第三章10

「ミュリヤが驚かせてやろうなんて言うから身構えていたけれど、これは本当に驚いたな」


 帰るなり、俺は早速リナリスにバンドネオンの鞄を渡した。

 オレブロ区からずっと運び通しだったのだ。さすがに腕が痛くなり、押し付けるように渡したのだった。


 訝しげな表情で俺を睨んでいたリナリスだが、鞄を開ければ、すぐに目を輝かせる。剥くように鞄から黒いバンドネオンを取り出し、慣れた様子で構える。


 確かめるように、両手の取っ手の先に並んだボタンを押していく。

 ピアノ等とはまた違った洒落た音がぽつぽつ鳴り、次第にそれは旋律へと変わってゆく。目を瞑りながら、リナリスは感覚を思い出すように演奏を始めた。


 その音を聞きながら、画材を開くシノを見遣る。


 固形の水彩絵の具は雨の後の虹のように段階的な色調で並び、シノはそれを食い入るように見つめている。彼女は相変わらずの無表情だが、多少は喜んでくれているのだろうか。喜んでいるように見えるのは俺の勘違いだろうか。


「リナリスは、ラッパは吹けますか?」


 簡単な演奏を終え、愛おしそうにバンドネオンを撫でるリナリスに、ミュリヤは訊く。手渡された簡素なラッパを見下ろし、リナリスは曖昧な表情を作った。


「ラッパと言うからトランペットかと思えば、ビューグルじゃないか」


「えっえっ、ビューグルってなんですか?」


「ミュリアが持つそれさ。ピストンの無いラッパはビューグルというんだ。ラッパではあるけど、ホルンの仲間なんだ。主に軍用のラッパさ。しかしトランペットなら吹けるが、ちょっとこれは経験が無いな……。音を鳴らすくらいならできるけれど」


 家の中じゃうるさいからと、リナリスはミュリヤを連れてダイニングを出ていく。


 しかし入口から顔を出し、もの言いたげな半眼で俺を見る。


「リィト、君もチェロを持って来たまえ。シノはバンドネオンを頼む」


 それだけを言い残し、二人はさっさと外に出て行ってしまった。


 俺とシノは顔を見合わせる。

 シノはよくわからないと言いたげな表情で、俺の表情もそう変わらないはずだ。ともあれ、俺たちはリナリスの言う通りに楽器を持って外に出た。


 玄関を開ければ、地平線の彼方まで届くラッパの音が、俺の耳をつんざいた。


 見れば、機関街灯の下、リナリスがビューグルを吹いている。

 ピストンが無いことなどお構いなしに自由自在に音程を変え、さすがにバンドネオンには劣るものの、軽やかな旋律を奏でる。先程の言葉など謙遜だったのではないか。


 ミュリアはその演奏に圧倒されながらも、ささやかな拍手を送った。


「こんなものかな。まず、マウスピースに当てるくちの形が独特なんだ。こう、なんて言うんだ……。口角側に唇を引っ張って、小動物っぽい形にするというか……」


「こう、でしゅか?」


「うんうん、さすがはミュリヤだ。飲み込みが早い」


「ありがとうごじゃいましゅ。ミュリヤはやれば出来る子なんでしゅ」


「別にそのまま喋る必要はないんだが……」


 困り顔のミュリヤに、リナリスはビューグルを手渡す。


「音程を変えるには、このくちの隙間を調整するんだ。広めにすれば低い音が出て、狭めれば高い音が出る。まぁ、まずは音を鳴らすところから、かな」


 神妙に頷き、ミュリヤはマウスピースにくちを当てる。


 大袈裟に肩を上げ息を吸い込み、そのまま勢い良くラッパへと息を注ぎ込む。


 ――瞬間、その轟音に俺は思わず耳を塞いだ。


 低く、お世辞にも上品とは言えない音が町を包む。それは圧倒的な音量で俺たちの鼓膜を襲い、見ればリナリスも同じように耳を塞ぎ、隣にいたシノは家に引き返していた。


 ラッパからくちを離し、ミュリヤはすぅーっと息を吸う。


 そして満足げにリナリスを見遣り、次に勝ち気な視線を俺に向ける。


「どうですか! 私、ちゃんと吹けていましたか!?」


 やり切ったと言わんばかりに目を輝かせるミュリヤに、俺とリナリスは訝しげな視線をぶつけ合う。


(なんて答えれば良い)


(正直に言ってやりたまえよ。鼓膜が破れるかと思ったって)


(満足そうなミュリヤにそんなことが言えるか)


(じゃあ私が言ってあげようか?)


(やめろ! ミュリヤのやる気を削ぐようなことはダメだ!)


