傘の中で咲く花

ナガス

傘の中で咲く花

 帰りのホームルームが終る頃には晴れている筈だと思っていたのだが、依然として黒味がかった厚い雲が一面に広がっており、窓の外に見える校庭の大きな水溜りには大粒の雨が大量の波紋を作り続けている。

 これは豪雨と言っても差し支えないだろう。何が「午後からは晴れるでしょう」だ。これだから天気予報は宛にならない、目安にすらならないじゃないか……と思い、俺は「はぁ」という深い溜息をつく。

 俺はあまりの雨の量に憂鬱な気分になりながら窓の外を見つめ続け、教室内の喧騒けんそうが過ぎ去る時を今か今かと待っていた。

 何をそんなに話す事があると言うのか……帰りのホームルームが終わったと言うのに、教室内にはまだ半数近くの生徒達が他人の椅子や机の上に平気で座りながら会話をしている。大きな声で馬鹿みたいな声で話をしている男子や、小さな声でコソコソと何かを話している女子、様々だ。

 俺はこいつらの事が、本当に本当に、大嫌いだ。心の底から軽蔑けいべつしている。

 無神経でかつ思考を止めた馬鹿な男子と、優越感を得るためだけに他人を貶す女子。そいつらはそんな自分達の醜い心に気が付く事は無く、相も変わらず誰かの悪口を言っているのだろう。

 この年の頃というのは、人の不幸の上に成り立っている噂話うわさばなしが本当に好きで、しかもそれがエンターテイメントとして成立しており、疑問を持つ事すら無く、常に話題の王座に君臨くんりんし続けている。

 本当に、どうかしていると思う。

 俺はそんな奴らの話し声に内心、腹を立てながら、決して途切れる事無く降り続く大粒の雨を、ただ見つめ続けた。


 雨を見続けて数十分後、ようやくこの教室内には俺と彼女しか居なくなり、俺は勉強をしているというていを保つためだけに広げていた教科書を閉じ、それを鞄へとしまった。

 俺のその行動に気がついたのか、右斜め前に座っていた彼女は俺のほうへと視線を向けた。

「やっとだねぇ」

「ホントだよ」

 漆黒しっこくの長くサラサラな髪を揺らしながら振り向いた彼女の天真爛漫てんしんらんまんな笑顔は、ある理由のせいで近寄り難い雰囲気を纏ってしまっている普段の彼女の印象には無いもので、俺の憂鬱だった気分を一瞬のうちに消し去ってしまった。俺だけが見られる、俺だけに向けられた笑顔。その事実だけで俺の心は、まるで春のそよ風が吹き抜けていったかのように、爽やかで穏やかなものへと変わっていた。

 今から彼女と一緒に下校するのかと思うと、俺の鼓動は早まり、自然と顔の筋肉が緩んでいくのを感じる。

 そう、俺は彼女の事が好きだ。そして彼女も、俺の事を好いてくれている……筈。

 友達以上、恋人未満という関係になってからというものの、俺と彼女は人目をはばかりながら、下校の時を一緒に過ごしていた。

 何故、人目を避けなければいけないかと言うと、それはやはり、茶化されてしまうから。噂になってしまうから。である。

 そうなってしまっては、いけない。低俗で思慮の欠片も持ち合わせていない同級生という獣は、こんな絶好のネタを見過ごす筈が無いのだ。

 必ず良くない事を起こし、良くない方向へと俺達を導くだろう。

 そうなってたまるか。許せるか、そんな事。

「ちょっと待ってね、すぐに準備するから」

 彼女はそう言い、再び自身の机へと視線を向けて、手早く机の上に広げられている教科書や参考書を鞄へとしまい込んだ。

 そのあまりの手際の良さに、早く俺と一緒に帰りたいという意志を勝手に感じ、俺の感情は嬉しさのあまり暴走してしまいそうになる。

 俺達がこのような関係になって一週間程度だが、俺の感情や心といったものが彼女に夢中になっている事は、もはや疑いようが無い。照れくささのせいか、妙な心のブレーキを自分でかけてしまっていて、未だハッキリとは自分の好意を伝える事が出来ないでいるのだが……。

 大好きだ。

 世の中に、このような感情が存在し、ここまで悩ましく、ここまで心が高揚こうようする事があるだなんて、自身でも驚いている。一般的に感動的だと言われている映画を見て「面白くない」という感想しか思いつかないこの俺が、彼女の細かな動きひとつひとつに、良くも悪くも感動していた。


