辻斬り女と土下座男

坂入

第1話

 塾の帰り道、高架下を歩いていたら抜き身の刀が落ちていた。

 模造刀ではなく本物の真剣だ。拾ってみると意外に持ちやすく、手に馴染んだ。刃は厚く、反りは浅い。その形状は実戦的であり、美術品とは違う種類の美しさがあった。

 刀を拾った少女──如月二月は刀の近くに倒れていた死体の腰に鞘を見つけると、友達が落としたハンカチを拾うような自然な仕草で死体から鞘を抜き取った。鞘の鯉口に刃先を合わせ、入れる。やはりその刀の鞘だったらしくぴたりと納まった。

 十七、八ぐらいの少女だ。長い黒髪にワンポイントのアクセントとして赤いヘアピンをつけている。黒の中に一点の赤が混じるそれは黒後家蜘蛛のように見えた。

 その黒後家蜘蛛のような少女、二月はいわゆる優等生だ。

 高校では生徒会長を務め、教師の信頼は厚く、学年テストは常に総合一位、全国模試でも順位が三位より下に落ちたことはなく、TOEICのスコアは九〇〇を超え、陸上では一〇〇メートルと一五〇〇メートルの高校記録を持っている。街を歩けばモデルやアイドルにスカウトされたことは数えきれず、産気づいた妊婦を助けたことで地方新聞に載ったこともあり、火事の現場から子供を助けたことで消防から表彰されたこともあった。

 二月がここまで人望に溢れ、成績優秀な人間になれたのは親の躾のおかげだ。両親は二月に人には優しく、年長者を敬い、努力を怠らず、清く正しく生きるよう教えた。二月は両親の言葉を素直に聞き入れ、人には優しくし、年長者を敬い、努力を怠らず、清く正しく生きてきた。そのおかげで誰からも好かれる優秀な人間になることができた。

 けれど、二月の心は満たされなかった。

 どれだけ人に好かれ、友達に尊敬され、教師に信頼され、両親に愛されようとも、テストで満点を取り、陸上の記録を塗り替えようとも、それらの成果は二月の心を上滑りし、空々しさすら感じた。

 だから二月はここに来て一つの疑問を覚えていた。

 もしかしたら、親の教えは間違っているのではないだろうか? 親の言う通り人には優しく、年長者を敬い、努力を怠らず、完璧に清く正しく生きてきたのに、心は満たされない。つまりこれは両親の教えが間違っていて、清く正しく生きているからこそこんなにも心が満たされず、世界が空々しく感じるのではないだろうか? 本当は

 そう、人生に疑問を抱いたタイミングで二月は刀を拾った。清く正しく生きることに疑問を覚えていた二月にとってこれはをするまたとないチャンスであった。

 そのような理由から、二月は拾った刀を警察に届けることはせず横領することに決めた。


///


 二月の両親は共に仕事が忙しく、帰宅が深夜になることがほとんどで夕食を一緒に食べられるのは月に一度あるかないかといったところだ。そして両親はセキュリティ意識が高く、一戸建ての自宅はぐるりと高い塀に囲まれている。

 よって二月は人の目を気にすることなく自宅の庭で刀を試し振りすることができた。

 両手で構え、振りかぶり、振り下ろす。もう一度振りかぶり、振り下ろす。それを何度か繰り返す。刀を振るのは思っていたより疲れるが特別面白いものでもなかった。ただ振るだけなら棒とさして変わりはしないな、と二月は思った。

 と、庭に猫がいることに気づく。隣の家の飼い猫でよく二月の家に来ては花壇を荒らしている猫だ。たしか名前はタロウだかジロウのはずだった。

(やはり刀は斬ってこそですよね)

 そう心の中で独りごち、二月は抜き身の刀を手に気づかれないようゆっくりと猫に近づいた。

 猫の視界に入らないよう背中に回り込む。しかし見えていなくても気配を感じるのか、一定の距離まで近づくと猫はぐるりと首を回し二月をじっと見つめた。警戒の色だ。

 斬るには遠い、と二月は思ったがその判断が正しいのかどうかはわからない。どれくらいの距離が適切なのか、何処まで近づけば斬ることが可能な距離になるのか、なんの知識も経験もないため何もわからなかった。

 わからないならやってみればいい。

 二月は踏み出し、一息に距離を詰め、刀を振るった。

「────っ」

 先程とは違い動きながら振ったことで体のバランスが崩れた。遠心力で刀が振り回され、刀に引っ張られるような形で体がもつれた。とっさの判断で手を離し刀を投げ捨てる。しかし崩れた体勢は元には戻せずそのまま尻餅をついてしまった。

「…………」

 当然、猫にはかすり傷一つ与えることはできず、猫はいつの間にかいなくなっていて、花壇はきっちり荒らされていた。

 二月は立ち上がると軽く服をはたき、汚れを落とす。

(筋力がいりますね)

 刀を振る腕力だけではなく、振る体勢を維持するための筋肉もいると判断した。もっと体幹を鍛える必要がある。刀を握る握力も欲しい。

(それにもっと効率のいい振り方、構え方があるはず。それも調べないと)

