不運は運ばないという意味じゃない。

佐々木 みう

不運は運ばないという意味じゃない。

 実際、僕は「不運」を体現したような存在なのかもしれない。

 学生の頃、友人の一人が僕を指差し、「お前は不運そのものだな」と笑いながら言ったのを今でもよく覚えている。

 そうなのだ。何を隠そう、僕は不運の女神様に愛されてしまった男なのである。

 くじ引きをすれば毎回ハズレ、じゃんけんをすれば必ず敗北。そういえば一度だけ「負けたら勝ちになるあべこべじゃんけんをすればいいじゃんか」と周りに提案されたこともある。だが、そういう時に限って僕は勝ちの「手」を出してしまうという筋金入りの不運具合なのだ。

 10回連続でじゃんけんに負けたときなんかは、友人から「お前神かよ」と言われてしまった。

 まぁ、確かに僕は神なのかもしれない。ただし、疫病神とか貧乏神の類には違いないが。

 それにしても、せめてこの不運が、じゃんけん程度の規模で済んでいればなぁ、と僕は常々そう思うわけだ────。

 僕の不運は、簡単な言葉のみで片付けられるほど、ちゃちなものではないのである。





       ◇





 その夜、僕は死にたくなるほど疲れていた。ちなみにこれは、決して読者の皆様の目を引くための誇張表現などではないことをここに宣言しておこう。

 さて、僕のそこまでの疲労に対し、何故か? と聞かれれば僕はこう答える。


 二か月ほど前、前触れもなく僕の勤めていた会社が大量の社員の解雇報告をした。どうやら僕の会社は自身の業績不良を隠ぺいして活動していたらしく────しかしそれも限界が来たようで────僕らペーペーの社員は突然リストラされてしまったのである。それだけで僕は相当のショックを受けていた。

 しかし、僕の受難はこれだけで終わらなかったのである。

 つい先週、僕の住んでいたアパートが全焼したのだ。犯人は今、テレビで話題の連続放火魔である。どうやら二日前には捕まったようで、放火魔自身は「放火という行為に快感を感じた」と、警察署にて語っているらしい(ワイドショー情報)。

 まぁ、その放火魔様が、一体「どんな理由」で僕の住処を燃やしてくれやがったのか、そんなことは別に知りたくとも何ともなかったが、どちらにせよここまでクソ迷惑な話はないだろう。

 燃やされたアパートには衣服、家具、通帳、その他多くのなけなしの財産があったのに────。

 くどいようだが、僕の受難はまだまだ止まらない。

 実は僕、「今は蒸発中のロクデナシの親」から多額の借金を受け継いでいた。その借りた場所と言えば、あまり柄の良くない方々。いわゆる暴力組織的なところである。ちなみにそのお値段は大体3000万円ほど。

 ……仕事はリストラ、親は蒸発中、家も財産も全焼の僕に、そんな大金が払えるとお思いだろうか。いや、払えないだろう。僕は元々金なしなので、火災保険すら入る余裕すらなかった。だから保険金に頼るという手段もない。つまり、手立てなし、ということである。


 ……死にたくもなるだろう。いつ来るか分からない取り立て屋。捕まれば確実に何らかの制裁を受ける。内臓をとられるのか? それとも生命保険をかけられて殺されるとか?