 と、言葉にしないにも関わらず俺たちは会話を成立させ、「褒めながらもラッパを取り上げる」という方針で決着した。


「ぶぅー。もうちょっと練習したかったです……」


「あんまり吹きすぎると疲れてしまうからね。こういうのは慣れが必要なんだ」


「そうだ。楽器と共に、互いに慣れていくことが大事だ。演奏者にも楽器にも調子があるからな。今は……、楽器の調子が良くないようだ」


 俺の迂闊な言葉にリナリスが鋭く睨んでくるが、当のミュリヤは「そうですか」と生返事をしながら、俺が取り上げたラッパを寂しそうに見つめていた。


「で、チェロを持ってきたのだが。おい、シノ、早くこっちに戻ってくるんだ!」


 そうして渋々といった様子で戻ってきたシノは、リナリスにバンドネオンを手渡す。俺もチェロを布製の入れ物から取り出した。


 久々に取り出したこのチェロだが、金属の弦はところどころが錆びている。

 弦を貰ってきたと思い出すが、リナリスの様子を見れば、彼女は「椅子を二つ用意してくれ」とシノを顎で使っていた。


 間もなくシノはどこかの空き家から拾ってきた椅子を庭に置き、一仕事終えたという様子で座り始めるが、


「シノが座ってどうする」


 呆れたリナリスに怒られていた。


「チェロは立ったまま演奏できないだろう?」


 と、俺を見遣る様子から、どうやら弦を交換する時間もないようだった。


「演奏とは言っても、俺には得意な曲など無いが……」


「問題無いよ。私が言う通りの音を順番に鳴らしてくれたらいい」


 椅子に座り、弦を押さえないまま順番に音を鳴らす。


「C線が少し低い。G線とD線が若干高い。A線はかなり高いよ」


「言う通りという割には注文が多いな」


「調律は基本だよ。弦が錆びているから、という言い訳は受け付けないよ」


 それくらいは許してほしいものだと思いながらも、俺は「そうかそうか」と適当に答え、彼女の指示通りに糸巻きペグを調節した。


 やがてリナリスも椅子に座り、太股にバンドネオンを置く。あの重さの楽器を両手だけで支えるのは難しいらしく、蛇腹の部分を置く姿勢だ。


 演奏を始める直前といった雰囲気の中、リナリスは挑発的な視線をミュリヤに向ける。


「こうしてバンドネオンとチェロを用意したんだから、ミュリヤはこういうことがやりたかったんだろう?」


 それはまるで、期待に応えてやるのだからお前も何かしてみせろ、と言いたげな口調だ。対するミュリヤは、リナリスの言外な言葉に気付いていないのか笑顔で頷く。


「そうなんです! こうしてみんなで演奏会をやったら、とっても楽しそうだなって!」


「じゃあミュリヤも何かやってくれよ。例えば、私たちの演奏で踊ってみせるとか」


「え、えーー!! 私、踊りなんかできませんよ!! それにシノだって……」


 と、シノに視線を向ければ、彼女はどこから用意してきたのか、ブリキ缶を芝生の上に置き、両手には木の棒を二つ持ち、演奏の開始を今か今かと待ち侘びている。


「シノは太鼓を担当してくれるそうだ。ミュリヤは未だラッパにも慣れていないようだし、太鼓も二つはいらないことだし、ならば踊るしかないだろう?」


「そ、そんなことを急に言われましても……」


 と言いながらも、ミュリヤはおずおずといった様子の上目遣いを俺に向ける。


 ……それは、俺に背中を押せと言っているのか?


 なぜ俺なのか、と問うのは今更だろう。ヴァンケットへの日帰り旅行は、俺とミュリヤの繋がりを以前よりも強固にした、という確信がある。


 こうして俺に選択権を委ねてくれることを、有り難く思う。

 俺にここでの暮らしの重要さを教えてくれたのも、ミュリヤだったのだ。


「やってみろ、ミュリヤ。お前なら出来る」


 俺が促せば、ミュリヤは両手を胸の前でぎゅっと握る。


「リィトさんがそこまで言うなら……、ミュリヤ、頑張っちゃいます!!」


 そう言って、余所行き用の濃紺のドレスの裾を掴み、淑女らしく一礼する。


 ――それが合図となって。


 俺はリナリスに言われた通り、簡単な伴奏を弾き始める。


 最初の四小節を、ぎこちない手付きでゆっくりと弾いてゆく。

 指板を押さえる左手は乱れ、弓は弦に引っ掛かるように滑らかとは言い難い動きだ。乱れた音程は、素人が聞いても不快な顔をするだろう。


 だが、それも次の四小節に突入すれば、先ほどよりは様になってくる。


 習っていた頃の感覚を思い出したとは言えないが、左手に集中しながらも、弓を大胆かつ繊細に動かすために意識を割けるようになってくる。


 やがて俺の不格好な前奏は終わりを告げ、次の四小節に入れば、バンドネオンの軽やかな音色が俺の伴奏に乗っかかってくる。


 見ればリナリスは右手のボタンだけを押し、太股に乗せた蛇腹を両手一杯に広げる。表情は不敵に俺を見遣り、小節を跨ぐ毎に焦らすように音階を上げてゆく。俺の遅い伴奏に合わせているが、それもこの四小節限りだと言外に言われている。


