まった席に座った。タバコとコーヒーと油とクリームそれらの残り香を払拭するように、少しだけハッカの匂いがした。たぶん布巾に染み込ませてそれで掃除しているのだろう。

 席に着き、荷物を置くなり、テーブルに置かれたえんじ色の背表紙のメニュー本を眺める。二分ほど悩んでから、先ほどのウェイターを呼び、アールグレイを頼んだ。

 メニューを閉じ、お冷で喉を潤す。

店内に鳴り響くゆったりしたジャズ。耳当たりのいい、大衆に向けた音楽。

弱った自分を癒すのは、音楽でも、映画でも、友達でも親でもなく自分だ。自分と根気強くお話しするしかない。欲してる言葉をくれるのは最終的に私自身しかいないのから。独り言は気持ち悪いから敬遠されがちだし、共有が何より大事だけど。頭がある限り、バイト先の主任と平社員の根岸さんに態度変えてる私がいる辺り、マルチタスクで生きているんだから誰だって少なからず多重人格だ。

 その自分が今は堪らなく愚かしいとしか思えないけけど。

 この爪も、つけまつげも、ねっとりとした感触のグロスも、風通しの良すぎるショーパンも全部脱いで剥いで、ターザン張りのトランスフォームを遂げて、脱ぎ捨てたそれらは、私の右斜め前で頼んだアメリカン放置して京極夏彦の文庫読んでいる、若干頭がクールビズ気味になってるおじさまの頭に、プレゴーゴーではっつけてやりたい。

なんてひどい発想なの。笑えない。深夜のテンションかしら、飲んでないのに。

はーっとため息をつく。

考えれば、無理をしていた。無理をさせていたといってもいい。

 いつからあの人といることが嫌になってしまったのかしら。何かしてくれても気遣いを煩わしいと感じてしまった時点で、関係性としてアウトだ。ダウトしてベッドして王手でリバース、ワイルドスキップを繰り返して目くるめく赤緑黄の世界で楽しく暴れまわって互いを顧みないで悪口ばかり言って、でも外面は最高に良くて。そんな見栄を張った最悪の関係性でしたね。

 あー、悔しい寂しくて堪らない。輝樹にすごい連絡とりそうなんだけど、メッセージで輝樹の名前を出しては消す手。無意識に簡単に動く私の信用ならない指。本当、あいつの思うつぼじゃない。

 いや、思うつぼでもないか。駆け引きさえも破綻はたんしている。気を惹きたいから最終的にものにしたいからなんて甘ったるいエゴもそこにはなくて、そんなものもただただ迷惑でしかない好きから嫌いから顔見知った他人への残酷なまでの格下げって、私が望んだんだけどね。

 たださぁ、私は優しくされたいって思っただけよ?それだけで虫の居所悪いからって関係すぐ壊れるするなんてありえなくない?あんたなんて誰だって願い下げよって思ってもあっちは普通に一か月ごとか余裕で恋人作ってそー。ほんとむかつく。適当な男友達に声かけて私も彼氏作っちゃおうかな。私もってあっちが彼女作るとは限らないけど。

 だって、全然会えてなかったからもうちょっと会える時間作れないって言っただけじゃん。それと旅行行きたいなって言っただけなのに、そっちはついてきて気楽なもんだよなって免許取らなくてもいいんだよ、俺がいるうちは運転してやるよって二年前付き合ったばっかのころはよく言ってたじゃん、今どき珍しくてお嬢様っぽくていいとか、今から思えばは?みたいな褒め言葉とか使ってさ。ホント冷めると一気に嫌になっちゃう。

「お待たせいたしました、ごゆっくりどうぞ」

気が立ってるから言われなくてもゆっくりするわよって思っちゃう。可愛くない。

 運ばれてきたアールグレイは、何にも知らない私から見ても良いものだってわかる茶器に入って琥珀色に輝いている。ちょうど真上のランプの光が、アールグレイに移ってゆらゆらと反射する。