 いつ来るか分からないそれに怯えながら、ネットカフェを転々とする生活。段々すり減る精神と財布の中身。

 最悪の状況である。

 絶望のふちに立たされた僕は今、コンビニで買ったワンカップを片手に、誰もいない公園のベンチに座った。


「ここで死んでもいいんだよなあ」


 鼻の奥を鳴らしながら自らの醜態しゅうたいをせせら笑った。

 それから涙をツツーと流すと、僕は酔いの力を借りてそのままうたた寝してしまったのである。

 暫く、無意識。夢を見ることもなく、空白の睡眠が続く。

 今、考えると、僕はこのまま永眠してしまったら、それはそれで良かったんじゃないだろうか。


 突然、カチャリと音がしたのだ。

 何だろう? と僕は眠りかけのままそう思う。

 それとほぼ同時に、頬に何か固いものが当たる。


「え?」


 流石に目を覚まし、視界を広げると、僕の目の前には一人、2メートルはゆうに超えるであろう黒服の男が仁王立ちをしていたのである。


「……お前、運び屋だな」


 男は言う。


「は? は?」


 僕は言葉を漏らした。そして、自分の頬に当てられた固い何かをチラと見たのである。

 その固い何かは黒かった。そして長かった。

 あ、いや、こう言うと何か卑猥ひわいなものに聞こえてしまうが、そうではない。

 簡潔に言うと、その黒くて固くて長い何かとは、拳銃であったのだ。


「えっ」


 こうなると、驚くどころの話じゃあない。

 そもそもの思考がはっきりしなくなるレベルだ。

 僕の頬には、今も拳銃が接している。どうすればいいか、などと考える余裕はヒトカケラもなかった。

 これは僕の持論ではあるのだが、人の行動というのは思考して決まるようなものは殆どないのだと思う。

 人の行動は大抵、直感で決まる。

 そしてそれを証明するように、僕の次の行為も、直感で決まるのであった。


「えいっ」


 気づくと僕の拳は男の顔面に飛んでいた。その事態に一番驚いたのは僕自身だ。

 なんてことをしちゃったんだろう。相手は拳銃を持っているんだぞ。だが、僕の腕は止まらない。そして、とうとうやってしまったのだ。そう、僕は目の前にいる巨漢を殴り飛ばしてしまったのである。


 この男は借金の取り立てに来た刺客なのかもしれない。いや、もしかしたらそうではないのかもしれない。いずれにせよ、こんな物騒なやからと関わって良いことなどないだろう。

 僕は男が仰向あおむけに倒れたのをいいことに、その場から慌てて逃げ出した。掴んでいたワンカップを放り投げて走り出したのだ。

 一度、自分の全身の様子を確かめる。大丈夫だ。今はまだ、撃たれて、ない。


 後ろから男の怒鳴り声が聞こえる。

 ヤバいぞ。ヤバい、ヤバい。


 全力でその場を駆ける僕はまるで、子どもの頃、映画で見たドロドロの主人公のようであった。

 ……そういや、あの映画ってどんな内容だったかな。確か、主人公は殺し屋に追われる地味で不運な役回りだったような。ああ、まるで今の俺みたいじゃないか。

 でも、あの主人公って最後死んじゃうんじゃなかったっけ? あれ? それじゃあ駄目じゃないか。


 グルグル駆け巡る雑念の嵐。

 最初は死にたいなんて安易に思っていた。だけど、こうして命の危機に直面して始めて分かる、死への恐怖。死にたくない。死にたくない。

 だが、その瞬間。僕の恐怖を嘲笑うように、悪魔が絶望の扉を開くかのように、パァンパァンと発砲音が二発、響き渡ったのである。

 ブラックアウトする全視界。

 そうだそうだ。確か、僕が見たあの映画もこんな感じだった。こうやってあの惨めな主人公も死んじゃうんだったなぁ。


「死にたくないよ、僕」


 意識がなくなる直前、僕はそう呟いた。

 そしてそのすぐ直後、僕は誰かの声を聞いたのだ。


黒鯨こくげいに一発入れるとかこの子すごくない?!」

「……別に。ただ無謀なだけじゃないの」


 それは二人の女性の声だった。

 何がどうなったんだろう。真っ暗になった視界に続き、僕の意識もそのうち、真っ黒に塗りつぶされた。





       ◆





「ねえ、こいつ連れてきてよかったの……」


 闇の中、女性の声が聞こえる。

 それはやけに抑揚のない、というか感情のこもってない温度の低い声だった。


「いいんじゃない? あそこで放っておくのも何となく白状でしょ」


 もう一人の女性の声も聞こえる。

 そちら側はさっきの声とは対照的に、言葉に血が通っているような、そんな気がした。


「んん……?」


 僕はとうとう目を覚ました。そして、上体をゆっくり起こしたのである。

 身体はやけに重く鈍い反応を見せていたが、どうやら痛みはないようだ。発砲音はあったが、どうやら撃たれたわけではないらしい。気絶したのは極度の恐怖に神経がやられたからだろう。

 そこまで確認して、僕は周りをゆっくり見渡した。ここは……なんだ?

 僕は今、何かの建物の内部にいる。コンクリで出来た柱、壁、床。やけに殺風景な光景である。ところどころひび割れ、薄汚れているのも見受けられた。


「どうやら起きたみたいね」


 後ろから声がした。僕は振り返る。

 そこには二人の女性がいた。

 一人は青っぽい色が混じった不思議な色の髪をした長身美形の御仁ごじん

 もう一人は茶髪で若干低身長の、やはり美形の御仁であった。

 そんな見目麗しき彼女らが、ジロジロと僕のことを品定めするかのように、見つめていたのである。


「反応から察するにやっぱこの子、一般人みたいね」


「最初から分かりきってたことだよ……」


「黒鯨を殴ったから、てっきり裏稼業の同業者かと思ったのよ」


「こいつがそんなタマには見えないけど……」


 女性二人はポカンとする僕を一切無視して、話を続ける。

 僕もこのままジッとし続けるのは、やはりもどかしかったので、彼女らの話に割って入ったのであった。


「あ、あの」


「何?」


 長身側の美女が僕を見た。僕は内心、ドキリと胸を高鳴らせた。

 ハーフなのだろうか。やけに整った顔だが、純粋な日本人だとは思われない。キリリとした目から少しキツイ印象を受けたが、それでもミス○○コンテストでは確実に優勝するであろう、そんな素質のある方であった。

