第2話

 * * *


「明日から家、来なくていーから」

「えっ?」


 恭ちゃんからそう告げられたのは、その次の日の帰りだ。部屋来なくていいっていうのは、朝起こしに行かなくていいってこと? だって、だって、恭ちゃんはお寝坊さんだから、あたしが起こしてあげないとなのに……。


「どうして?」

「それは……俺だってお前に見られたくないもんとか、たくさんあるし」

「そんなの気にしな……」


 小さい頃から一緒にいたのに、今更そんなこと言われるなんて。恭ちゃんの部屋の構図だって知っているくらいなのに、なんでまた? 


──あ! 

 そこでまた、思い当たった。だからこそ、だ。もしかしたら、プレゼントかもしれない。渡す前に中身を見られてしまったら意味がないからって、だから。


 恭ちゃんの、寝癖でピョコンと跳ねた髪の毛とか。眠そうなまつ毛とか。寝起きで掠れた声とか。あたししか知らない恭ちゃんを手離すのは少し惜しいけど、それでもあたしのために恭ちゃんが頑張っているのなら、これくらい、我慢しなきゃ。あたしのために頑張ってくれてること、あたしは知っているから。


「わかった!」


 あたしはにっこりと笑って、また『知らないふり』をした。


 * * *


 来なくていいとは言われたけど、家の前で待つくらいならいいよね? いつも出るくらいの時間に、あたしは恭ちゃんちの前で待っていた。そろそろご飯を食べ終わって、着替えて出てくる頃なんだけど……。時計を見る。もうだいぶ時間が経っている。……やっぱり、あたしがいないから、寝坊してるんじゃ? 遅刻しちゃ大変だし、部屋には入らないから……いいよね? 

 あたしは恭ちゃんちのチャイムをそっと押した。ドタバタと走ってくる音がして、恭ちゃんのお母さんが顔を出す。


「あら? 華笑ちゃん?」

「あ、あの。恭ちゃんは……?」

「恭介なら、もうだいぶ前に出たわよ? 朝練があるとか言って。華笑ちゃんも一緒に行ったんだと思って、私……」

「え……?」


 朝練があるなんて、あたし、聞いてない。昨日は、家に来るなって言っただけで、それで。


「なんだ、あの子、華笑ちゃんに言ってなかったの!?  全く、あの子は……」

「あ、違うんです! あたしがうっかり忘れてただけで! そうでした、言ってました、そんなこと」


 聞いてない、そんなこと。でも、そんなことお母さんには言えないから、わざと頭を掻いてみせた。時計を見たら、けっこう時間がギリギリで、あたしはお母さんに向かって頭を下げると、一目散に駆け出した。

 何とか時間には間に合った。チラリと横目で校庭を見るけど、さすがにもう誰もいなかった。急いで上履きに履き替えて、階段を駆け上って、教室にたどり着く。肩で息をしながら席に着くと、なっちゃんが驚いた顔であたしに近づいてきた。


「どしたの? 時間ギリなんて珍しいじゃん」

「なっちゃん……」


 そうだ。なっちゃんは陸上部だ。普段から朝練に参加しているから、朝は早い。


「ねぇ、サッカー部って、今日朝練してた……?」

「……? うん、してたよ。なんか、今度の試合に向けて今日から始めたらしいね」

「……恭ちゃん、いた?」

「え? うーん、いたと思うけど……。あ、だからあんた遅れたの? 今日はあんたが朝寝坊?」

「あはは……そんなとこ……」


 予鈴が鳴って、なっちゃんが席に戻った後も、あたしはぐるぐる考えていた。

 なっちゃんも、知っていた。今日から朝練があるってこと。あたしだけが知らなかった。どうして? どうして教えてくれなかったの? 気がつくとあたしはぎゅっと、爪が食い込むくらい拳を握りしめていた。


