第三十二話『Through the night』(1)

AD三二七五年七月二一日午後一時二八分


 思えば、本をこうしてじっくり読もうと思ったのは、いつ以来だったのだろうか。

 生まれてからこの方、ただひたすら人を斬り、銃弾を打ち続けていただけだった。


 一度、傭兵として任地に行った際に、本を薦めてくれた下士官がいた。英語の読み書きと計算、数カ国語は話すことだけは出来たが、思えば本という物をじっくり読もうと思ったのは、それが最初だった気がする。

 だが、その薦めてくれた下士官は、その戦いで死んでしまった。それで、結局何がオススメなのか聞きそびれたのを、今になって思い出す。

 そんな自分は今、『猿でも分かる孫子兵法』という、よくもまぁこんなタイトルを付けた物だと、苦笑せざるを得ないようなタイトルの本を、隅から隅まで読んでいた。


 漢文は、華狼での依頼もあったことから割と読めなくはないし、ご丁寧に英語の訳文に解説まで付いてきている。

 もっとも、今自分のいる病室では、そんなことしかやることがないのだ。ゼロは一度だけ、体を伸ばして欠伸をする。


 体は、少し痛む程度まで回復した。

 どうしても本を読んでいると、腕に目が行く。兄から移植された、手の甲に実験番号である『666α』と刻まれた右手と、機械となった左腕。本来の自分の手はもうないのだということを、まざまざと見せつけられる。


 だが、不思議と痛みは感じなかった。精神的な痛みはまだ少しあるが、不思議と、今は穏やかでいる。右手の移植跡も、特に目立っていないし、肌の色もほぼ同じだったこともあり、長袖で隠せば、まったく分からないだろうと、ゼロは思った。


 殺すべきはずのハイドラの管轄している、よく分からない病室の中で、本を読みふけること既に二時間になる。

 病室の中には、誰もいない。医療関係者も、特に見受けられなかった。


 考えてみれば、叢雲の医務室には、自分の師匠にして、今は玲と名乗っているジェイスが常駐していた。

 確かにあれは腕のいい医者だと言えるが、同時に科学者でもあり、武人でもあった。

 それに、この本をくれたルナにしろ、よく喧嘩をしたレムにしろ、自分の周辺には風変わりな奴が大量にいた物だと、改めて一人になると実感出来た。


 ハイドラを殺しに行けと、ディスにそそのかされて、そのまま叢雲を飛び出し、挙げ句敵の元にいるのだ。恐らくルナは今頃キレていることだろう。

 ディスに利用されている勘は否めない、というかそれ以外に考えられないが、やはり孫子の言う『敵を知り己を知れば百戦危うからず』を学ぶのにこれ程最適な場所もない。


 不思議なもので、仲間を得た後に一人になると、何か大きな穴が、心に空いた気がした。

 寂しさという物なのかもしれない。敵地のど真ん中にただ一人で存在しているのだ。その一方で、それに対する焦りや寂しさを強引に紛らわすために本に没頭しているのではないかと、冷めた目で見ているもう一人の自分がずっといる。

 しかし、不思議と生かされているし、ハイドラ以外の他のメンツも、特に自分を殺すなり金で雇うという気もないらしい。


 自分は今でこそベクトーアに所属しているとはいえ、所詮傭兵に過ぎない。傭兵が捕虜になった場合、今の時代PMSCs所属の傭兵ならまだ身柄の安全は条約で保証されているが、自分のようにバックアップの組織もない傭兵だと、いつ殺されてもおかしくない。

 ならば早期に脱走するべきだとも最初は思ったが、なんというか、脱走するなら勝手にやれと言わんばかりに、自分には監視が誰も付いていない。それどころか、ベッドの隣には自分の武器ケースが堂々と置かれている。

 更には腕に刻まれた召還印から、自分の愛機である紅神の熱がまだ伝わってきている。つまり、紅神はハイドラの手に落ちていない。

 ハイドラの言う通り、ただ単純にハイドラを自分が越えるために設置された修行場、ということなのだろうか。よく分からなくなってきた。


「精が出ますな、ゼロ殿」


 病室のドアが開いて、初老の黒人と、老婆が一人、ゆっくりとした足取りで入ってきた。

 初老の黒人は、前にレムから聞いた、ハイドラの秘書だろう。確か、シンという名前だったはずだ。ガッチリした体格に、しっかりとスーツを着こなしているという点が合致していた。

 老婆の方は、何故か自分をもの悲しそうに見つめている。白髪に深い皺と、年はかなり行っているように思えたが、不思議と気品があった。背筋がしゃんとしているからかもしれないと、何となく思う。


