ちょっと待って下さい、逆ではないですか 後篇

 病院の部屋って言うのはどこもかしこも変わりがない。白い天井に白い壁。窓を開ければ吹き抜ける風がほんの少し湿気を含んで重い。それでも風でなびく白いカーテンはアルコールと薬の匂いで包まれた部屋の匂いをほんの少しだけ忘れさせてくれる。

 当然病院ではBGMなどが流れる訳もなく、部屋の中で響くのはカリカリとシャーペンを走らせる音、そして時折クスクスと笑う声と一緒に、まるで内緒話をしているように話す二人の姿があった。


「……そんな訳で、うちの従姉妹、従兄弟達の過保護が加速して大変な事になってるって訳」

「仲良いんだ。大家族って言うのは分からないけど、何だか羨ましいな。私、一人っ子だし」


 男子の言葉に、女子はクスリと笑う。

 女子が笑う顔を見て、自然と男子も顔を綻ばせる。

 下世話な目で見れば、彼女のお見舞いに彼氏が来た、とも見えるが、この病室を出入りしている看護師達は「そういうのじゃないわね、今の所は」と言う共通の見解を示していた。

 カップルと言うにはあまりにも距離感があり、ただのクラスメイトと言うには距離が近過ぎる。友情とは違う。でも愛情なんてない。この年頃特有の、線引きのできない複雑な関係性を保っていたが、二人ともきっと傍から見ていると周りをやきもきさせているだろうと言う事に、全く気付いてもいないだろう。

 男子は椅子に座り、ベッドから身体を起こしつつ時折机に頬杖を突きつつシャーペンを走らせている女子に、淡々と言葉を紡いでいた。

 二人の話題は案外狭い。

 初めて来た時は完全に学校からの連絡とお見舞いの品を届けるだけだったのが、あまりに入院が長引いたものだから、学校に出たらまず最初に単位取得のためのテストを受けないといけない彼女のために、臨時で家庭教師をするようになり、今に至る。

 時折クラスで起こった話をし、気付けば身内の話を互いにするようにもなっていた。入院生活が長引くと、共通スペースで見るテレビ以外の話となったら、それぞれの思い出話の交換となり、当たり障りのない話となったら身内をネタにするのが一番手っ取り早いために、自然と互いの身内については詳しくなってしまっていた。


「俺も一人っ子だから、過保護が過ぎて互いを怒らせて大喧嘩したり、逆に互いに何かあったらすぐに駆けつけるって言う関係は嫌いじゃないかな」

「兄弟欲しかった?」

「んー……小さい頃は。妹が、欲しかったかな」

「従姉妹の子は? 違うの?」

「……同い年だからなあ。あんまりそう言う風に思った事なんてない」

「そっかあ……私はどうかな。お兄ちゃんが欲しかったかもしれない。あなたみたいな」

「何だそれ」

「共働きだから仕方ないけどね、他の病室に家族が毎日お見舞いに来てるの見るのは羨ましい。私は家族が来る日以外、自分で洗濯機借りて洗ってるし、他の事も自分でやってるから」

「やっぱり飽きた? 長いもんな」

「うん、いい加減にね」


 二人の会話は途切れる事もないが、その間もカリカリとシャーペンが音を奏でているのも止まる気配はない。

 男子が椅子に座っている中、病室の机の上には教科書とノートが広げられていた。性格が表れているとも言える位に神経質に神経質に板書を取ったノートを一生懸命写している女子は、さらりとした赤い髪に白い肌。とろんとした目はチョコレート色で、匂いを嗅げばカカオの匂いがするんじゃないかと夢想しそうな、いかにも女の子、と言う存在を凝縮したような女子だった。