 猫を斬ることには失敗したが、失敗から学ぶことは幾つもあった。自分に何が足りないのか、自分は何を知らないのか、何をわかっていなかったのか、それらを一つずつ把握し、足りないモノを手に入れるための計画を立てる。その一連の過程を二月は楽しいと感じていた。

(……胸がドキドキします)

 胸に手を当て、心臓の鼓動が高鳴っていることを確認した二月は、自分が笑みを浮かべていることに気づいていなかった。



 塾の帰りに本屋へ寄り、剣術の本を何冊か買った。家に帰るとすぐに速読し、全て読み切る。こんな本を持っていることが親にばれると面倒なので本をばらし、シュレッダーにかけてからゴミ袋に詰めた。明日が燃えるゴミの日なのはちょうど良かった。

 本の内容を全て暗記した二月は早速実践に取りかかった。

 まず、刀を握る。右手が上で左手が下。手全体でぎゅっと掴むのではなく薬指と小指で握るように意識する。左手を軸として右手で刀を動かす感覚。

 そして、素振り。二月はネットにあった動画で正しい素振りの形を見て覚えていた。その正解の形になるよう全身の動きを意識して振る。腕の振り、足の運び、目線、力の入れ方、抜き方、呼吸。動画から得られた情報を元に完璧な素振りの形を再現する。

 そうやって二月が正しい形での素振りができるようになると、正しい形の動きとは効率的且つ合理的な動きであることがわかった。素振りに限らず武術とは肉体の効率的運用法なのだと二月は理解する。真剣を使った剣術であってもその理屈はスポーツと同じで、可能な限り無駄を排除し、合理性を追求し、効率的運用を心がけることで結果が出せるのだ。

 真剣を使った剣術は人を殺めることもできるのでスポーツとは違うものだと二月は考えていたが、むしろスポーツ感覚で行うべきものだった。スポーツをやるような真剣さがなければ何かを殺めることもできないのだろう。

 そうやって本やネットから得た知識を一つ一つ確認しながら試していく。机上の知識は実践することで経験となり、経験を積み重ねることで技術として体得する。二月は数日で基礎的な技術を独学で習得した。

「────」

 猫は今日も来ていて、花壇を荒らしていた。

 この前とは違い二月は刀を鞘に納めたまま手に持ち、猫に対して構えることもせず自然体で見つめている。警戒されていないことを確認すると猫との距離をゆっくりと詰めていく。その動きの一つ一つがとても自然なため猫は二月を気にしていない。

 目測、猫との距離は三間約五メートル。猫はまだ距離が離れていると思っているのか警戒していないが、そこはもう二月の間合いだった。

 二月は油断なく猫を見ている。その一挙一動を見つめ、筋肉の動き、呼吸、目線、重心を測る。

 猫が息を吐き、筋肉を弛緩させたのが見えた。油断したのだ。その期を逃さず二月は即座に行動へと移った。

 重心を前に移し、まるで倒れるような極端な前傾姿勢で駆け出す。跳ぶようにというよりは滑るように。力の全てを合理的に使い、無駄なく体を動かし最大効率で距離を詰める。

 右手で刀を握り、抜く。同時に左手で鞘を引く。抜き放たれた刀身が弧を描き、きらめいた。

 感触はほとんどなかったが、手応えは確かにあった。その感覚を確かめるように目線をやるとぱたりと猫が倒れ、やがてその胴体から首が落ちた。

 何か──二月が今まで知らなかった何かが心にそそがれた。

 それは二月の心を満たすほどのモノではなかったが、しかし、わずかにだが人生の空々しさを忘れさせてくれるモノだった。

(ドキドキします)

 血振りをしてから刀を納め、息を吐く。

 高鳴る鼓動を感じながら二月はシャベルで猫の死体を埋めるための穴を掘り始めた。


///


 刀を振りかぶり、対象をじっと見つめる。目で見るのではなく心で見る、心の全てを対象に向ける。そうやって心の全部で対象のことを考えることによって高度な集中が得られることを二月はここ数日の練習で体得していた。

 ふっ、と肩の力を抜く。余計な力を込めても太刀行きが鈍るだけだと二月は学んでいた。込めるのは力ではなく心、斬撃の覚悟だ。

 無言の気合いを込め刀を一閃させる。一拍をおき、肉屋で買ったブロック肉は綺麗に両断された。

「────」

 息を吐き、台の上のブロック肉を見る。綺麗な切り口になめらかな断面、イメージ通りの斬撃。二月の刀を操る腕前が順調に向上している証だった。

 しかし二月はその結果とは裏腹に不満げな顔。それはやはりブロック肉を斬っても高揚感が得られないからだ。

 ここ数日、二月は様々なモノを試し切りしてきた。大根、竹、アイス、テニスボール、バスケットボール、竹刀、ぬいぐるみ、人形、マネキン、適当に思いつくまま得物を用意し切り刻み、切り刻み、切り刻んでみたが、胸の鼓動は高鳴らなかった。