 ふうと用心深く冷ましてから、一口口に含む。

 気持ちが落ち着く。誰も私の焦燥も落ち着きも知らない。

 知られないまま生きて死んでいく。

かちゃんと、ティーカップをお皿に戻す。

半分ほど残った液体を見ながら、私は確信を持って、手をきゅっと握りしめた。

 私は輝樹との関係を断つ。だって、もう未来がないもの。

 連絡先一覧から彼の名前を選び消去。ついでにメッセの送受信内容も全消去した。サークルとかは別フォルダだから何の問題もない。

 未来を共にしたいというほどの中でもなかったけれど、私が悪かったんだけど。

 一緒に居たかったのは輝樹だった。

 ティーカップを置き、テーブルに備え付けのペーパーナプキンで口を拭き、席を立つ。

 伝票をレジに置くとすかさずウェイターの男の子がレジに立った。

 会計を済ませ、出ていこうとすると、コーヒー味のキャンディを渡された。

「またお越しください」

 安っぽい笑顔で言っては、私を見つめる。

「ご馳走様」

 多分もう来ない。こんな気分を味わうのは沢山だ。

 一人でいたいなんて、狂っている人の願望。私はそこから遠のきたい。静謐せいひつさなんて無縁の、光があふれた場所で、楽しいってだけで笑っていたい。

 あの子バカみたいと言われても、安い感情でいい。一人でなければ、早く次の止まり木を探さなきゃ。私は街から逃げるようにヒールを鳴らし、電車に乗った。

 誰かのそばに居たい。知らない街で、なんで一人でいるのかとか、あっちが悪い自分が悪いとか考えんのはもういや。二度とこんなへんな行動したくないし、もっとハッピーでいたい。誰でもいい、私が好きで、私を好きな人なら。とりあえず夏那に連絡を取る。

「いきなり電話してごめんね、輝樹てるきほんと無理だった。辛すぎるから会いたいんだけど、いまどこ?」


          *


  昔のことだ。休日の朝早くから親に連れられ私は駅のホームで電車を待っていた。

 ふつう覚えているであろうことは何も覚えてはいない。だが、その姿だけが目について離れなかった。どこになにをしにいったのか、何を食べたのか何を着たのか熱かったのか寒かったのか両親の機嫌はよかったのか。すとんと抜け落ちた記憶の溝にその光景だけがすぽっと嵌っている。

の人は、黒い帽子をかぶり、白いシャツに灰色のパンツで、白い手袋をつけていた。(半袖だったので、季節は夏だったか。)前方を確認し、ゆっくりと腕を上げる。それから静かに何の音も出すことを許さず後方を見ては腕をあげ、電車の過ぎ去った後の何もない場所に数秒立ち、異常がないことを確認すると車いす補助のスロープを腕に持ち白線の内側を歩く。

そのくらりとする程の無駄のない動作に、私の全ては持っていかれてしまった。

それからだろうか、それよりも前からだっただろうか。

私は全てを削いでそれにその行為に、景色になることに心血を注いだ。命を賭したといってもいい。自分が女性であるということも擲ってあのホームを、あの人を、電車を制服を、空気を、私は求めた。

そして、それに近い場所で私は一人でいる。


「お疲れ様です、お先に失礼します」

 小声で事務所から出た。すぐにおつかれーィという、だいぶ年上の先輩方の声が部屋からそそくさと出た私が、それでも認知されているといういことを知らせてくれる。階段を下り、地下の更衣室に急ぐ。急ぐ理由はないのだけど、はやくこれを脱ぎ捨ててしまいたい。

 電気はついていないが、それでも念のためノックしてから部屋に入る。

 数秒待ったが、声がないので、ドアノブを引いた。

 ここの更衣室は、学校のプールの更衣室に似ている。あと、入社前に想像していたよりも広い。女子社員が少ないし、出勤時間にはずれがあることが多いから、人口密度が高くなりにくいのでそう感じるのだと思うけれど。ビオレのウェットシートでうなじから胸の間、背中、太ももの内側、汗をかきやすいところを重点的に拭き、ひととおりふき取ったシートを丸め、ごみ箱の中に落とす。制汗スプレーを体に吹きかけ、手早く着替えを済ませる。薄い胸を守るのはシャツとキャミソールだけだ。こんな薄い布何枚かでは守ってすらいない。

小学生か。小学生でも今時ブラジャーくらいつけている。制服を脱いでも似た質のストライプのパンツに、紺の量販店のパーカ。良くも悪くも目立たない。

私服をすべて着込み、テプラで三鈴みすずと書いてあるロッカーに鍵をかける。

 みすず。みすずしい。

三鈴詩衣という私の名前を私は快く思っていない。仰々しい名前だが、別段詩が好きなわけではない。それでも、幼少時には、単純だったし、好きになろうとしたことはあった。でも読み物の方が格段に好きだった。どう為れないところで名前が替えられるわけはない。