 * * *


 恭ちゃんの部活が終わるのを待った。いつも通りの時間に図書室を出たのに、恭ちゃんは30分経ってもやって来なかった。

 寒いな。手のひらをこすり合わせていると、坂下さんが自転車を押しながらこちらにやってきた。坂下さんはあたしを見るなり、驚いたような、慌てたような顔をした。


「えっ!? 華笑ちゃん!? もしかしてずっと待ってたの!?」

「……ハイ」

「やだ! 試合近いから練習時間伸びたんだよ! 蓬田言ってなかった!?」

「えっ」


 なにそれ。そんなことも、聞いてないよ。あたしがぽかんとしていると、坂下さんは小さく「言ってなかったんだ、そっか……」と呟いた。


「ったくさー、女の子待ちぼうけにするなんて、あり得ないね! 最低だよ!」

「……っ」


 恭ちゃんは、最低なんかじゃない。きっと、なにか理由があって言えなかっただけ。絶対そうなんだ。あたしは小さいころから恭ちゃんのことを知っている。たった一年そこらしか一緒にいなかったこの人に、何がわかるっていうの。


「恭ちゃんの何を知ってるって言うんですか!」

「え……?」

「あたしは、あたししか知らない恭ちゃんのいいところ、たくさん知ってます! 何も知らないくせに、恭ちゃんのこと悪く言わないで!」

「きゃあ!」


 思い切り、坂下さんの肩を掴んだ。バランスを崩した坂下さんは、そのまま後ろに倒れこんで、尻餅をつく。自転車も横に倒れて、ガシャンと大きな音を立てた。


「華笑! 何してんだ!」


 すると、向こうから恭ちゃんの声がして、顔を上げる。走ってきた恭ちゃんが、あたしと坂下さんを引き剥がすようにして割って入った。そして、あたしのことをキッと睨みつける。こんな恭ちゃんを見るのは初めてで、思わず肩を震わせた。


「蓬田、違うから! あの子は悪くないから!」

「だってお前、思い切り押されて……」

「いいの! それより、華笑ちゃんと一緒にいてあげなよ。ずっと待ってたんだから、あんたのこと」

「……ごめん、後でちゃんと詫びるから」


 恭ちゃんの手を借りながら立ち上がった坂下さんは、スカートについた土を軽く叩くと、自転車を起こして、地面に落ちた荷物を拾い上げた。あたしの横を通り過ぎるとき、「ごめんね」とだけ言った。あたしはどうしても謝る気になれず、ずっと下を向いていた。坂下さんが行ったのを確認すると、恭ちゃんに向き直った。


「……どうして教えてくれなかったの、朝練があるって」


 恭ちゃんはバツが悪そうに目をそらした。


「だって、言ったら俺に合わせてくるだろ、お前」

「行くよ! 当たり前じゃん!」

「だからやだったんだよ」

「や……?」


 今、恭ちゃん。“嫌だった”って、言ったの? 


「でも、言わないで坂下に怪我させるくらいだったら、言っておけば良かった……くそ」

「……? どぉして、そこで坂下さんが出てくるの?」


 恭ちゃんが、ハッとした。さっきのはどうやら聞かれたくない独り言だったみたいで、あたしに聞かれたことをとても焦っている。


「ね、恭ちゃん。恭ちゃん、恭ちゃん? ねぇ、どうして? ねぇ。なんで? なんで坂下さんが出てくるの?」


 恭ちゃんのことはなんでも知っている。でも、恭ちゃんが何を言っているのかは理解できない。

 すると、恭ちゃんが目を泳がせて鼻の頭を掻いた。あ、この癖。あたし、知ってるよ。恭ちゃんは、困ってる時とか、照れる時に必ずこうするんだよね。恭ちゃんが照れ屋で口下手なだけだって、あたし、知ってる。だから、さっきのも言い間違いだよね? 


「──うるさいよ、お前」

「え……」


 今、何て。恭ちゃん、恭ちゃん。恭ちゃん? 


「幼なじみだからって、家来たり、登下校一緒にしたりとか、もうやめねぇ?」

「ど、して」

「……好きな奴が、できたから」


 あたしは恭ちゃんのこと全部全部全部全部全部全部知ってるはずなの。知らないことなんて一つだってないはずなんだ。なのに、どうして? あたしだけが恭ちゃんのこと知ってるはずなのに。


「……それって、だぁれ?」


 恭ちゃんの好きな食べ物も嫌いな食べ物も、ちょっと恥ずかしい位置にホクロがあることも、実はちょっとオタクで部屋にたくさん漫画があることも。他の誰も知らないこと、みんなみんな知ってるよ。


──でも。


「……坂下」

「っ!」


 あたし以外の女の子を好きな恭ちゃんなんて。恭ちゃんの好きな子があたしじゃないなんて。

 そんなの、あたし、知らない。

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