 朝から降り続いている大量の雨を避けるために、俺達は教室の後ろにある傘立ての中からそれぞれの傘を手に持ち、人の気配がほとんどしない廊下を並んで歩く。

 この並んで歩くという行為をするために、どれほどの無駄な時間を費やした事か。そう思い返すとやはり腹立たしい感情が蘇ってきて、俺達の関係をおおやけに明かしてしまおうという浅い考えが浮かんで来るのだが、その事については彼女に自制して欲しいと懇願こんがんするように言われている。

 それは、分かっている。そんな事、出来る筈もない。俺や彼女のような立場の人間にしてみれば、尚更だ。

「見てみて。この傘ね、この前デパートで買ってきたんだよ。おニューなんだ」

 そう言いながら閉じられている傘を自身の目線の高さまで上げ、まるで幼い子供のように無垢な微笑みを俺へと向けてくる彼女を見つめて、俺は幸せを感じている。

 あぁ……どうしてこんなに可愛くて性格の良い娘が、俺なんかと毎日一緒に帰る事を快く了承してくれたのだろう……。

「いっぱい悩んで決めたんだ。すっごく可愛い柄なんだよ。早く見せたいなぁー」

 彼女はより一層笑顔を深め、傘の腹部分を手に持ち、まるで旅行会社の添乗員が自社のマークが描かれている旗を振るかのように、傘を上下に動かした。

 そのような幼い行動が、どうやら俺のツボらしい。彼女の一番可愛い姿という決定的瞬間を見逃さないために、俺の視線は彼女に釘付けになっている。

「にゃーにゃにゃーネコさんにゃー」

 突発的に口ずさむ意味不明な猫の歌は、彼女が最大限にご機嫌な時に出る歌だ。

 ニコニコと微笑みながら軽い足取りで傘を上下に降り、猫の歌を歌っている彼女の姿は、もう惚れるしか無い。

「いちにー、さん、はいっ。にゃーにゃにゃーネコさんにゃー」

 俺の顔を見つめニッコリと笑い、手に持った傘を今度は指揮棒のように振り、一緒に歌う事を俺へと求めてきた。

「にゃーにゃにゃー……」

「ネコさんにゃーまで言わないと駄目なんだよ!」

 元々がそんなに明るい訳では無い俺にとって、彼女のその言葉に従う事はとても難しいものがあるのだが……。

「ネコさんにゃー……」

「ネコさんにゃーって言って、手をね、顔の横に持ってきて、クイッてするの。クイッて」

 彼女はまるで招き猫のように目を細め、口をほんの少しだけ開けて、顔の横に持ってきていた手をクイクイと動かしている。

 彼女以外の一体誰が、こんなあざとい仕草を違和感無く行えると言うのか。彼女のその行為そのものが、彼女のために用意されたポーズのように思えるほど、似合っている。


 学校の正面玄関へとたどり着き、外履きの靴へと履き替えて外へと出て、俺は空を見上げた。するとそこには先程までの豪雨が嘘だったかのように、雨の勢いが治まってきており、振ってくる雨粒のひとつひとつも、小さなものへと変わっていた。

 それでも傘を刺さないで済むほどでは無く、俺は仕方なく自身の黒い傘を広げ、彼女へと視線を移す。

 彼女はニコニコと微笑みながら傘を撒いていたマジックテープを外し「黒ネコさん柄なんだよー」と言い、ジャンプ傘のボタンを押して、勢い良く傘を広げた。

 その瞬間、俺の背中には、真夏だと言うのに冷たい感覚が襲う。

「えっ」

 開かれた彼女の傘は、骨と骨の間の部分を、切れ味の悪い刃物で乱雑に切り裂かれたかのように、ズタズタになっている。

 おそらく大きな黒ネコの柄だったのだろうが、今は黒ネコのイラストがどういったものだったのかすら、分からない。

「それ……」

 俺がおもわず彼女に向かって声をかけると、彼女は傘に凝視させていた視線を俺へと移し、すぐさまその傘を閉じて、幼児の悪戯いたずらに困ったかのような苦笑の表情を作り、俺の顔を見つめる。

「あははっ。いやぁ、やられちゃったねぇ」

 彼女は平静を装い、俺に心配かけまいと、笑ってみせた。そして切り裂かれた傘を再び大事そうにクルクルと巻き直し、マジックテープで止める。そしてその傘を一瞬だけ、物凄く悲しそうな表情で見つめて、すぐに笑顔を取り戻した。