 上がっては下がり、半音単位で動く旋律は嵐の前触れだ。


 想像してみる。

 彼女はその嵐の中心に居る天使で、俺はその襲来を知らせる雨雲だろう。


 シノが、ブリキの缶をカツカツと叩く。


 それは雨が地面を打つ音だ。


 最初は穏やかだが、拍子通りに打ち付ける雨は、やがて雷を伴い地面を叩き付ける未来が明白だ。


 急き立てる雨と嵐を動かす天使に急かされ、俺という雨雲は徐々に速度を上げる。


 ……踊り子であるミュリヤを、この嵐によって翻弄させるため。


 バンドネオンの右手の旋律に、左手の伴奏が加わる。

 シノがブリキ缶を叩き、俺を煽るように律動リズムを速めてゆく。


 俺は彼女たちにしがみつきながらも速度を上げ、


 そうして、四小節が終わる直前の拍子に噛みつくように、


 ――旋律は弾け、嵐はまるで謝肉祭の盛り上がりのように雷雨を地上に降らせた。


 穏やかだった旋律は我慢の限界を迎えた天使の叫びだ。


 雨を降らせろ、雨を降らせろ。

 雨雲の上で暴れる天使の気分は良くなったと思えばすぐに悪くなる。駆け上がる旋律はすぐに下り、一秒たりとも雨雲に休ませることを良しとしない。


 雨はデタラメに地面を叩き、まるで地形ごと変える勢いだ。

 雨雲である俺は、雨粒であるシノへと常に律動を供給しなければならない。


 だが、それが一定に留まることは天使が許さない。気まぐれな天使は、雨の密度さえも自分の機嫌通りに操ろうとする。


 俺は必死に、目まぐるしく律動の変わる旋律に食らいつき、それを乱そうとするブリキ缶を制し、踊り子へと振り落ちる雨をただ、ただ彼女への恵み足るものにするために。


 ミュリヤは未だ動かない。


 こんなにも激しい雨の演奏の中、表情一つ変えずに佇む。


 掴んだ裾から雫が滴る姿を、俺は幻視した。


 だが、恵みの雨にいつまでも黙っているわけにはいかない。


 踊り子はくるりと回転する。


 ――俺は自分の顔に、スカートから飛び散った水滴が付着する錯覚を視た。


 ぎこちない足踏みを踏みながらも、踊り子は恵みをもたらす天使を喜ばせるために踊る。


 たたん、と、パンプスに蹴られた芝生が宙に舞う。


 そんな踊り子を不敵に睨み、天使はもっと踊れと旋律を掻き乱す。


 ミュリヤが回転するたびにスカートが翻り、叩き付けられた雨粒を天に弾き返すよう。


 ぱぱん、と、手拍子をすれば天使が歓声を上げる。


 踊り子は舞う。


 降りしきる雨も雷も、雨雲も、天使さえも物ともせずに。


 満面の笑みで踊る彼女こそが、この地上で唯一人の天使だと言い張るように。


 同じ伴奏に飽き飽きして、俺も好き勝手弾き始める。


 シノはもう律動通りに叩くことを放棄している。


 リナリスは大声で笑う。


 これでこそ俺たちの演奏だと、この世界全てに誇るように。


「リィトさん! 私、ちゃんと踊れていますか!?」


「減らず口を叩けるということは、まだまだ余裕があるということだな!!」


「ほら、踊れ踊れ! リィトも弾け! もっともっと弾きたまえ!!」


「わたしも、負けない……!」


 そうして、最早演奏とも呼べない演奏は続いてゆく。


 俺には、未だかつてこんなに楽しいと呼べる時間があっただろうか。

 いや、無かったはずだ。恵まれながらも退屈で鬱屈した人生を過ごしてきた俺には、こんな、胸の奥から震え上がるような時間は存在しなかった。


 青空しか取り柄がないような、こんなド田舎で。


 機械の義肢を取り付けた少女たちに囲まれて。


 やりたくもなかった任務の最中に。


 俺はこんなにも楽しいと、今すぐにも叫び出したい程の喜びに震えている。


 この時間が、彼女たちが、どうしようもなく大切だと、疑うことすらも忘れて。


 この生活が永遠に続けば良い。

 永遠なんて陳腐な言葉が、本当にあるのかはわからない。


 だが、そんなことは関係無い。


 “天使”の期限など構うものか。


 この俺が、この生活が永遠に続けば良いと、そう思っているのだ。


 俺は今このとき、確かに父上や目的から解き放たれていた。


 狂ったように演奏するリナリスとシノと、狂ったように踊るミュリヤ。


 そんな彼女たちと一緒に、狂ったように笑いながら。

 俺は確かに、この有限の時間が永遠であれば良いと、そう思ったのだ。

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