 僕は一度咳払いをして心を落ち着けると、再び彼女に向かって話しかけたのである。


「ここは、どこなんです。僕は、どうなってるんです。それとあなた方はその……どちら様と言いますか……」


 溢れ出す疑問の洪水。僕は自分でも戸惑うくらい、際限なしに喋ろうとしていた。


「……うーん。説明するべきか否か」


 長身美女は顎に手をあてて思案している。

 一方の低身長美女はというと。彼女は一度、僕をキッと凄んだ表情で睨むと、長身の彼女と何やら話し合いを始めたのである。

 聞いちゃまずいことだったか。一瞬そう思ったが、もう既にそのまずいことに片足を突っ込んでいる以上、引き返すのは野暮だろうとも思った。

 そして、しばらくして長身美女はニヤリと不敵な笑みを浮かべて、僕の瞳を覗いたのである。


「これは絶対口外しちゃいけないんだけどさ、君がどうしても知りたいのなら、教えてあげよっか」


美空みそら! 一般人にそこまで関わるなっての……!」


 低身長美女は声を荒げた。

 すると、長身美女(美空と呼ばれていた)はやけにおおげさなジェスチャーをとってこう言った。


「だって、この子は格闘術の天才である黒鯨を殴ったんだよ? 間違いなく何かの才能を持ってる。利用できるかもしれない」


「……もういいよ。まあ、どちらにせよ黒鯨が追いかけてきて、そいつが殺されるのは時間の問題だろうし」


低身長の彼女は僕を見てそう言った。


「……な、何の話です。黒鯨って何ですか」


 妙に嫌な予感がする。その続きを知りたい気持ちは確かにあったが、同時に知りたくないという気持ちも芽生え始めていた。

 今、自分は何かやばいものに片足を突っ込んでいる。

 そのやばいものの正体が、入ったら二度と帰れない底なしの沼だったら?

 もしくは、良いも悪いも全てを飲み込みごったがえし、最悪に帰してしまうブラックホールだったら?

 もしそうだったら、僕は何も聞かず、ここで退散したほうがいい。

 だが何故か、そうする気にだけは、どうしてもなれなかったのである。

 家なし、仕事なし、金殆どなしという状況だからかもしれない。失うものが殆どないと、そういう危険なものに首を突っ込みたくなるのかもしれない。

 とにかく僕は、「まずい」状況であることを理解しつつ、彼女たちの次の話に耳を傾けたのであった。


「私たちはね、運び屋なの。それも裏稼業の皆さんからの依頼を主にしてるんだけどさ。んでね、現在はあるデータチップを某裏組織まで運搬中ってところなのよ」


「……う、裏稼業の、運び屋ですか」


 僕は思わず、嘘だろと声に出しそうになった。だが、彼女の顔は真剣そのものだ。

 それを見て、信じられないという気持ちを無理やり飲み込んだ。

 彼女はさらに話を続ける。


「でもここで問題が起きてねぇ」


 問題? その言葉に僕はドキリときた。


「黒鯨っていう裏の業界でも凶暴で有名な男が私たちの運搬に妨害をしかけてきたのよ。恐らくどこかのヤバめの組織に雇われてるんだろうケド。ああそう。その黒鯨ってのは、さっき君が殴ったあの黒服のでかいヤツのことね。覚えてる?」


 頭によぎる拳銃と、黒服の男の姿。


「うふぇっ」


 変な声が出た。

 僕はそんなやばいヤツを殴ってしまったのか。「まずい」じゃなくて、「チョーまずい」の状況だ。

 ただでさえノミの心臓なのに、さらに小さく縮みあがりそうな気分だった。


「うふふ、黒鯨を殴った時の君、ちょっとだけカッコよかったよ。でも……今頃、彼は怒り心頭で君と私たちを捜索してるだろうねぇ。黒鯨は追跡の天才だよ。ここだっていつバレることやら……」


「そんな……」


 こんな危険な目に遭うのならば、あの男を直感なんかで殴らなければよかった。そんな苦い後悔が僕の心の内側を侵食するようにしてジワジワ広がり始めた。


「無駄話は終わった? そろそろ動かないと」


 僕が絶望の渦に飲み込まれそうでいると、低身長の美女が持っていた紙袋からガサゴソと音を立て、銃を取り出した。僕は驚きのあまりギョッとして、ぐちゃぐちゃになった頭の中を一度、白紙にした。