時計を見る。今日は早く上がれたな。制汗スプレーの煙にせき込みながら更衣室の戸を閉める。誰もいないが癖でお疲れ様ですと、呟いてしまった。変だろうか。悪いことではないのだからいいか。

それとも何か、職場の人たちを怖がってしまっているのか。

当てどもないことをふつふつ言いながら、自分の焼けた腕に目をやる。毎年のことながら、焼けている。これで季節が廻っていると体感する。あとは乗客の服装。わけのわからないセンスの持ち主は冬でも毛皮にキャミソールに、赤いパンプスだったりするが、サラリーマンを見ていると季節がよくわかる。

 地下から地上に、ホームに出る。ちょうど来た京浜東北5駅分を睡魔と格闘しながら帰る。

最寄り駅に着き、駅から8分ほどの距離のスーパーで買い物かごにもやしとパプリカと牛豚のひき肉と、冷凍食品が安かったので、シーフードミックスを買い、二階で生理用品とゴム手袋とゴミ袋を買った。帰り際に明日の朝ご飯用の茶漬けと梅干も追加で購入した。

 それなりに重さを持ったレジ袋を下げながら家まで歩く。

後ろで、足音がする。

足音はいくつもあるが、その足音は、やけに私と息を合わせたような音でひたひたと、ついて回ってくる。

かすかに何の気なしに振り返ると、そこに居たのは、坊主頭の挙動不審な男性。紺色のジャンパにグレーのズボン。私の知らない人間。

やけにきょろきょろと周りをみて、私と視線が合いそうになると全力で避ける。

 さっきから、スーパーに入店する前からその坊主の男性がやたら視界に入る。まっすぐ歩いていたが、試しに右の路地に入ると、私より前を歩いていた男性も急転換して右路地に入る。コンビニに立ち寄ると男性も店内に押し入ってくる。声掛けをしてくるわけではない。ただ、尾行と呼ぶには下手すぎる。存在感を出したまま私の後ろを前をついて回る。困った。何が困ったって肉が腐る。

 何かこれから用事があるなら撒けるかもしれない。だが、もう家に帰ることしかやることがない。

 警察は呼ぶことができない。まだこれは事件ではなく、未然の最中だからだ。私の思い込みで一掃されるだろう。あぁ、面倒だ。恐怖を面倒にすり替え、問題の解決方法を模索する。

 仕事終わりだというのに、いら立ちが募り、舌打ちをしたい気に駆られる。

お前の為に苛立っているというだけでも苛立つんだよ。

干渉は避けたい。存在を認識していると相手に思わせたくない。何よりひき肉を買ってしまったので、早く帰らせてほしい。私の望みはそれだけ。

 がやがやとした人の声を聞きながら、スーパーの駐輪場で途方に暮れていると、

明るい頭髪の若い男がこちらに近づいてきた。

 私の後ろにだれかいるのかと振り返ったが、先刻せんこくからの男の他、私の周りには自転車しかない。

 柔和にゅうわな笑みで、想像していたよりも落ち着いた語調で、彼は私に話しかける。

「おねぇさん、お忙しいところすいません。少し道に迷ってしまったので、お伺いしてもよろしいですか」

 迷うほど建物なんてないだろう。大体この周辺であなたみたいな人が行く場所などないと、めいいっぱいの偏見で彼を見る。

第一、困っているのは私の方だ。あなたは私から見れば全く困ってないよ。

私は出来た人間でないので、不親切な当たり障りのない返しをする。

「それだと、警察署が向こうにあるのでそちらに聞いた方が・・・」

 話している途中だというのに、有無を言わさず私の目の前に携帯の液晶をずいと寄せてくる。

その画面は、私が予想していたものとはだいぶ違う様式だった。

 地図が表示されてはいた。

しかし、異様だったのは、地図上に手書きで書いたような緑の字で「先ほどから見ていましたが、つけられていますね」、と書いてある。

彼は、私が読み終わったと、察すると、1度それを消し、画面上を多くタッチし、し再び私に画面を向けた。

「交番近くまで一緒に言ってあちらが飽きるのを待ちますか?それとも連れ立ってこの辺歩いてまきますか。」

 私が文面を読んだとわかると、携帯電話を自分のズボンのポケットに収めた。

 ぞっとした。

 何も言わず不信感をあおる坊主頭の男より、この男の善意の塊のような行為の方が、よっぽど脅威じゃないのか?