「んー、困ったな。どうやって帰ろうかな」

 彼女はそう言い、両手を体の前で繋いだ状態で、やけに狭い歩幅でパタパタという足音を立てながら、俺へと近づいてくる。

 何やら、無理におどけているように見えて……俺の心は、痛む。

 痛む……。

「あのー、そちらの傘、ご一緒よろしいでしょうか?」

 彼女は俺にだけ見せる笑顔で、俺に向けて話しかけてきた。

 そう。彼女は俺にしか笑顔を見せない。俺にしか話しかけない。

 何故なら、軽度ではあるのだが、彼女は以前の俺のように、イジメを受けているから。

「うん……いいよ」

 俺がなんとか発した言葉は、弱くなった雨の音にすら掻き消されてしまいそうなほど、小さなものだった。


 俺は何故か渡された彼女のボロボロの傘を手に持っている。彼女は何故か俺から奪い取った傘を俺と彼女の体を覆うようにして刺し、屈託のない笑顔を浮かべながら鼻歌を唄い、とても楽しそうに歩を進めた。

 いつもいつも、俺は自分の席から彼女の姿を斜め後ろから見つめていた。いつも見つめていたせいで彼女の横顔は見慣れた光景だった筈なのだが、今こうして無遠慮なほどの間近で彼女の顔を見つめていると、まるで初めて彼女を見かけた時のように、心臓が高鳴っているのが分かる。

「雨、止んできてるね」

 俺はあまりの緊張のためか、とてもどうでもいい事を口走ってしまう。そればかりか「傘、もういらないんじゃない?」という、幸せな今を手放すかのような言葉までもが、口から飛び出してきてしまった。

 何故なのだろう……何故、俺はこんなにも臆病なのだろう……手を握ったり、肩を寄せたりする事さえ、本来ならば許される間柄なのだ。

「えっ? なぁに?」

 彼女は聞こえている筈の俺の声にたいして、とぼけてみせる。そしてニコッと笑い、より俺へと近づき、自身の体を俺の体へと、ほんの少しふれさせた。

 ただそれだけの事だと言うのに、俺に与えた精神的な影響はとてつもない。心臓の鼓動が先程よりも激しくなり、喉が詰まったような感覚に陥り、顔が熱くなるのを感じ、全身から汗が噴き出るのが分かる。

 呼吸をする事さえ、困難だ。思わず「ふぅぅ……」という熱い息を、口から漏らす。

「白線の上、歩いて帰ろーっと」

 彼女はそんな俺に気づいていないのか、独り言のようにそう呟いて、俺のすぐ近くに引いてあった白線の上へと自身の足を乗せ、歩幅を狭くし、慎重に歩き始めた。

 しかしその白線はすぐさま途切れてしまい、彼女はいきなり途方に暮れる。

「えー……あっ。色の付いてる部分とマンホールはセーフにして? ね?」

 俺の顔を見つめ、彼女は両手を合わせて、俺へとお願いをしてきた。

 自分で始めて、自分で決めたルールなのだから、わざわざ俺にお伺いを立てる必要なんて全く無いと思うのだが……もうすでに彼女の中で俺の存在は審判になってしまっているようだ。

「うん、いいよ」

「やったっ! ありがとぉー」

 彼女は世界一の笑顔を作り、本当に嬉しそうに、俺へとお礼の言葉を言った。

 そしてとても慎重に、少し離れた場所にあるマンホールへと足を伸ばし、小さくピョンと跳ねてた。滑って転んでしまわないかと心配になったのだが、彼女の運動神経はそこまで悪く無いらしく、無事に着地が成功した。

 刺されている傘は既に俺の体を覆ってはいなかったが、雨はすでに止んでおり、僕の事を濡らす事はない。

「あっ! ほらほら、ちゃんと付いてこないと。傘から出ちゃってるよー?」

「ん……?」

「傘から出たら酸の雨で体が溶けてしまうのです!」

 彼女は人差し指を立てて空を指さし、少しだけ演技かかった声色で笑いながらそう言った。何やら、彼女は頭の中で色々と設定を考えていたらしい。

 ……こういった無邪気な部分は、彼女の持ち味だと、思うのだが、どうやらクラスの女子からは大不評を買っており、クラスの女子の噂話に耳を傾けると、今は彼女の話題が大半を絞めており、俺の心を毎日毎日、痛めつけている。