 やけにミニな銃である。だが、確実に本物だ。低身長な彼女が、慣れた手つきで弾丸をリボルバーに詰めているのだ。


「サプレッサーはつけたの?」


「もちろん」


「じゃ、行くよ」


 美女二人は淡々と作業を進める。

 状況にいまいちついていけない僕は、

 とりあえず「サプレッサー」の意味を手持ちのスマホで調べることにした。





       ◇





 サプレッサー(英: suppressor)は、銃の発射音と閃光を軽減するために銃身の先端に取り付ける筒状の装置の総称である。(参照:wikipedia)

 へえ、そうなんだぁ。

 ウィキペディアにそう書いてあるのを確認した僕は、スマホを消してボソリと呟いた。


「何でこうなった」


 僕の目の前には今、運び屋を名乗る二人の美女がいる。

 裏稼業、とやらを相手にしているらしいが、僕は正直そんなものに関わりたくもなかった。

 逃げ出したい気持ちでいっぱいだったのである。

 だが。


「ここで逃げ出したらお前、確実に黒鯨に見つかって殺られるよ。まぁ、それはそれで、私たちの運搬の手助けにはなりそうだけど」


 僕の気持ちを見透かしたように、低身長の彼女がそう言った。


「いえいえいえいえ、逃げませんて」


 逃げたい。


「そうだ、自己紹介忘れてたわね。名前くらいは知っとかないと不便でしょ?」


 長身の彼女が急に両の手を合わせてそう言った。

 正直、そんな気分でもなかったが、だが確かに。名前を知らないというのは何かと利便性に欠ける。

 筆者もそろそろキャラに固有の名前がなければ書きづらかろう。……と、冗談は置いておいて。

 自己紹介は、長身の彼女のほうから行われた。


「私は天野美空あまのみそら。フランクにミソラって呼んでね。それで……」


 美空さんはそう言うと、隣にいた低身長の彼女を見つめた。

 凝視された低身長の彼女は、うっとうしいハエを追い払うように、片腕を宙に振った。


「私の名前なんてどうでもいいのに」


「……まぁまぁ」


 低身長の彼女は唇をツンと尖らせて、ため息をつく。

 少しして、彼女は渋々、自らの名を名乗るのであった。


「……私は内海うつみ。はい、これで茶番は終わり。黒鯨はマジでやばいんだから……油断しないでよ、もう」


「内海ぃ、あなたはせっかちでいけないわね。まだこの子の名前を聞いてないでしょ。ほら、君の名前は?」


「え、ぼ、ぼく……」


 突然話しかけられた僕は、戸惑いながらも次の言葉を選んだ。

 そして、ゆっくり。僕は自分の名前を口にした。


「……人吉ひとよし人吉大地ひとよしだいちと言います」


「大地くんね、よろしく」


 美空さんがニコリと微笑み、僕の手を握った。

 照れながら、僕も微笑みを返す。

 美空さんの手は、妙に冷たく、小さかった。





        ◆

        ◆

        ◆

        ◆

        ◆

        ◆







 黒鯨━━━━━━。俺がそう呼ばれるようになって、幾月が流れたのだろうか。


 信号が赤から青に切り替わるのを確認し、俺は横断歩道を真っ直ぐに進んだ。


 闇社会に俺が足を踏み入れたのは、今から15年前。

 その時の俺は18歳で、右も左も分からない若輩じゃくはい者であり、それと同時に、恐れを知らぬ鉄砲玉のようでもあった。

 がむしゃらに働いた。がむしゃらに仕事をこなした。

 今でも覚えている、修羅しゅらの日々。

 そのうち、俺は周りから、畏怖の意味も込めて、黒鯨という二つ名をもらうことになったのだ。

 黒い服を着ていて、デカいから、だから黒鯨。

 何ともシンプルな理由じゃないか。

 俺はこの至極単純な二つ名を、かなり気に入っているのだ。


 だから、俺はこの名を汚したくない。だから、仕事において失敗なんてものは決してしたくない。


 今回、俺は龍道りゅうどう会という一大組織の下部構成組、「大池おおいけ組」からある依頼を受けていた。

 どうやら、「大池組」のある極秘情報(内容は不詳)が流出したらしく、その情報が入ったデータチップが、「大池組」のライバルである「雪野ゆきの組」へと今、運搬されている最中だと言うのだ。

