第30話 デートオアデッド

「ありがとうございました」

 数分間夜の街を走行し、家の近くまでやって来る頃には、あの微妙な空気もすっかりふつしよくされていた。

 運転手さんへの御礼の言葉には、多少なりしよくざいを加えた。もつとも、こんな深夜に胃もたれを起こしそうな甘ったるいやりとりが好きだというならば余計なお世話だけれど。

 けんらんな西二番街と同じ様に、西三番街も夜を眠らないが、俺の住むマンションのある南側は、少しだけ灯りが控え目だ。

 夜の街らしい暗さの中、道を進んでオートロックの扉を開く。小さいエントランスを抜けて、エレベーターに乗り込むと、最上階である六階のボタンを押す。その最上階の一番奥、六○一号室が、俺の部屋だ。

「どうぞ」

「わー広い!」

「広いか?」

 開いた扉の先に広がる見慣れた光景は、とても広いとは思えない。

 ワンルームの部屋に詰められたベッドとテーブル、ソファーに勉強机と本棚が圧迫感を伴って鎮座している。

 独立洗面台がある事と、とトイレが別な事、それに、コンロが二口ある事が自慢だが、それ以外は普通の部屋だ。

「私、これの半分くらいに、三人部屋だったから、十分広く感じる! お邪魔しまーす」

 笑顔で部屋に飛び込むトーコが気に病む様子がないのが救いだが、余計な事を言ってしまったなと反省した。

 研究所での生活を想像させるには十分な言葉だった。

「そういえばさ、トーコ」

「何ですか?」

 上着を洗面所にある洗濯機に放り込みながら、ソファーに座るトーコに言う。

「呼び方さ、さっきのにならない?」

「え、え、さっきのって……」

「ああ、さっきのじゃなくてもさ、驤一さんって、呼ばれ慣れてなくて、何かもやっとする」

 実際にそう呼ぶのは初対面の人くらいで、それも大体は酒匂さん、だから、本当に滅多な事では聞かないのだ。

 だから、しっくり来ない。むずむずする。

「驤一とか、ジョーとか、何でもいいからさ。何かない?」

 俺の申し出に、トーコは少しだけ考えると、小さい声で言った。

「じゃ、じゃあ……ジョー君、で」

「おう」

 それも初めて呼ばれる呼び名だが、驤一さんよりは大いにマシだ。

 それにしても、腹が減った。

 昼間から何も食べていないで、とっくに空腹を通り越しているから、逆に飢餓感はないが、確かに胃に何もないのが分かる。

 取りえず、家にあるもので何か作ろうと思い立ち、冷蔵庫を開ける。

「あ、じょ、ジョー君!」

「んー?」

 後ろからのトーコの呼びかけに、振り返らずに答える。

「あ、あのさ、聞きたい事があるんだけど、いい?」

「何だよ?」

「わ、私さ、その……に、匂いとかしなかった? た、助けてくれた時とか」

「匂い?」

 助けてくれた時、というのは、倉庫での事だろう。

 確かに、落下してくるトーコを抱きかかえた時に長い間密着したが、特に何も感じなかった。

 いや、感触は良かったけれど。

「いや、特に何も。何で?」

 わずかな下心は隠して答えた。

「ほ、本当? 良かった……私、逃げ出してからお風呂に入ってないから、心配で」

「あー」

 そういえば、トーコは五日前に逃げ出したと言っていた。

 その間、一度もシャワーを浴びていないというのは、女の子にとっては由々しき事態であろう。

「シャワー、浴びていいかな?」

 状況が状況ならば、とんでもない台詞せりふではあるが、状況が状況なだけに、何でもない台詞だ。

「あー自由に使って」

 冷蔵庫の中を見て、献立の当たりを付け、扉を閉める。

 そうして振り返ると、全裸のトーコが立っていた。

 足元に衣服の一切を脱ぎ捨て、何でもない表情で俺を見る。

 重力に負けじと張り詰めた乳房は、ミラのそれとは比べものにならない。

 小さなたいに似合わないそれが、トーコが動く度に揺れる。

 思わず硬直した体が反応するまでの間に、目線がトーコのつま先から頭の上までをでる。

 だから、それが見えた。

 部屋の蛍光灯ではっきりと発色した肌が、それの存在を浮き彫りにする。

 トーコの体には所々、大きな傷があった。

 縫い合わせたかの様な、大きな、傷。

 正面から見えるだけでも、数か所。

 はっきりと、見えた。

「はあああ!? な、何でだよ!」

 硬直した意識が戻って、思わず手で顔を覆いながら背を向ける。

「え、ど、どうしたのジョー君?」

 それでも、トーコは変わらず平常のままだ。

「どうしたって、お前裸じゃねえか! 何で腕組んだり、名前呼んだりで赤面してる奴が、男の前で脱ぐんだよ! 洗面所行けって!」

「あ、ああ、ご、ごめんね! そっか、そうだよね」

 トーコが洗面所に入る音がして、俺はやっと振り向いた。

 トーコが着ていた服と下着だけが床に落ちていて、まるで本人が消えた様だ。

「トーコ、忘れ物。洗濯機に入れておいて」

 それを拾い上げると、洗面所の扉を開いて顔だけを出すトーコに渡した。

「ご、ごめんねジョー君、研究所だと、皆お風呂とか着替えとか一緒だったから、つい……」

 また言葉の端から研究所の様子が分かる。部屋の話の時点で大体想像がつく事ではあるが。

「お前のしゆうちしんってどうなってんだよ。何で裸は良くて、腕組んだりはだめなの?」

