雪の弾丸
前野とうみん
Vanishing From Quiet
四十摘み目の雪を口に含んだ。吐息に細心の注意を払い、ただひたすらに待つ。私の居場所が、
私の傍らに
今では、相棒の身体は雪に沈んでしまっているのだろう、私は弔いの気持ちも噛み殺す。戦場で哀しみに呑まれれば、たちまち死神が心臓か頭蓋を貫き、魂を
想うな、考えろ。悼むな、殺せ。
雪の降る音が聞こえるほどに静かだった。この戦場――ホワイトアウト・ホールは吹雪の壁に阻まれた窪地だ。かつて隕石が穿ったこの穴を囲うように、超自然的な干渉によって吹雪が吹き荒れている。が、中心である窪地には激しい風が吹かない。
今、風は止んでいた。凪が、その穏やかさで眼前の果てを包む。広がる雪上の地獄は、全てが終わったことを示している。この戦いで互いの勢力が腹に抱えていた火薬は、命は、私と彼女、2人分を残してこの窪地に吐き出された。
相手を排除する為に用意された熱量達――窪地に焼き付いた黒が、雪に覆われ朽ちゆく様。
フィッシャー&クイン。私が相対している女性狙撃手と、私が屠った観測手の名。
実際に同じ戦場に立つのは初めてだったが、戦闘が始まった時から空気の質が違った。刺々しく苦い、鈍重だが時間をかけて場を支配する殺意がそこにはあった。戦場は殺意同士が混じり、より強い殺意が場を支配する。彼女たちはまさに、その研ぎ澄まされ、計算し尽くされた殺意でもって命を釣り上げるのだ。
互いの観測手は互いの凶弾に
相手の見えないにらみ合いは7時間が経過している。ただの我慢比べではない、常に思考を巡らせ、殺意を隙間なく張り巡らせる修羅の刻――。
冷たい雪の感触と、自分の皮膚の感覚を一体化させろ。神経を研ぎ澄ませ、視界に映る世界の違和感を探せ。降り積もる雪は、転がる肉片は、棄てられた車両は、あるべき
狙撃手は自らの存在を、存在することの不自然を極限まで希釈できなければならない。不自然を偽装し、自然と同化する術を持つことが、狙撃手の第一条件だ――だからといって、狙撃手同士の戦いにおいてはそれだけでは足りない。
狙撃手同士の戦いは自ずと”騙し合い”の様相を呈する。潜伏場所の偽装、誤射の誘導、ポジションの読み合い。より狡猾で、より巧みな者が場を制する、狙撃対決とは心理戦でもあるのだ。
仲間の命も、敵の命も、全てを奪い合った果てに訪れた、完全に凍り付いた地平。
静寂だった。ただ明確な殺意だけが、この窪地に充満していた。全方向からの殺意、これも、戦場の要素。一つでも多くの要素を自らの味方にした者が、この戦場から生きて帰る。
すり鉢状の地形を巧みに使い、破壊されて死体を垂れる戦車の陰に隠れ、雪と同化し、風に紛れて駆け巡り――長く続いた攻防は静寂で終わりを迎えようとしている。雪の向きは、風の強さは、温度は、湿度は。
私は資料でしか彼女の顔を見たことがない。恐らく彼女もそうだろう。だが、今この瞬間、私は間違いなく彼女のことを、彼女は間違いなく私のことを、世界で一番理解している。殺意は雄弁に――それこそ旧友との談笑のように――交わされていた。
スコープは使えなかった。ガラスの反射はそれだけで彼女に私の位置を悟らせる。思考と感覚だけが味方だ。彼女ならどう動く。私をどう欺き、私の命をどう釣り上げようとする。考えろ。私が彼女なら。彼女が私なら。限界まで融け合った互いの輪郭を探れ。
今、私たちは世界で一番熱心に互いを求めている。ひたすら相手を探している――恋焦がれるように。
沈黙。膠着状態は続く。が、長くは続かないことを互いが理解しているだろう。彼女ほどの狙撃手ならば気づいているはずだ。ホワイトアウト・ホールにおける風向きは巡っているということに。
窪地の淵の形状と、周りを包むように吹く吹雪の向きと強さ。これにより窪地内の風向きが周期的に定まる。観測手であるアイーダがまとめたデータを、彼女が
最期まで、観測手としての役割を全うしてくれたアイーダ。彼女の温もり、彼女の声、彼女の瞳――今は想いを忘れろ。想いは死を誘う
場の空気が、時間がだんだんと緩慢になっていく。緊張による緩慢。雪の動きの一つ一つを大岩の動きのように感じる。張り詰めた意識がもたらす