 俺の仕事はその運搬を阻止、そしてデータチップを破壊してほしいというものであった。


 最初は、楽勝な仕事だと思っていた。

 いわゆる、運び屋と呼ばれる者たちを襲えばいいわけだが、俺はそういった運び屋の妨害を、一番に得意としているのだ。

 俺の追跡能力は一流。腕力、格闘の術においても、何者かに負けることは滅多にない。

 そう自負していた。


 だが先程、それらの矜持きょうじが、全て瓦解がかいされそうになる出来事があったのだ。





       ◇





 それは俺が運び屋の追跡を続け、ようやくその標的を追い詰めた、と確信していた時のこと。

 ある公園で、運び屋が潜伏していると気づいた俺は、その公園をくまなく捜索した。

 そして、そこにある古びたベンチの上で、ワンカップを片手に眠る一人の青年を見つけたのだ。

 俺の長年の勘が告げる。こいつは怪しいぞ、と。


 一見、この青年は浮浪者か、もしくは無職のニートくずれかという印象を受ける。だが、よく見てみればこいつは、それらとは違う異質さを放っていたのである。

 それは、青年から駄々漏れる闇の深さ。まるで悪霊か何かが、この青年全体を取り囲んでいるかのような、そんな嫌な感じ。

 こんな雰囲気を纏うのは、おそらく、俺と同じ闇社会の人間しかいない。


 あくまでこれは勘だ。

 だが、俺は一種の確信を持って、その青年に一歩、一歩と近づいた。

 そして、胸ポケットから拳銃を取りだし、青年のこめかみにあてがったのである。


 青年は目を覚ました。驚いている様子だ。


「……お前、運び屋だな」


 俺は言う。

 青年はえ、え、と情けない声を漏らして未だにオロオロするばかりだ。本気で戸惑っているように見えた。

 勘が外れたか? そう思った。

 それゆえに、俺は一瞬、ほんの一瞬だけ、油断してしまったのだ。

 だが、それが命取り。

 次の瞬間、青年は俺の顔面めがけ、拳を振るってきたのである。


 威力こそはなかったが、青年の拳が俺の鼻を潰す。その攻撃は、俺を動揺させるには十分すぎる奇襲であった。

 俺はたまげて後ろにひっくり返る。


「くそっ!! てめぇ!」


 俺は怒りを剥き出し、思わず叫ぶ。拳銃を青年に向けた。

 すると、逃げる青年の後ろに新しく、拳銃を持った女が二人、姿を現したのである。


「運び屋は3人いるのか!」


 迂闊うかつであった。

 おそらく、これは奴等の作戦のひとつ。

 あの青年がわざと俺を誘い込み、そこで奇襲をかける。そして、女二人が俺を始末する。そういう段取りだったのだろう。


 女二人が俺に向けて発砲した。

 パンパンと二発の銃声が鳴り響く。


 まったく冗談じゃない。相手が女二人と、ひ弱そうな青年とはいえ、3対1はあまりに不利だ。

 俺はその場から駆け出した。これは出直し以外に手はないと思った。

 俺は慎重で臆病な男だから、闇社会で長く生き残ってきたのだ。

 逃げるべき時は素直に逃げよ! というのが信条の一つである。





       ◇





 というわけで現在、あの場から逃げた俺は武器を整え、再び運び屋を追っていた。

 それにしても屈辱くつじょくだ。

 俺は黒鯨だぞ? それが何故、ここまで苦戦する。

 全てはあの弱そうで常にオドオドした青年のせいである。

 見た目で人を判断してはいけないと、人々は言うが、まさにその通りである。得心とくしんがいった。

 俺を攻撃した男なんてここ数年は一人もいなかった。

 なのに、あんなモヤシ男に、俺は思いきり殴られて━━━━。


「そろそろ、暗くなってきやがったな」


 時間は夕方、いやほぼ夜だ。

 陽は既に地平線に沈もうとしていた。

 街路の電灯が、こう々と俺の巨体を照らす。

 夜は追跡に不利な環境になる。早く、運び屋を捕まえねばならぬ。


 運び屋の行き先には予想がついている。

 三人という多人数、集団で行動するとなれば、そこまで目立った動きはできないはずだ。

 恐らく奴等は、完全な夜が来るまで、どこかに潜伏を続けるはず。

 潜伏できそうな場所はどこだ? 奴等が逃げ去った方向から察するに……。


藤野ふじのビル……今は廃ビルで倒壊の恐れもあると、誰も近寄らないが……潜伏先にはうってつけだろうな」


 俺はその見るからに老朽化した建物の前に立つと、ネクタイをいっそう引き締め、気合いをいれた。

 中からは確かに何者かの気配がする。ビンゴだ。


「さぁ、さっきの借りは返させてもらうぞ」


 ビルに足を踏み入れると、ミシリと床が軋みの音をあげた。

 と、同時に。上の階から、何者かが走る音も聞こえる。

 俺はすぐさま、左手にある階段を駆け上がる。


「うぎゃあ! 黒鯨!?」


 青年の姿を見つける。