 入学当初、あんなに明るかった彼女は、今では俺の前でしか、無邪気な姿を見せない。

「だから、はやくはやくっ。傘の中に入ってっ」

 猫の手を作り、俺を手招きしている彼女の姿を見ていると、やはりなんだか心を締め付けられてしまう感覚に陥る。

 だから俺はいそいそと、彼女が持つ俺の傘の中に、身をかがめながら入った。

「はいはい」

「一人……いで」

「えっ?」

 彼女はとてもとても小さな声で、何かを呟いた。

 聞き返した僕の声を無視するかのように、彼女は深い深い笑みを浮かべながら「さぁ、いこうっ!」と元気な声をあげて、白線にむけて足を伸ばす。


 彼女のこの小さな冒険は、彼女の中で様々な事件を起こした。

 大きな水溜りは底なし沼。彼女の片足はほんの少しその水溜りに触れてしまい、俺に向かって「助けてっ!」と大きな声で懇願こんがんし、俺はそれを受けて彼女の制服の袖を掴み、そっと引っ張る。

 小さな石は巨大な岩石。白線の上にあるその石に行く手を遮られ、彼女は「助けてっ!」と大きな声で懇願こんがんし、俺はそれを受けて彼女の目の前に立ちふさがる石を蹴り飛ばした。