 理由が不明な優しさ。それであなたにどんな得があるというのだ。尾けられているんだぞ。他人の面倒事だ。捨ておけ。

 最近のニュースを見ればそれがどれだけ異常性を秘めているのか知っているだろう。なぜ、突っ込まなくていいところに首を突っ込んでくる。印象としては閉まりかけの誰もが目を背けるドアに首と靴と腕を無理やり挟んでくるような。首を突っ込むどころではない。体丸ごとで厄介ごとに介在しようとする、そのスタンスが、君が悪い。立った鳥肌を悟られぬよう、私は服の袖を伸ばす。そんなことをしなくても相手には見えていないというのに。

 営業用であろう『素敵な笑顔』で私の表情の変化を捉えようと見つめ続ける。

 悪意からも善意からも、逃げ出したい。

 天女も脱兎だっとも蜘蛛の子も全て蹴散らし私が一番にどこまでも早く、遠くに逃げたい。

 慌ててしまった。あろうことか、私は最も劣悪な行動をとってしまった。

「ご案内します」

 男の視線に、耐えることができなかった。

「わぁ!助かります、ありがとうございます!」

 白々しい台詞。睨みつけたい気持ちを抑え、冷静に彼と話をしようと努める。

「あちらです」

 私も白々しい演技をする。あっちもこっちもないが、とりあえず私の家の方向に足を向ける。

 彼は素直に、笑顔を崩さす私の後ろを歩く。坊主の男も私たちの後をつけてくる

「なぜ、見てらっしゃったんですか?」

「何かあの人たちおかしいなって」

「あの方はお知合いですか?」

 彼は驚きもせず、想定内だと言わんばかりに朗々と答える。

「まさか!知り合いだとしても絶縁しますよ」

 そうだとは思っていたが、言うことがなかったので、口に出しただけだった。

「どうなさるおつもりですか」

「どうしましょうか、家まで送りましょうか」

「それはあなたに対して相当な信頼を寄せていないとできませんよね」

「そうですよね~、僕つけられたことないからこういう時どうすればいいかわからないんですよねー」

「なぜ、お声がけして下さったんですか」

 皮肉だ。分かってほしい。

「困ってる人は自分が困っても見過ごすなって雇い主の口癖なんですよ」

 雇い主。両親でも祖母祖父、叔父叔母、兄姉でもなく雇い主。

 改めて彼を見る。どう見ても高校生だ。いや、見えないが大学生かもしれない。

 もう少し自分が賛同する相手は選べよといってやりたい。血の問題ではないし、その雇い主と彼がどれほどの親密さかは知る由もないが、選べと言いたくなる、

「・・・当方でどうにか対処いたしますのでお帰り下さい」

「あ、いいこと思いつきました」

「お伺いしてもよろしいですか」

 全くよろしくはないし、聞きたくもない。

だが、私は方便を平然と吐いてしまう。

自分の思いを伝える能力に欠いていることにこういう時に不憫だと思う。

えぇ、ぜひとも聞いてください!と、彼はゴールデンレトリバーの生まれ変わりのような屈託のなさで提案する。

「僕の彼女の家に行きましょう」

「そこまでして頂かなくて結構です」

 度を越したろくでもない提案だった。名前も知らない私をそこに導いてあなたは自分の身をどこまで危険にさらすつもりだろう。

 というか第一、彼女の居場所を坊主頭に教えてしまうことになる。思慮を欠くとかそういうレベルではない。いいからもう開放してくれ。私もなぜこの一言が言えないのだろう。

「大丈夫ですよ、旦那さんも20時までいないって言ってたので、これから電話して聞いてみますね」

「好意は有り難いのですが、結構です」

 旦那と言ったか?聞き間違いか?