 さっきはまんまとヤツの怯えた演技にだまされたが、次はそうはいかない。


「おい小僧! さっきはよくもやってくれたじゃねえか!」


「ひぃっ」


 俺の声に青年はさらに身を縮こまらせ、まるで小動物のような演技を見せた。

 腹が立つ。未だにこの青年君は、俺を騙そうと臆病なフリをしているのだ。

 だが、俺は大きく息を吐いて、怒りで高ぶる気持ちを静めた。感情的になっては、相手の思うつぼだからである。

 上半身をひねり、拳に力を入れる。そしてゆっくり、相手の動きに目を凝らす。

 さあ、青年はどう出る? 伺うべきは相手の次の動き。

 直感で自分の行動を決めては全てが台無しだ。まず、相手の行動を見て、思考してから動き出す。これこそがプロなのである。


「……っ」


 すると青年は、えも言われぬ絶望をたたえた表情で、俺のいる方向とは真反対へと走り始めたのだ。

 なるほど、逃げの一手か。悪くない。むしろ今の状況を考えれば、ベストだ。

 あの青年はおそらく、俺と同じく相当の経験をつんだ男。それだけは確実に言える事だろう。面白くなってきたじゃないか。

 俺はヤツを全速力で追いかけた。ヤツとの間は徐々に縮まっていく。

 俺自身、昔から身体は大きかったが、機動力、とりわけ素早さには自信があるのだ。

 そうして、逃げた彼を追い、もう少しでヤツの肩を掴もうとした、その時である。


 パン!と一発の軽い銃声が鳴り響いたのである。俺は直線の軌道を示す弾丸を咄嗟とっさにかわした。

 後ろから気配がする。この鋭い殺気は……女だ。先ほどの女二人組と同一のものである、と俺は気づいた。

 そうか! またこの青年はおとり役というわけか!

 俺が青年に執着している隙に、女二人が俺を後ろから狙い撃つつもりだったのだろう。

 また俺は、つまらん作戦にひっかかるところであった。


「舐めるな、運び屋ァ!!」


 二人の女────片方はチビで片方は大きめ────は明らかに焦りを見せていた。

 彼女らも相当の腕を誇るプロなのだろう。その動作に焦燥はあったものの、迷いはなかった。連発する銃弾には確実に俺を仕留めようとする意志が見られた。

 だが、甘い。俺はその程度の弾幕、目をつむっていても避けられるのである。


「ヤバイ……内海! 逃げるよ!」


「チッ……分かったよ!」


 判断が遅すぎる。

 勝てない、という気持ちが生まれたのならば。考える間もなく、すぐさま逃げるべきだったのである。

 そう、先程の青年のように。

 俺の腕が女二人を捕らえるまで、約40cm。チェックメイトだ。


「くっ……!」


 悔しさを滲ませたチビ女の顔が網膜に焼きつく。

 すると、その瞬間。


「うわぁぁぁぁぁ!!」


 誰が想像しようか。天井から叫び声とともに、逃げたはずの青年と、崩れ落ちた瓦礫(ガレキ)が、俺の脳天めがけ、降ってきたのである。

 まずい、油断した────。

 青年の視線と俺の視線が合致する。

 なんなんだコイツ────。

 まるで疫病神のように負を纏う彼のその表情に、俺は思わず瞠目どうもくしてしまった。





        ◆

        ◆

        ◆

        ◆

        ◆

        ◆





 僕の不運は、簡単な言葉のみで片付けられるほど、ちゃちなものではないのである。

 確か、冒頭に僕はそう言った。

 ただ最近は、僕自身もドン引きしてしまうほど、不運の度が過ぎている気がする。

 もはや僕の不運は簡単な言葉のみならず、そもそも言葉という伝達手段では、到底表現できないような気がするのだ。


「あらあら、黒鯨がとうとう私たちを見つけたみたい。あいつ、ビル内に入ってきたわ」


「えええっ」


 美空さんがやけにあっけらかんとした口調でそう言った。生きた心地がしないとは、まさにこの状況のことを言うのだろう。濡れたタオルがじわじわと首を締め付けている感じ。

 死の雰囲気とともに、不快感が僕の身を包んだ。

 ドスンドスンと響く黒鯨の足音。死神が、すぐそこまで来ている。

 そして、僕はあっけなく彼に見つかった。


「うぎゃあ! 黒鯨!?」


「おい小僧! さっきはよくもやってくれたじゃねえか!」


「ひぃっ」


 黒鯨は大きく息を吐いて、僕の命を虎視眈こしたん々と狙っていた。

 怖い怖い怖い怖い怖い。

 獅子ししうさぎのような弱い動物を捕まえるにも全力を出し尽くすとは言うが、兎視点からしてみれば、ここまでクソみたいな言葉はないな、と思う。

 出来ることなら、舐めプをしてほしかった。だが、黒鯨は本気そのものらしい。


「……っ」


 気づけば美空さんと内海さんの姿が見当たらない。ああ、ちくしょう! 逃げたな!