「ありがとうっ」

 彼女は俺が手助けをする度に、本当に嬉しそうな声でお礼を言っている。

 その時の彼女の表情が紛うこと無く笑顔であるという事実に、俺は大した事をしていないというのに、本気で嬉しい気持ちになっていた。

「そういえば、俺って白線の上歩いてないけど、大丈夫なの?」

「ん? うん。貴方は私を助けてくれる、天使様だから。今飛んでるんだよ」

 今俺は、飛んでいるらしい。

 そして彼女の言葉を受けて、本当に飛んでしまいそうなほどに、嬉しい気持ちでいっぱいになる。

 天使様……遊びの中での事とは言え、そんな言葉を言われる日がやってくるとは、夢にも思っていなかった。

 この子の隣が、俺の居場所。この子のために俺は、これから起こるであろう災いの全てを、払いのけよう。この遊びの中でも、現実でも。

 そう決意させるには、十分過ぎる言葉を、頂いた。

「だけどね、酸の雨は天使様でも防げないの。だから傘から出たら駄目なんだよ」

「ははっ。そうなんだ」

「あっ。天使様、笑うとかわいーにゃー」

 彼女は何度目かの招き猫の仕草をし、そしてそのまま招いている手を、俺の頬に優しく当てた。

 その瞬間、俺の心臓はドクンと跳ね上がり、視界を歪ませる。

「ん……そうかな」

 俺は自分の顎を右手で触り、満足に動かない首をなんとか動かして、彼女を視界の外へ追い出した。

 このまま彼女の顔を見つめていたら、頭がどうにかなってしまいそうだ……。

「うん、可愛い。なるべくでいいから、笑ってて欲しい」

 彼女はニッコリと微笑みながらそう言い、またゆっくりと、白線の上を歩く。

 それに習うように、俺も僅かに震える両足を動かし、彼女の隣をただ歩いた。

 空を見上げると、いつの間にか厚かった雲は裂け、その切れ間から夕方独特のオレンジ色をした光が差し込んでいる。

 体感ではとても短く感じていたのだが、もう随分と長い時間、こうして一緒に遊んでいるのだなと思いつつも、僕は意図的に歩幅を短くして、彼女と僕の歩く速度を落とさせた。

 もっと、一緒に居たい……。


 いつもの国道の交差点。いつもの車屋の前。

 俺と彼女は立ち止まり、思わずお互いの顔を見つめた。

「天使様とお別れの時がやってきてしまいました……」

 彼女は未だ白線の上に立ち、残念そうな表情で残念そうな声を漏らす。

「……傘、どうする?」

 俺がそう言うと、彼女は「明日返すから、借りていいかな? 酸の雨から身を守らないと」と、急に元気な声をあげて満面の笑みを見せた。

 俺が問いただした傘は、俺の傘の事では無く、彼女の、傘だ……。

「うん、わかった」

 しかしその事を言い出す事は出来ず、俺は出来る限りの明るい声で、彼女に向かってそう言った。

 彼女の傷に、触れる事が出来ない……。

 俺は、臆病者だ……。

「ありがとぉーっ。それじゃあ、また明日ね」

「また明日」

「あっ! 明日とは言っても、メールはするから!」

「ははっ。うん、わかった」

 俺は後ろ髪を引かれる思いを拭えないまま、彼女が刺す俺の傘から抜け出て、青信号の歩道を、ゆっくり、ゆっくり、歩き始めた。


 国道沿いにある小さな二級河川にきゅうかせんの橋を渡りながら、俺は考える。彼女が俺に期待している事とは、一体何なのだろう、と。

 入学当初はある程度仲良く接していたのだが、俺がイジメられてからというもの、その関係も疎遠になってしまい、次のターゲットが彼女になった途端に、再び俺へと近づき、何の脈絡も無く告白してきた、彼女。彼女は何を、考えているのか……。

 優しさがほしいのか? 共感がほしいのか? 助けがほしいのか? 素直に、彼氏がほしいのか……。

 一体、なんなのだろう……彼女は一体、何を考えている?

 わからない……こんなに近しいのに、わからない。

 俺は彼女では無く。彼女もまた、俺では無く……故に言葉にしないと分からないのだが、その言葉も俺が臆病なせいで、交わされる事が無い。

 もしかしたら俺は、彼女の欲しがっているものを、与えられていないのでは無いかと思い、胸が苦しくなる……。


 俺は彼女を思うあまり、我慢が出来ずに後ろを振り返る。

 するとそこには、未だ歩き出せずにいる、信号機の前にあるマンホールの上に立つ彼女の姿が、見えた。

 もう何度か、信号は変わっている筈である。

 それなのに彼女は、俺が貸した傘をクルクルと回し、ただただ、立っていた。

「あぁっ……」

 その姿を見ていると、自然と全身に悪寒が走り、声が漏れ、涙が溢れる。

 今にも……今にも、赤信号の横断歩道を、渡ってしまいそうだと、思ってしまう。

 なんだ、これは。なんだこの、感情は。

 俺は無意識のうちに踵を返し、そして無意識のうちに、走り出していた。


 俺が走りながら近づいて来る姿に気付いた彼女は、大きな瞳を更に大きくさせて、驚いていた。小さく口を動かして、なにかを呟いているように見える。

「有希っ!」

 俺は彼女の名前を叫んだ。そしてそのまま、彼女の小さくて華奢な体を、抱きしめた。

「有希っ……有希っ……!」

「えっ……えっ……正也君? どっ……どうしたの?」

「……好きだっ、有希っ」

 今まで喉の上のほうまで出てきていたのだが、そこから中々出てこようとしなかった言葉が、ようやく俺の口からこぼれ落ちた。

 本当に、ようやく……思えばずっと、ずっと、好きだったのに、ずっと、ずっと、言えずにいた。

 なんだかとても、スッキリした気分になる。雨上がりのジメッとした空気だと言うのに、今までに感じた事のない開放感が、俺の心に訪れた。

 まるで、大量の雨水と、彼女という日光を得て、蕾だった心という名の花が開花したかのような、開放感。

「……天使様が、助けに来てくれたぁ」

 彼女は俺の傘を手放し、両手で俺の体を、優しいチカラで抱きしめた。

 彼女が呟いたその声は、今まで聞いた事が無いほど震えていたのだが、今まで聞いた事が無いほどの歓喜を、含んでいるように感じた。

「これからは、俺が守るから」

 俺のこの言葉も、震えていた。

 俺の声を聞き、有希の体はビクッと跳ねる。そしてすぐに、大きく震え始める。

「辛かったっ……寂しかったっ……ごめんね、ごめんね……正也君がいじめられてた時、怖くて何も出来なかったのにっ……私はすぐに正也くん頼って、ごめんねっ……私、ずっと好きだったからぁっ……頼っちゃったのっ……私、最低だぁっ」

 そうか。

 その言葉だけで、全てが報われる。全てが許せてしまう。

 俺は有希の小さな体を強く強く抱き締め、有希の全てを守るかのように、自分の体で覆い隠した。


 地面に降り注いだ雨が、夕焼けに照らされてキラキラと光る。

 そして有希の両目から流れ落ちている涙も、キラキラと輝かせる。

 無理に作っているのがバレバレの有希の笑顔と、まるでピカピカに光る宝石に見える有希の涙は、俺の心を掴んで離さない。

 もう、離れない。

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 傘の中で咲く花 ナガス @nagasu18

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