今だ。雪の動きが変わった。私は伏せたまま雪を巻き上げ素早く回転、近くの遮蔽物――破壊された雪上兵員輸送車の陰に駆け出した。同時に、窪地の底を挟んだ遠方で雪が舞い上がった。フィッシャー――思うが早いかトリガーを引く。同時に足元の雪が弾ける。遅れて耳に届く相手の銃声。私が撃った弾が当たった感触はない。彼女との距離と角度を計算。同時に、駆け出したタイミングで投げた手榴弾が雪柱を上げて爆ぜた。
静寂が破られるその一瞬に賭ける、その考えは同じだった。フィッシャーがいたであろう場所でも大きな爆発が起こる。爆発の形と音、大きさからして対人地雷。起爆の為に銃が使われた様子はない――遠隔起爆型。他にも仕掛けられている可能性がある。まずい、陽動できる機会が後手に回ってしまっている。
駆け引きが激しくなる時、自らのテンポを崩してしまえば、一気に相手のペースに呑まれる。ホワイトアウトは近い、ここを逃せば私は手数で圧倒的に劣ってしまう。生唾を飲み込んだ。私は遮蔽物にしていた雪上兵員輸送車の下部を探り照明弾を手にする。
3回の轟音。彼女が対人地雷を遠隔起爆したのだ。一発はかなり近い。地面の雪が流れ落ちはじめ、やがて雪崩と化す。本能的に開けた場所に逃げようとし、その行動を意志でもって押さえつける。これはホワイトアウトへの焦りも考慮に入れた彼女の撒き餌なのだ。相手の思惑通りに動くことは死に直結する。私は輸送車のハッチを開け、荷台に乗り込んだ。直後、タッチの差でハッチに弾丸の感触。追って響く銃声。
――直後、ホワイトアウト。
これこそが狙ったタイミングであり、私の切り札だった。轟音と豪雪で五感が遮られる中、照明弾を窪地の外――周囲を包む吹雪に向かい、撃つ。アイーダが計算で導きだしてくれた射角で飛び出した照明弾は窪地に沿うようにして軌道を変え――ちょうど
ホワイトアウトが解かれたその瞬間、一瞬にして昼のような光が鈍色の窪地を照らした。焼き付くように映る、彼女、フィッシャーの表情――
ダダン、ダン。
雪崩に流され、不安定に揺れる輸送車の中から3発。内2発が彼女に命中した――熱い!冷え切っているはずの身体に鋭い熱を感じる――雪崩に振り回される輸送車は縦へ横へと回転し、窪地の底へと墜ちていった。
意識を取り戻した時、周囲の殺意が
輸送車の中だった。雪崩に揉まれ、輸送車のハッチが雪に埋もれなかったのは奇跡としか言いようがない。私は狙撃銃を携え、慎重に外を確認する――すぐに、視界に赤い染みがあるのに気が付いた。
「フィッシャー」
「やっぱり、貴方がユーリィ・ヴィナスだったのね……」
フィッシャーの元に近づくと、彼女の胸と腹に一発ずつ弾痕があった。息は白い。だが、だんだんと弱々しくなっていく。白い息は、彼女の命そのものなのだと言うように。
「……貴方は……クインを殺した……アタシも……アイーダ・ヴァシロフを殺した……」
「ええ、それが戦争だ」
不思議な充足感があった。彼女の表情も、苦悶に満ちたものではない。例えるなら、スポーツを終えた後の爽やかさか。
「おかしな……感覚。アタシは貴方を、恨んでいたわけじゃない。ただ――」
「私とあなたは敵だった。ただ、一人しか、ここから帰られなかった。ただそれだけのこと」
「ふふ、貴方とは……いい友人になれたかも知れない」
「そう……」
あの戦いの中で、私に芽生えた想い。彼女の思考をひたすらに考え、彼女の殺意をひたすらに浴び続けた8時間。狙撃手は環境と同化する。狙撃手同士は互いを探すうちに融け合う。私たちはこうして一生分の会話を済ませた。
「……人生で、一番、充実した時間……だった。だからせめて、貴方の手で終わらせて……」
「フィッシャー。あなたは誇り高い戦士だった。私はあなたと闘ったことを、誇りに思う」
フィッシャーが目を閉じる。迷いはなかった。
戦場に残された者の、これが定めだ。
私は静かに引き金を引く。
銃声が去り、辺りにはまた静寂が戻った。
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