 こうなれば三十六計逃げるに如かず、だ。

 僕は身を翻し、全速力で駆け出したのだ。

 とにかく、前へ、前へ。しばらく後ろを振り返ることはなかった。そうして前へ突き進むと、上に上る階段があった。僕は何も考えない。ただ直感あるのみ、上へ、上へ。

 気づいたときには、後ろに黒鯨の気配はなかった。

 ここは3階。僕は黒鯨を撒いたのか? いや、そんなわけがない。となると、ヤツは一体どこにいる?


 パァン!!

 刹那せつな、下の階から銃声が鳴り響く。


「うわぁ!」


 僕は小動物よろしく身を縮こまらせ、周りに誰もいないのに後ずさってしまう。

 もしかして、美空さんたちと黒鯨が戦っているのか?

 フツフツと喜びの感情が沸き上がる。これは、チャンスだ。逃げる、チャンス!

 窓から逃げようか? このビルの周りを囲む塀を利用して逃げようか?

 あらゆる考えが渋滞する僕の頭はまるで、夏休み期間の首都高速のよう。

 僕はひとまず逃げる算段を立てようと、目の前にある窓に近づいた。

 だが、ここでまたもや、僕の度を越した不運が、発動してしまうのである。


 何かがミシリと鳴り響く。その瞬間、僕の身体は宙に浮く。

 床が抜けたのだ────。


「うわぁぁぁぁぁ!!」


 瓦礫とともに落下する僕の全身。

 ふと下を見れば、げに恐ろしき黒鯨の姿。


「え────」


 驚きの悲鳴をあげる暇もなかった。まず最初に、先に落ちた瓦礫が黒鯨の頭頂部を打つ。

 そして次に、落ちた僕の全身が、彼の首にぶつかり、ついでに僕の全体重をかけてしまったのである。


 コキリ、と鳴り響く骨の音。

 僕はおぼろげに思った。


 運悪いな、この人────。





       ◆





「いやー、ホント凄いわね。大地君!」


「い、いや。そんな、たまたまですよ」


「黒鯨はどうやらしばらく気絶したままでしょうし、この間にさっさと仕事済ませないと!」


 明朗な声をあげた美空さんは若干火照った頬をさらに真っ赤にして、廃ビルを後にした。

 僕も便乗して彼女らと一緒にビルを出て行く。

 内海さんはというと、彼女は信じられないといった表情で、ずっと、じっと、僕の横顔を覗いていた。

 その視線があまりに痛いので、彼女の方は見ないように徹することにした。


 ……ひとまず、これで一件落着なのだろうか。

 一応、命の危機だけは逃れることは出来た。

 今はそのことだけを喜べばいいのだろうか。

 ……まぁ、どうでもいいか。

 もやもやした気持ちが少しはあったものの、一刻も早く、この闇社会の連中から離れたい気持ちでいっぱいだったのだ。

 僕は彼女らに、さっさと別れの言葉を告げようとしたのである。


「じゃあ、僕はこれで……」


「え? 大地君ついてこないの? せっかく報酬金の1500万円を山分けにしようと思ったんだけど」


「え、1500万……」


「うん。データチップをすぐそこにある事務所に届けたらさ、1500万円のうち500万あげるよ?」


「行きます」


 お金には勝てなかったよ……。





       ◆





 ……思えば、僕の不運はほぼ自業自得のようなところもあるのかもしれない。

 僕は常に、間違った選択ばかりをしてきた。

 今回も、その例外には漏れない。


 お金という魅力に負けた僕は、美空さんたちについていって、雪野組というヤ○ザの事務所にたどり着いてしまったのである。

 ああそう、実は僕の3000万円の借金の借りた場所も、雪野組と言ったっけな。

 ……偶然、という言葉では片付けられない不運だ。


 雪野組の皆様はすぐに気がつきましたよ。

「お前、借金あったヤツだよな」って。


 そして、その後。





「おどれ、どうするん? 財産ない言うて踏みたおすんか?」


「……い、いや」


「……そら、あんさんのことを同情くらいはしたるで? クソ親から引き継いでしもうたんやからな。不可抗力的なもんかもしれんわ。でもな、同情で金は集まらんのや」


「は、はい」


「ほんで、どないして返すん?」


 事務所で問い詰められる僕の姿はまさに袋の鼠(ネズミ)であった。

 窮鼠きゅうそ、猫を噛むという言葉があるが、よしんば僕が窮鼠だとして、果たして目の前にいる虎の如き連中を、僕は噛むことができるだろうか。

