operation.2 漣 ミサキ

 ――ミサキ、ミサキ……。

 んだ声がこえる。き通る、女の声が。

 心地よい微睡まどろみにひたっていた俺は、その声にみちびかれ眼を開けていた。ぼんやりとした視界に、半透明はんとうめいの人魚が映り込む。

 白銀の髪が、ゆれている。その様は月光に輝く海のようだ。瑠璃色るりいろ双眼そうぼうするどく細め、人魚は俺に話しかけてきた。

 ――ミサキ、スクールにおくれちゃいます……。このままじゃ、単位を落としてしまいますよ……。

 しゃべっているのに、人魚の唇は動いていない。代わりに、彼女の声が優しく頭の中にひびき渡っていた。

「え……スクール……単位?」

 ――そうです! ケルト神話の講義こうぎが始まってしまいますっ!

 寝ぼけた声を俺は人魚に返す。人魚は悲しそうな表情を浮かべ、俺の顔をのぞき込んできた。

「つーか、あの講義はメロウの趣味で聴いてるだけだろ? 別に俺、選考はプログラミングだし、神話の講義なんて落としても平気っていうか……」

 俺は頭に手をあて、ベッドから起き上がっていた。昨日夜ふかしたせいだろうか。頭痛がする。

 ――うぅー! 私の原点であるケルト神話に興味を持たないとは何事ですか!?それでもミサキは、メロウのマスターなのですか!?

 ぐわりと尾びれをひるがえし、メロウは抗議こうぎするように俺の眼の前で一回転してみせる。

「お前は俺を補佐ほさするために作られたオペレーションAIだろ? わがままで俺を振り回していいのかよ?」

 ――うぅっ!!

 ぷうっと頬をふくらませ、人魚は俺を睨みつけてくる。こいつの名前はメロウ。一応、父さんが俺のために開発した義務教育型オペレーションAIのはずだ。

 義務教育型オペレーションAIは、本来未成年の健やかな成長を促すために造られたものだ。でも、こいつを見ていると、とてもそんな高尚こうしょうな目的のために造られたAIにはみえない。

 ――あっ、ミサキ! 何、笑ってるんですか!? 何がおかしいんですか!?

「別に。それよりさっさと支度しろよ。スクール行くんだろ?」

 ――ふふん、その辺は大丈夫です。ミサキが寝ているあいだに、遠隔授業えんかくじゅぎょう受講許可じゅこうきょかをとっておきました。というわけで、私を通じて授業に出席すればいいだけです

 メロウは水かきのついた手を腰にあて、えらそうに俺を見上げてくる。俺は頭上にいる彼女を見上げ、ため息をついていた。

「悪いけど、これから用があるんでキャンセルしといてくれる?」

 ――ミサキぃ!

 メロウが悲痛な声をあげ、俺の顔を覗き込んできた。

 ――私の楽しみを、あなたはうばうつもりなんですか? 苦楽を共にしたパートナーである私の原点を学びたくないというのですか?

「別にお前の原点なんてどうでもいいし……」

 ――ミサキー!!

「それに『みさき』の夢をみたんだ。あの人が、俺を呼んでる。」

 ――ミサキ……。

 俺の発言に、メロウが大人しくなる。彼女は浮かびあがり、俺から離れていく。彼女の眼が不安げに俺に向けられているような気がした。

「俺、変なこと言った?」

 メロウに話しかけ、俺はベッドから立ち上がる。

 俺の目の前に広がるのはコンクリートの壁が印象的な八角形の部屋だ。部屋の奥にはカウンターのついたダイニングキッチンがあり、そのカウンターの上にコーヒーメーカーが置かれていた。

 父さんが俺のために購入してくれたアパートの1室だ。といっても、現在住んでいるのは俺1とメロウの2人だけ。父さんはもう、何年も帰ってきていない。

 俺は、カウンターに置かれたコーヒーメーカーを見つめていた。あのコーヒーメーカーで、父さんはよくコーヒーをれてくれたっけ。

 父さんは甘いエスプレッソが大好きだった。

「メロウ……。コーヒー、淹れてくれない……?」

 俺はメロウを見上げ、すがるように声をかけてみる。父さんがよく淹れてくれた甘いエスプレッソが、無性に飲みたくなったのだ。

 ――ミサキは、私がいないとダメダメですね……。

 メロウが笑う。半透明の彼女の手が、俺の頭をなでてきた。ホログラムである彼女になでられても、何も感じることはできない。けれど、みょうに頭がくすぐったい気がして、俺は笑顔を浮かべていた。

 ――コーヒーメーカー起動ッ!

 びしっとメロウがコーヒーメーカーを指差す。コーヒーメーカーはひとりでに動き出し、設置されたカップの中にエスプレッソを注入していく。

 エスプレッソが出来上がったのを見計みはからい、俺はカウンターへと近づいていた。そっとコーヒーメーカーからカップを抜き取り、口元へと持っていく。

「父さんの味だ」

 甘さに包まれたほんのりとした苦味が心地よい。俺は舌に広がるエスプレッソの味を堪能たんのうしながら、笑みを浮かべていた。その笑みを側に浮いているメロウに向ける。

 ――当たり前です。私が淹れたんですからっ!

 腰に両手をあて、メロウは得意げな笑顔を浮かべてみせる。

「父さんがいなくなってから、メロウには世話になりっぱなしだな。コーヒーメーカー限定だけど」

 空になったカップを自動食器洗い機にせ、俺は苦笑してみせた。ぷくっと頬を膨らませて、メロウが恨めしげに俺を見てくる。

 ――私はミサキ専用のOSですよ! 国民の約90%が個人AIを所持し、そのサポートなしでは生きていけない世界だと言われているといのに、何を言うのでしょうか、このマスターはっ!

「必要最低限なことくらい、自分でしたいってことだよ。頼ってばっかじゃ、何か悪いだろ」

 お返しとばかりに、俺は彼女の頭をなでていた。ホログラムであるメロウの頭をなでても、何も感じることはできない。それでもメロウは頬を赤くしてくれた。

 ――うぅー! 出かけますよ。あの人のところに行くんでしょっ!!

 頭を両手で抱え、顔を赤くしたメロウが尾びれを翻して俺から離れていく。

「メロウ。あれ準備してくれない?」

 ――えぇ!? どうしてミサキは、安全性が考慮こうりょされていないあんなものになんで乗りたがるんですかっ!

 前方を泳いでいたメロウが、不機嫌そうに俺に顔を向けてくる。俺は苦笑しながらも、彼女に答えていた。

「狩りのときに便利なんだよ。あいつらが来るってさ」

 ――ミサキ……いつの間に……。

「あの人が教えてくれた」

 こんっと自分の頭を指で叩き、俺はメロウに笑ってみせる。彼女の眼がすっとくもったのを俺は見逃さなかった。

「それに、あいつらを放ってくる奴らは、どうせ父さんの敵だろうしね……」

 ――ミサキ……。

 悲しげに眼を伏せるメロウを見て、俺はいなくなった父さんに思いをせていた。

 俺の父さんであるさざなみ博士の息子は、生まれてすぐ脳の運動野に大きな障害を負った。人工子宮からは一生出られないと言われていた息子に、父さんは動くことができる体を与えたのだ。

 それからずっと、俺は父さんとメロウと3人でこの部屋で毎日を過ごしていた。

 父さんがいなくなる、3年前のあの日まで。

 ――行きましょう。ミサキ。あの人があなたを呼んでいます。

「あぁ……」

 メロウが俺に笑いかけてくる。その顔が何だかさみしげに見えて、俺は彼女をはげますために微笑みを返していた。


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