涙、夏色に染まれ
馳月基矢
1. ペールブルーの不機嫌
1-1
久しぶりに届いた同級生からの手紙には、青すぎるほど青い空を背にして建つ、なつかしい小学校の写真が同封されていた。
手紙は便箋一枚ぶんだった。見覚えのある柔らかい筆跡が、まもなくその日が訪れることを、ひりひりと告げていた。
〈八月一日に
真節小学校が閉校して、今年で四年。残されていた校舎もいつか取り壊される日が来るのだと、もちろん知ってはいたけれど。
四年っていう時間は、長いようで、短いようで、まばたきひとつの間に気が遠くなる。
あたしは、あの島を離れてからずっと、長い長い薄暗がりの悪夢から覚めることなく、もがいているみたいだ。でも、振り返ってみれば、ちゃんと色の付いた思い出なんて、ほとんどない。たった数日ぶんの記憶みたいな分量でしかなくて、ぺらぺらで。
嫌い、嫌い、嫌い。自分が。毎日が。生きていることが。全部が嫌い、嫌い、嫌い。
何もかもがイヤでたまらないっていう気持ちは、まるで呪いだ。ほんのちょっと感情を動かしてしまったら、そのとたん、嫌い嫌い嫌いっていう自分の声で、頭も心も埋め尽くされる。
あたしは目を閉じて息をついて、唇を噛んで痛みを味わって、目を開けて写真を見つめた。青い空と、古ぼけた鉄筋コンクリートの校舎。
あのキラキラしていた毎日のことを思う。二度と戻ってこない、あたしがいちばん幸せだったころ。胸がざわめく。校舎が取り壊されたら、もう本当に、過去が過去になってしまうんだなって。
何言ってんだろう。過去は過去だよね。完全にサヨナラしちゃったほうが、きっといい。あたしは、過去のあたしを知っている人やものや場所、全部と、きれいさっぱりサヨナラしてしまいたい。
あたしはスマホを起ち上げた。二年以上、放置していたメッセージに、短い返信を作る。
〈手紙ありがとう。行きます〉
このメッセージアプリで誰かに連絡するのって、いつ以来だっけ。普段は、母からの連絡を一方的に受けるためだけの道具になっている。その連絡も、今から帰るとか、気を付けていってらっしゃいとか、何種類かのパターンだけ。
あたしは手紙と写真を封筒の中にしまって、部屋を出て台所に向かった。もうすぐ夕食だ。母がパタパタとスリッパの音を立てて、ごはんの準備をしている。母があたしに「手伝って」と言わなくなって、二年半。あたしが壊れてから、二年半。
わざと足音を鳴らして台所に入ったから、母はあたしに気が付いた。母が口を開く前に、封筒ごと、手紙をテーブルに置く。
「八月一日、小学校、取り壊しだって。行ってくるから」
「そう。みんなで集まると? 同じクラスやった子たち」
みんなって言い方は、たぶんちょっとおかしい。あたしたちは、たった四人だった。四十人が授業を受けられる教室に、四人だけ。あたしたちの関係を示す言葉は、友達もクラスメイトもしっくりこなくて、だから、仲間って呼び合っていた。
あたしは母の質問に答えた。
「詳しいことはわかんないけど、行く」
「一人で?」
「だって、仕事でしょ」
おかあさんも、おとうさんも。そう付け加えるべきなんだろうけれど。日本語の文法的には。
あたしは人の名前を声に出して呼べない。おとうさん、おかあさんというのも、呼べなくなってしまった。照れくさいとか、そういうんじゃない。呼び掛けると、距離が近すぎて、息が苦しくなる。人の気配がそばにあるのが、本当にダメなんだ。
母は丁寧にタオルで手を拭いて、封筒から手紙を取り出した。写真を見て、目を細める。あたしたち家族は、あの学校のすぐそばに住んでいたから、校庭から見上げる校舎のアングルは、とてもなつかしい。
微笑んだままの母がこっちを向く瞬間、あたしはうつむいた。前髪の黒いカーテン越しに、母の視線を感じる。
「泊まる場所や船便のこと、確認せんばいけんね。どうするか、決めとると?」
「決めてない」
「一人で行くとなら、安心できる人のところに泊めてもらわんばね」
「わかってる。後でまた考える」
あたしは、きびすを返した。
「もうすぐごはんよ」
「わかってる」
「今日も、夜、歌いに行くと?」
「行くけど」
「どこに? いつもの、交番のところの公園?」
「そこ以外、行く場所ない」
ため息の気配。そして、ものわかりのいい、優しい声音。
「行き帰りの道は気を付けて」
何度も何度も何度も、両親はあたしを叱って、引き止めて、なだめて、そしてとうとうあきらめた。学校や警察まで巻き込んで、あたしだけの特別なルールまで作らせた。その公園で、日付の変わる前だったら、真っ暗になってもギターを弾いていいって。
まじめで立派な人だ。父も母も。その人たちの血を引いて、その人たちに育てられたのに、あたしだけが規格外。心も体も壊れている。あたしはきっと、この家にいちゃいけないんだと、毎日、毎晩、感じている。
家を出たい。遠くに行きたい。一人で暮らしたい。お金を稼いで、自力で生きていけるように、早くなりたい。
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