 出来ないよな。自嘲の笑みが思わずこぼれる。


「何、笑とんねん」


 うわあ、すげえ表情で組員に見られてる。


 僕は500万円を貰いに来たんだよな? 何で借金で追い詰められてるんだろう?

 内海さんは無表情で僕のことを見つめる。

 美空さんはニコニコ笑顔で、組の偉そうな人と話をしている。

 組の偉そうな人はまさに、「そっち」系の顔立ちをしていた。怖い。

 黒鯨よりも迫力があるのかもしれない。


 しばらくして、組の偉そうな人が僕のもとに歩いてきた。

 歩くたびに彼の下駄の鳴る音が、鼓膜に響く。同時に心臓すらも揺さぶられる思いである。

 そして、彼は僕の目の前に立つと、ドスの利いた声で、言ったのである。


「そんガキ離してやりな」


「……へっ、いいんですかい」


 子分らしき男が素っ頓狂な声をあげる。

 僕もうわずって掠れた声をあげた。


「な、何で」


「運び屋の姉ちゃんがお前さんの借金を肩代わりしたんだ。感謝することじゃな」


「み、美空さんが?」


 僕の声は既にほんの少し湿っていた。

 美空さんを見る。彼女は口角をあげて、にへらとした笑みを漏らしていた。


「大地君の借金、払っておいたよ」


「み、美空さん……!!」


 僕は湧いて溜まった嬉しさを、遠慮のない大声で表現した。

 女々しかろうがどう思われようが何だっていい。

 ただ僕は、うれし泣きにおいおい声を放って、思い切り泣いたのである。

 やがて、僕は雪野組の皆さんに頭を下げ、二人の美女とともに、すぐにその場を去ったのであった。








「マジで帰しちゃうんですかい。……あの大地ってのも運が良いやつですね」


「……そうかのう。ワシは不運じゃと思うが」


「え?」


「あの美空っちゅう運び屋。あれに貸しを作るのはワシは勘弁じゃよ」


「……それはどないいうことでっか?」


「闇の社会にもな、触れてはならんタブーがあるんじゃよ」





       ◆





 それから一か月後のこと。


「大地君。仕事が入ったよ」


 美空さんの声がする。


「あ……はい」


 表情筋が引きつったせいで、僕は無理な笑顔を浮かべることになった。

 僕はどうしても、今だけは浮いた気分になることができなかったのである。


「君は私に借金してるんだから、あと2500万円分。お願いね」


 そう、雪野組の脅威が消えても、借金が消えたわけではない。

 僕は今、美空さんに薦められるがまま、新しい仕事を始めているのであった。

 それは……。


「今日は東京湾アクアラインの手前でブツを受け取ってもらいたいの。中身は秘密だけど、とても大事なもの。ブツを送る先はスカイツリーということになっているわ。よろしくね」


 運び屋。

 そう、皆様のご想像通り、今の僕は運び屋をしているのである。


「はぁ、今回はブツを運ぶだけなんですね」


「うん、でもね。非指定暴力団が複数動いているからさ、十分に気を付けてね」


「……」


 腑に落ちない。モヤモヤ、という言葉では言い表せられない気持ち悪さが僕の心の中でくすぶる。


「ほら、大地。……行くよ」


 内海さんが僕の手を握り、前へと引っ張り出した。

 何故か彼女は顔を赤らめていた。風邪ですか? と聞いたら、平手で頬をぶたれた。

 ……やっぱり納得がいかない。

 こういう状況を……理不尽とでも呼べばいいのか?


 僕はやはり不運を体現した人間らしい。

 僕を襲う受難は、まだまだ始まったばかりなのだろう。

 ふと窓を覗けば、夕方の日差しが差しこみ、僕らを照らす。その光線は日中の挑みかかるような強さはなく、どこかだらりとけだるい残照になっていた。

 僕の運び屋ライフが、今、幕を開いた。














      それ自体の不幸なんてない。

    自ら不幸を思うから不幸になるのだ。


    =ミハイル・アルツィバーシェフ=

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不運は運ばないという意味じゃない。 佐々木 みう @sasaking

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