第2話 始まりの夜


 事件の始まりは六日前であった。

 その日からしばらくの間、優也は一人で留守番をすることになった。

 急に体調を崩した祖父の看病で、母が家を空けることになったのだ。

 父は長期出張中で、兄弟はもともといない。完全に一人の留守番だ。

 しかし彼は案外この留守番が嫌ではなかった。小学校の時分から両親が共働きで出張が多かったため、留守番は慣れたもの。中学2年になった現在では、スーパーで安売り惣菜を買って、貰った食費を浮かせるぐらいの芸当はやってみせる。何より夜更かしをし放題というのが好きだった。

 そして今回の留守番でも、優也は初日から夜更かしをしていた。

 ビデオ屋で映画を借りあさり、夜中までたっぷりと堪能したのだった。

 けれど夜1時を過ぎた頃、それは聞こえた。

 映画も本編が終わり、画面ではエンドロールが流れている時だった。


“ダシテ”


 ぽつり、と音がした。


“ダシテ、ダシテ”


 音というよりは声だろうか。

 最初は映画の声かと思ったが、それにしてはどうもおかしい。

 優也はテレビの電源を切って、耳を澄ます。


 聞こえない。


 聞こえない、まだ聞こえない。


 なんだろうと思いつつ、優也は諦めてDVDを取り出そうとする。

 すると、


“ダシテ、ヨー”


 その時ふたたび聞こえた。

 間違いなく音ではなく声。

 誰の声とも似つかない、甲高い、不快感を掻き立てる声だ。


“ダシテッテバ”


 今度は先ほどよりも、やや小さな声。

「なんの音だろう」

 彼はつぶやく。

 音と言ったのは、声という印象を無意識に否定したかったから。

 自分一人しか居ない家で、声など聞こえるはずがなかった。

「なんの音だろう」

 もう一度つぶやく。

 山岸優也の家は、いまどき珍しい日本家屋の平屋建てである。芸術家、陶芸家として著名であった祖父が建て、現在まで引き継がれるものだ。現在祖父自身は高齢による体力の衰えから引退し、生まれ故郷の家へ移り住んでいる。

 だからこの無駄に広い家に、現在は優也一家だけが住んでいる。

 そしてだからこそ、優也は知っている。

 この広い家には隣近所からの声など聞こえてこない。

 もし声がするとしたら、それはこの家の中からである。

「なんだろうなぁ」

 自分でもわざとらしいと思える独り言を呟きながら、優也は家の中を見て回った。ひょっとしたらラジオでもつけっぱなしなのではないかと思ったからだ。

 だがテレビもパソコンも、音がしそうなものに異常は見当たらなかった。

 違和感は残るものの、それ以降は聞こえなかったので諦めて眠ることにした。

 布団の中で彼は思う。

(おかしいな。確かに聞こえたはずなんだけどな――)

(『出して』って)

 そんなことを考えながらも、彼は無事に眠りに落ちた。

 その夜は。



       ●        ●



 問題は次の日であった。

『ねえ、家で何か起きてるかしら』

 夕食を済ませたあとで、母親から電話があったのだ。

 そして開口一番にそう尋ねられた。不安げな口調で。

「え、何も特に問題ないけど?」

 中学校で騒がしい一日を送り、昨晩の声など忘れていたためそう答えた。

『そう。ならいいわ。ごめんね優也、お母さん変なこと聞いて』

「どうしたの急に?」

『いやね。実はお祖父ちゃん、だいぶ体調が悪いのよ。日中はそこそこなんだけど、昨日の夜は高熱を出してね。もしかしたら入院が必要かもしれないの』

「えっ、そんなに調子悪いの?」

『そう。今日はまた平熱に下がったんだけどね……ただ、その』

「どうしたの?」

『昨日の夜、お祖父ちゃんが変なこと言ってたのよ』

「変なこと?」

「そう。それも鬼気迫る表情で。今朝起きた時は、もう覚えてなかったんだけど』

「なんて言ってたの?」

『それがね。


「出しちゃイカン、出しちゃイカン」


 って言ってたのよ。すごく必死に』

 優也の腕に鳥肌が立った。

 昨日の声のことを思い出していた。

「それ、何時頃の話?」

『そうね、夜中の1時すぎかしら』

 時間は一致する。

『あと出しちゃイカンだけじゃなくて、「お蔵から出しちゃイカン」とも言っていたわ。どういうことかしら。蔵ってきっとうちの蔵のことよね』

「うん……あの蔵のことだろうけど」

 優也の家には、昨年まで立派な蔵があった。

 母屋が建つさらに以前からあるもので、そこを祖父は改造して陶芸工房にしていた。だが祖父も引退し、また老朽化して崩れる危険も出てきたため、昨年取り壊したのだ。

『とり壊す前にはお祖父ちゃんにも許可を取ったはずなんだけど、お祖父ちゃんもボケてきて忘れちゃったのかしら』

「……どうだろうね。昨日は夢でも見てたのかもよ」

『うん……そうよね。熱がひどかったし。だいたい出しちゃイカンも何も、そもそももう蔵自体が無いんだものねぇ。心配すること無いわよね。ごめんねお母さん、昨日のお祖父ちゃんがあんまり必死で言うから、なんだか不安になっちゃって』

「……うん、気にしすぎだよ」

 そう答えつつ、優也は嫌な想像が浮かぶ。

 もう蔵が無いから大丈夫というより。

 むしろその場合は。

 すでに優也たちは「出してしまった」のではないだろうか。

 そんな優也の不安をよそに、母は言う。

『じゃあ、そっちは特に困って無いのね』

「……うん。特に困ってないよ」

 確か困ってはいないので、そう答える。

 気にはなるが、困ってはいない。

 そもそもなんと伝えれば良いかがわからない。夜中に変な声が聞こえたと伝えたところで、母も困ってしまうだろう。祖父の容態が悪い時に、余計な迷惑を掛けたくない。

「こっちは無事にやってるから、母さんも頑張ってね。お疲れ様」

『ありがとう、優也』

 だからその電話はそれで終了となった。優也も受話器をおろす。

「やれやれ」

 嫌な予感ふり払って、夕食の片付けを始める。

 今晩はゲームでも没頭して、気を紛らわせようと決心する。

 と、そのときだった。

 もう一度電話のベルが鳴った。今受話器をおろしたばかりの固定電話からだ。

 友人などは携帯にかけてくるし、タイミング的にも間違いなく母親だった。

 何か言い忘れたのかと、優也は慌てて受話器を取る。

「どうしたの? 母さん」




『ネエ、出シテヨ』




 心臓が、止まりそうになった。

 ブツンッ。ツーー、ツーー、ツーー。

 電話はその一言で途切れて、発信音だけがあとに残る。

 だが確かに聞こえた。「出して」という声が、昨日よりもハッキリと。

 呆然と、受話器を握りしめたまま立ち尽くす。



 優也はその夜から、眠れなくなった。

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