「まぁな。本を読むくれぇしか、やることもねぇからな。鍛錬出来るならやりてぇとこだが」

「でしたら、もうしばらく後に訓練場へご案内致しましょう。私も少しばかり、あなたと槍で語らいたいのですよ」


 なるほど、レムの言う通り、このシンという奴は、病室で最初に会ったビリー・クリーガーと同じような槍の使い手のようだが、同時に奇妙な感触を感じる。

 秘書というには、まったく隙がない。この隙のなさは、ただの鍛錬で身につくような物ではない。


 こいつとなら、リハビリがてらにちょうどいいかもしれないと、ゼロには思えた。もっとも、訓練所というのは嘘で処刑場だったとしたら、その時は切り抜けるまでだ。

 だが、そんな手を使うとは思えなかった。

『普通』のフェンリルなら、あの手この手の手段を講じてくるだろうが、ここにはまったくそれがない。

 まるで、フェンリルの中にあってフェンリルの中にない、そんな気配がここには充ち満ちている。


「ところでゼロ殿、こちらの方が、少々お話があるとおっしゃっておりました」


 老婆が、一歩前へ出たと同時に、シンが「では」と一度お辞儀をしてから、部屋を去っていった。

 近くに来ると、その老婆の持つ気品がより強くなった。目の意志は強いが、敵意はない。


「婆さん、俺に話ってのは、なんだ? 俺と話したところで、大して面白ぇ話はねぇぞ」

「なるほど。村正が言っていた通り、本当にそっくりなのね」


 心臓が、一つ唸った。

 村正の名が、この老婆の口から出た。思ってもみなかった名前だった。


「婆さん、あんたは……」

「私は、インドラ・オークランドの夫にして、村正・オークランドの義母にあたります。皆私を『お母堂』とよく呼びます」


 少し、強い口調だった。

 気持ちは分からないでもない。自分はその二人の死に関わっているのだ。直接手を下したではないにせよ、この女性にとって、自分は仇のような物だ。いつ自分は殺されてもおかしくはないのだ。


「そうか。あんたが、そうだったのか。殺したけりゃ、殺しゃぁいい」


 なんて言えばいいのか、迷っている自分がいた。だから開口一番でも、こんな言葉しか出なかった。

 こういう時、ルナならばガンガン言葉が出てくるのだろう。そう考えると、自分の経験は、所詮戦いの経験でしかないと言う事がよく分かる。


「あなたを殺しても、何も解決しません。それどころか、村正の意志をも、殺してしまうことになります」


 母が、自分のベッドサイドに椅子を用意して座った。

 そして、自分の右手を、村正の手だった右手を、そっと握った。触ってきたその手は、枯れそうな程に脆い手だった。年月の流れからか、手も荒れていた。

 だが、不思議な暖かさがあった。心遣いが、そうさせているのかもしれないと、何故か柄にもなくゼロは思った。


「あの子は、村正は生ききった。いや、今でもあなたの中に生きています。血肉となり、生きているのです。だからこそ、自分が死ねば解決するという発想になってはいけません。あなたは一人であるように見えて、実際には既に一人ではないのですから、なおさらです」


 ゆっくりとした、それでいて、凛とした声だった。

 こうして村正も育てられたのだろうか。何故か、興味がわいた自分がいたことに、酷くゼロは驚いていた。


 家族は、まったくいなかった。世の中には概念として父や母という物があり、家族という物があると言う事も知っていた。だが、それを持ったことは、一度もなかったのだ。

 村正の方は義理とは言え家族がいたが、それをうらやむと言う事ではない。ただ、こういうものなのかと、漠然とした感情が浮かんでいるだけだ。


「だが、俺は今、現に一人だぜ?」

「物理的に、という意味ではありません。心の中、という意味で、あなたは一人ではない。本当に一人の人間なら、今あなたが持っている本の持ち主に謝ろうなんて、そんな発想すら生まれないわ」


 本を、もう一度じっと眺めた。

 他愛のない本だ。一二〇〇コール店に持って行けば買える本だ。

 だが、何故か、その言葉を聞いてから、急にこの本が、一二〇〇コール以上の価値を持つように、ゼロには思えた。


 この本自体、ルナがくれた物だ。今恐らく、ルナと繋がる、唯一の物。

 思えば、自分が背中を預けた相手は、あいつが初めてだった。

 ここを抜けて、一度あいつとじっくり話そうと、ゼロは初めて思った。


「あら、何か決心したようね」


 母が、眼を細めてにこりと笑った。


「なんとなく、あいつと話した方がいいだろうと、思っただけだ」

「それでいいと思うわ。さっきよりも、目が明るいもの。二十年近く離れていたって言うけれど、そういう決心の付き方とか生き様は、驚くくらい村正とそっくりね」


 少し、村正について聞こうと、ふとゼロは思った。

 自分の兄貴は、どういう男だったのだろう。自分は、ただ剣劇で交わしあった言葉からしか、村正を知らない。


 それを聞いてみたいと思うこともまた、一人ではないと言う事なのだろうか。

 それを見つけることもまた、人生なんだろう。

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