「雪柳さーん、そろそろリハビリの時間ですよー」

「あ、はーい! 春待君、ノートありがとう!」


 彼女は慌てて自分のノートを閉じると、自分が写していたノートを男子……春待三樹に返した。三樹は苦笑してそのノートを受け取った。


「退院は来週だっけ?」

「うん! ……三ヵ月も学校行ってなかったから、クラスに溶け込めるかな……」

「雪柳なら大丈夫だろ。俺もいるし」

「私、春待君のファンを敵に回すの嫌だよ……」

「別に放っておけばいいだろ、とやかく言う人なんて」

「そうだけどね。それじゃあ、私そろそろ行くね」

「うん。あ、雪柳」

「はい?」


 赤い髪が風でなびくと、雪柳と呼ばれた女子のうなじが透けて見えた。彼女が小首を傾げると、三樹は一言、言葉を伝えた。


「この間借りた本。面白かった」

「……春待君の趣味じゃないって思ったんだけどなあ」

「そりゃ一番好きなのはホラーだけど、読んでみたら案外いけた」

「食事じゃあるまいし」


 あははははと笑って、三樹は今度こそ病室を出た。雪柳もまた、スリッパをペタペタと鳴らしながら、リハビリルームへと行く。

 会釈をして去っていく三樹の背中を見ながら、彼女は深く深く溜息をした。


「……嫌われるよう努力してるのにな、どうしてだろう。返って私が好きになっているような気がする」


 胸の軋みを訴えつつ、彼女は顔見知りの看護師達に挨拶をしつつ廊下を歩く。

 初めて彼を見た瞬間、最初に感じたのは「恐怖」だった。

 夢で何度も何度も見たのは、自分が見知らぬ人とデートをしている夢だった。年の離れた人もいれば、訳ありで女装している年下の子もいる。スポーツマンシップに乗っ取った体育会系もいれば……そう、今日病室で話をしていた風紀委員の真面目な男の子もいた。最初夢を見た時は、ただ恋をした事がない自分が、恋に恋して夢の中で予行練習をしてしまったんだろうと、あまりにも甘酸っぱい夢の数々に思わず苦笑をしていたが、現実はそうではなかった。

 だんだん夢に出て来た自分に近付いて行った時、どうもこれは夢ではないと気付いたのは、入学式でだった。真面目な顔をして通り過ぎる彼を見た瞬間、夢に出て来たそのまんまの人が現れたのに、彼女はただただ「恐怖」したのだ。

 もし彼女が少しでも夢見がちで、運命を信じるタイプの女子であれば、このまま恋に恋して彼を追いかけ回していたかもしれないが、彼女はあいにくそう言うタイプではなかった。夢に出て来た人達そんまんまの人達がここにいる。夢の中でたくさんの人と恋をし、時には二股まがいな事をし、時にはわざと相手を傷付ける──。

 これは夢だからと言い訳するには、彼女はあまりに潔癖過ぎたのだ。

 自分が恋に恋する夢の時間は、高校二年生。彼らに認知されるのもまた、高校二年生。彼らに会うのが遅れれば、夢の通りの出来事が起こらなくなる。そう思ったら、気付けば二年生に上がるその日、彼女はトラックの前にいた──。

 全治二ヶ月の怪我で済んだのは奇跡に等しく、彼女が風邪気味だった事もあり、トラックの運転手が過失を免れた事もまた奇跡であった。誰も悪くないし、自分も悪くない。これで夢を変えられる。そう彼女は安心しきっていたのだが、そうは問屋は卸してくれなかった。

 夢を変えたくって身体まで張ったのに、これじゃあ何の意味もないじゃない。一人になると暗く影が落ちそうになるのを、ただ根拠もなく「大丈夫」と自分を励ました。

 人の気持ちなんてどうこうなるもんでもない。だから、大丈夫。

 ふいに──雪柳は強い土の匂いが鼻を掠めるのを感じた。今年の梅雨は空梅雨で終わるんじゃないかとは共同スペースで見たテレビで言っていた事だけれど、土の匂いが際立つと言う事は、きっと雨が降ると言う事だ。それもきっと、土砂降りの。

 そろそろ退院するけれど、土砂降りの日に退院なんて言われたらどうしよう。そう思いながら、彼女はリハビリルームへと足を運んだ。

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