「遠慮することないですよ。遊びに来てねって言ってましたもん。旦那さん遅くまで仕事で一人でいるの寂しいんですって」

「そう、ですか。でも結構です」

 彼女がしたがっている火遊びとこれは全くの別種だ。

「どうしてですか?デンジャーな状況は何も解決されてないですよ」

「あなたの提案には別種の危険が潜んでいますので、私は乗ることは出来ません」

「そうですか?でも、助けは求めた方がいいですよ、どなたか男性にご連絡をされたらいいんじゃないかと」

「・・・・」

「いらっしゃらないんですか」

「えぇ、何か問題が」

「ありますよ、こういう時に傍にいてくれる男性の存在って大事ですよ」

 ほぼ年が変わらないであろう男に諭されて、私はおかしくて堪らない。

 だから何だよと、名前も知らない男をねめつける。

 私の怒りには気づかない様子で、男はのんびり「とりあえず、撒きましょうか」

 と言い、ぱちと、小さく手をたたいた。

 無駄に可愛らしい仕草に、もう何でも良いと、私は彼に任せることにした。

 巻き込まれている。巻き込んでいるのではない。普段人と関わらないようにしている罰だ。

「お家、どこらへんですか?」

「西区の方です、ツルマキという花屋をご存知ですか?あそこまで行っていただければ・・」

「ツルマキですね。わかりました、はりきっていきましょう」

 テーマパークのアテンダントのような軽やかさだとのんきに眺める余裕はなかった。

彼は、自然な行いだと言わんばかりに私の腕からビニール袋を抜き取り、もう片方の腕で私の腕を掴み、

駆けだした。

 走るだなんて!

本気で走ったことなんてほぼないのに。腕を力強くひかれ、私も走らざるを得ない。

彼はぐんぐんとあたりの風景を抜いて、どんどん速くなる。私もどこに行くのか何もわからないまま、ただ、駆けて駆けて駆けて駆けた。

 まるで、さっきまで気にしていた坊主頭を振り払うことでなく、速く走ることが私たちの目的なのだと言わんばかりに、

ひたすらに走る。猫道、人気のないバックヤード、寝具売り場、ビルとビルの間、工場の裏手、児童館の庭、私の知らない場所を駆ける。

 ここで生活を営んでいたはずなのに私が知らない道を、知らない人に手を引かれて。息を切らしながら、なぜだかショック受ける。

一片の余力も残すまいという勢いで、彼は私の手を引き続けた。

どれくらいは知っただろうか、彼が急に止まったので、私は彼の背中に頭をぶつけた。

 息を切らしながら、彼は達成感でいっぱいの顔で私の方を向いた。

酸素の行き届かない頭でも、感謝より怒りが先に浮かんだ。勝手すぎる‥‥。

「あ、ごめんなさい・・・おねえさん・・・っつは・・・花屋さん、着きました~。お疲れ様でした~」

「急に、・・・走り出・・さないで・・・ください」

「ほんとにごめんなさい。でも、撒けました。敵を騙すなら味方からって本当ですね」

 誰もあなたが味方だなんて言っていない。

「楽しかったです」

「そうですか‥‥っはぁっ」

「えぇ!おねーさん、帰り道お気をつけて帰って下さいね!さよならっ」

 人に降りかかった災難を楽しいとか言うな。私の買った荷物の中に、四角い小さな紙切れを入れ、彼は荷物を私に返し、すぐに踵を返して去っていった。

 軽やかに、それはそれは楽しげに。

 結局最後まで自分も彼も名前を名乗らなかった。

 息を整えて周囲を見回すと、撒いたという彼の言葉通り、あの薄気味の悪い坊主頭はどこにもいなかった。レジ袋の中の彼が入れた紙を取り出す。

 連絡先の書いてある紙だったならば即刻捨ててやろうと思ったがそうではなかった。

 書いてあったのは『喫茶店 角砂糖』。店の宣伝名刺だった。彼が働いているのだろうか、店の住所と連絡先が書いてある。個人の喫茶店でも名刺を作るとは気合が入っているなと思いつつ、紙を裏返すと『またトラブルがあったら呼んでください』。いつ書き込んだのか、彼のと思しき字が書いてあった。

 誰が呼ぶか。名刺を捨てるのも面倒で、また買い物袋に戻した。

 腕に残ったほの赤い跡。

 彼が私を先導したという跡。

 早く消えてほしいと擦る。

 私だけのガレージに戻るため、一人暗がりの帰路を歩く。

 あの男も、誰も、彼もいないあそこに早く戻りたい。

 臆病者は、花の群生に身を寄せる。

それくらいがちょうどいい。

関わらなくていい。

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