言えない

 うらら、と、おにいちゃんは歌うみたいなリズムであたしを呼んだ。


「話したいことがあるんだろ? 話していいよ」


 優しすぎて、胸が痛くなるような笑顔だ。


 言っちゃおうか。もう学校なんか行きたくないって。

 あたしが学校でどんなふうに過ごしてるか知ったら、おにいちゃんはきっと、あたしをかばってくれる。助けてくれる。学校なんかやめていいって言ってくれる。


 言っちゃおうか。


「あのね、あたし、いつも……あたし……」

「うん?」


 声が詰まる。言っちゃいたい。正直になりたい。


「……あ、あたしの、クラスでね……あのね、悪が、流行ってるの」


 言えない。

 あたしのクラスだなんて。その表現自体、嘘だ。


 だって、言えるはずない。

 屈辱の毎日。特異高知能者ギフテッドのあたしは、データ採取のためのモルモットに過ぎない。そんなこと、言えるはずない。プライドが邪魔をする。おにいちゃんの前でさえ、あたしは正直になれない。


 普通の高校に通ってみたいって、自分で選んだ道だった。

 選択は失敗だった。でも、失敗を認めたくない。


 百歩譲って、おにいちゃんになら、どうにか話せるかもしれない。でも、おにいちゃんに話したら絶対、両親も知ることになる。


 両親はあたしを連れ戻しに来るかもしれない。特異高知能者ギフテッドのくせにダメな娘だって思うかもしれない。あたしはプライドをなくしてしまう。生きていられなくなる。


 悪が流行ってるっていうあたしの言葉に、おにいちゃんは眉をひそめた。


「流行ってるって、麗、どういうこと? 悪?」


 あたしは深呼吸をする。真っ黒な気持ちを胸に押し込めて、あの女の言葉を真似てみる。


「狂気や欲望や衝動。そういうのを引っくるめて悪と呼ぶなら、人間は必ず悪を内包している。っていう命題は正しいか、正しくないか。おにいちゃんはどう考える?」


 おにいちゃんは面食らった様子だった。メガネの奥の目をパチパチさせる。


「んー、そうだな。命題は正しいだろうね。少なくともぼく自身は、自分の本質は悪だと思ってるよ」

「おにいちゃんが?」

「善人に見える?」

「どこからどう見ても、骨折り損が大好きなお人好しの善人だわ」


 おにいちゃんは笑った。


 料理が運ばれてきて、会話は一旦停止。おにいちゃんはおいしそうに、チキン照り焼きを一口食べた。


「ねえ、おにいちゃん。どうして善じゃないの?」

「あくまで、ぼくの個人的な考えだけどね、善は、あまりエネルギーを持たないものだと思う。逆に、悪はものすごいエネルギーを持ってる」


「そうなの?」

「ほら、向上心とか負けず嫌いって、その根っこのところは競争心や勝利への欲望だろ。麗が言う悪の要素だ。悪由来の感情をどうやって上手に活用するかが大事なんだと、ぼくは考えるけどね」


 あたしは頬杖をついた。


「予想外だわ。おにいちゃんが悪を肯定するなんて」

「善をエネルギーにして生きられれば、美しいだろうね。美しすぎて、うさんくさい。人間はそんなに上等な生き物ではないよ」

「そうね。下等だわ。コントロールされない悪は、ただのエネルギーの暴走よ。醜くて、不可解で、死や破壊を振りまくだけ。しかも、よりにもよって、なんであたしが……」


 疑われなければいけないの? って言ってしまいそうになって、あたしは慌てて言葉を呑み込んだ。


 おにいちゃんは箸を置いた。微笑みが消える。まじめな顔。おにいちゃんの顔立ちがクールで整ってるってことに気付かされる。


「麗、それはどういう意味だ? 学校で何があった?」

「べ、別に、そんなにたいしたことじゃないわ」

「ほんとに?」

「ほ、ほんとよ。嘘つく必要がどこにあるっていうの?」

「嘘をつく必要はなくても、隠そうとしてる。何かとても大事なことを。違うか?」


 返す言葉が思い付かない。イライラする。


 あたしは視覚が強いぶん、言語が弱い。おにいちゃんもそれはわかってる。わかってて、あたしの言葉を引き出そうとしてる。


 ずるい。いくらおにいちゃんでも、あたしの弱点を突くのはずるい。

 あたしのイライラが爆発しそうになった、その寸前。


「ま、いっか」


 おにいちゃんが笑った。眉尻を下げて、お人好しそうな顔で。


「あ、あたしは……学校のことは別に、なんともないから」

「そういうことにしておく。でも、話したくなったら、ちゃんと話して。ぼくはいつでも聞くからね」

「……うん」

「食べよう。料理が冷めないうちに」

「わかってる」


 サラダをつついて口に運ぶ。細い千切りのキャベツは、ため息の味しかしなかった。

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