「あう……えっとね……裸は、研究所で慣れたんだけど、腕組んだりは……恋人同士がする事だから」

 余計に混乱する。

 それならば、裸の方がよっぽどグレードが高い。

「読んでいた漫画本で……そういうのが恥ずかしくって、だから、自分でやるのはもっと……ご、ごめんね! お風呂入る!」

 そう言って、トーコは頭を引っ込めると、風呂場に逃げて行った。

 短い会話だったが、大体は分かった。

 トーコの羞恥心は、漫画本を基準に考えられている。

 そして、その種類は、少女漫画だ。それも、少女向けだ。

 大人向けであれば、情事のシーンなどもあるはずだ。だから、そういうのが分からないという事は、読んでいるのは少女向け、その中でも、更に低年齢向けのものだろうと推察される。

 トーコが居た環境ではそれが全てであったのだろう。

 改めて、トーコが居た場所の閉塞感を読み取る。

 ただ、そんな事よりも、研究所に対して嫌悪感が増すのは、あの傷だ。

 トーコの体に付いた、無数の傷。

 トーコは、体を切り開かれた、と言っていた。

 トーコ達が造られた理由は知らない。その場所に居る人間達に、どういう事情があるかも分からない。

 けれど、到底それは許されるような事ではない。

 シャワーの音が、洗面所を越えて耳に入る。

 どうでも、良い筈だ。

 そういう事に、興味がない筈なのに。人の生き死にになど、関心がない筈なのに。

 人がどうなろうと、自分がどうなろうと、好きにすればいいのに。

 そう思っているから、だから外区の中でもそう生きた。

 死んでしまうなんて、死んでしまうだけなのだから、だから、そうやって生きて来たのに。

 ああ、何で俺は今、どうしようもない気持ちになっているんだろうか。

 思考の渦に飲まれかけたところで、電話が鳴った。テーブルの上に置かれた携帯のディスプレイが、戦部ミラの名前を表示していた。

「もしもし」

「あ、ジョー先輩? トーコとお取り込み中じゃなかった? あは」

「切るぞ」

「噓噓、冗談です」

「用件」

「一応報告をと思って。今、診察終わったんですけど、目の方は打撲だったんで、皮下レーザーしてもらいます。それで、ろつこつが折れてました。今から溶解ボルトで固定して、高カルシウム剤出してくれるみたいです。なので、今から骨折部分を留める手術します」

「ああ、じゃあ明日あしたには動けるのか」

「そうですね」

 ボルトを埋めるという事は、皮膚を切り開く。

 この国では、何て事はない。切り開いた皮膚をれいに元に戻す事など、造作もない事だ。

 だから、つまりは、そういう事だ。

 人を造る技術なんてものを持ちながら、実験の傷一つ治さない。

 あの傷は、トーコがそういう風に扱われていた証明だ。

「折野は何してんだ?」

「あー……先生に怪我の事聞かれた時に、私が冗談で彼氏のDVがって言っちゃって……あは」

「あは、じゃねえよ」

 ご愁傷様と、そう伝えたい。

「取り敢えず、今日は入院らしいから、明日のお昼頃にジョー先輩ん行くね」

「大丈夫か? 休んでりゃいいのに」

「私は平気。だけど、トーコのもの色々買わなきゃいけないだろうから。服とかないでしょ?」

「ああ、確かに」

 細かいところが抜けていた。

 一緒に住むどころか、女子が泊まりに来た事すらないので、そういう思考が回らなかった。

「あと下着ないでしょ。服は明日何とかするとして、今日分の下着くらい、コンビニで買ってあげて下さいね」

「俺がかよ。変態に思われねえか? 結構コンビニ使うんだよ」

「あだ名付けられるかもね。でも、女の子に対して下着なしで居ろってのも。それとも、乙女を一晩下着なしで隣に寝かしておきたい理由でもあるんですかー?」

 電話越しにもミラのニヤけた面が想像出来るのが腹立たしい。

 少し気が引けるが、致し方ない。

「はいはい、分かったよ」

「それじゃあ、また明日。あ、あとあれ」

 電話口のミラは、語気を強めて言った。

「トーコの事色々聞いておいてよね」

「ん、ああ。最低限は、何となく聞いておく」

「私が明日会いに行くのって、それが大体の理由だけど、それでも、ちゃんと聞いておいてね! 多分、トーコ、ジョー先輩の方が話し易いだろうから」

「同性のお前よりか?」

「はあ。ま、取り敢えず聞いておいてね、ばいばい」

 俺が言うと、分かり易いためいきが耳に入って、電話が切れた。

 一方的に切られて良い気分はしないが、取り敢えずバッグの中にあった札束をつかんでベッドの下の引き出しに移した。活動を始めてからの貯金。正確に数を数えた訳ではないが、一介の学生にはとても縁のなさそうな額が詰まっている筈だ。そこから一枚だけ万札を抜いて、靴を履く。

「トーコ、ちょっと出かけて来るけど、直ぐ戻るから! シャワー上がったら、適当な服着てていいよ! タオルは洗濯機の上の棚な!」

「え、あ、はーい!」

 扉越しのくぐもった返事を聞くと、玄関を出た。

 冷蔵庫の中のもので見繕いはしたが、適当に夕食と明日の朝食も買ってしまおう。

 万札を握って、俺はエレベーターのボタンを押した。

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