 やはり、動いている獲物でなければ駄目なのだ。もっと言えば

 動いているモノを永遠に動かなくさせるから、生きているモノを殺すからこそ、あの胸のドキドキが得られるのだろう、きっと。

 そう二月は推測し、その推測を確かめるためには実践しかないという結論に至った。

 二月は刀を納めると家の中に戻り、鞄からプリントを取り出した。それは学校のホームルームで配られたもので、学区内に痴漢が出没したため注意を呼びかける旨が書かれている。

 プリントに書かれた住所をスマホの地図アプリで検索し、場所を確認する。遠すぎず、近すぎず、良い案配の場所だった。

 まずは、準備だ。

 スポーツ用品店で刀が入る大きさのドラムバックを買った。中に刀を入れ、鞘とバックを紐で結んで内部に固定する。それからバックの側面に切り込みを入れ、手が差し込めるようにした。こうすることでバックから刀を取り出すのではなく、バックの中から直接刀を抜けるようにしたのだ。

「────」

 試しにバックから刀を抜いてみたが、勝手が違うためさすがに鞘から刀を抜くようなスムーズな所作で抜刀することはできなかった。しかし一〇分ほど練習したらできるようになった。

 次に服装をどうするか考えたが、私服よりも一目で未成年とわかる制服の方がいいだろうと考え学校の制服で行くことにした。露出度は高い方が良さそうなので裾上げベルトでスカートの丈をいつもより短くする。

 その他諸々の準備を整えると二月は躊躇いなく実行に移った。

 夜更けに家を抜け出し、痴漢が出没した区域に行く。偶然か、そこは二月が刀を拾った高架下だった。

 もとより人通りがほとんどない場所だったが、痴漢が出た所為か人の姿は皆無だった。人がいなさすぎても駄目なのではないかと考えながらも一帯を歩いてみたが痴漢はおろか人っ子一人いない。失望を覚えながらその日は家に帰った。

 それから毎日夜更けになると高架下を歩いた。通う中で何人かの人とすれ違ったりもしたが痴漢ではなかった。ミニスカの裾から惜しげもなく晒された二月の生足をガン見するスーツ姿の男もいたが、それ以上のことはしてこなかったので痴漢とまでは言えなかった。

 今までの人生の中で痴漢に遭いたいと思ったことなどなかった、むしろ避けたいと思う対象であった。しかし今、二月はそれを望んでいる。その状況の可笑しさに二月は薄く笑みを浮かべる。少し、楽しかった。

 高架下に通ってちょうど二週間、初めて二月はその足を止めた。

 二月の目線の先に男がいた。恰幅のいい中年の男だ。サングラスとマスクをつけ、トレンチコートを羽織っている。まるでチープな漫画かドラマにでも出てくる典型的不審者の格好だ。

 早まるな、と二月は自分をいさめる。その格好だけで有罪判決を下されてもおかしくないが、まだ確証がない。

 二月は止めた足をまた動かし始めた。真っ直ぐに進む。進路の先に男がいるが、どく様子はない。むしろ待ち構えているようにも見える。二月は進路をずらし、男を避けるように歩こうとした。しかし男がその進路の先に横移動し、二月の進行を妨げる位置取りをする。

 その不審な行動で二月は九割方間違いないと見た。あとは男が行動を起こせば残りの一割も埋まり、完全な確証を得る。

 その一割を待ちきれず、斬った。

「あっ──?」

 跳ぶように間合いを詰め、斬り払う。その一連の所作があまりにも瞬間的に行われた所為か男は斬られたことにも気づかず間抜けな声を上げ、それから一拍おいて自分の腹から噴き出す血を見て悲鳴を上げた。

 豚のような悲鳴だ。返り血を浴びないよう移動しながら二月はそう思う。初めて人を斬ったにもかかわらず二月はとても冷静だった。今の一撃が浅いこと、腹の脂肪に阻まれ致命傷を与えられなかったこともわかっていた。

 踏み込みが足らず、狙いも甘く、何よりも殺すことへの真剣さに欠けていた。

(もっと真剣に……相手を殺すことを考えなくてはいけませんね)

 ただ斬ることだけに熱中してしまい、どうすれば殺せるかをあまり考えていなかった故の失敗だ。もっと殺すことを考えなくては。上手に殺すことが上手に斬ることに繋がる。もっと上手に斬り殺さなければ。上手に、上手に。

 男は膝をつき、傷口を手で押さえ悲鳴とも嘆願ともつかない不明瞭な音を口から発し続けていた。醜かった。残念なまでに醜い振る舞いであったが、その醜さは二月が斬り殺し損ねた所為で生まれたのだ。

 ごめんなさい、と二月は素直な心で思った。自らの過ちを認め、反省していた。だから早く殺してあげよう、と思った。速やかに醜さを終わらせることがせめてもの償いになるだろう。

 二月は男の喉を突き、脊髄を断った。即死だった。刀を抜くと男の体は前のめりに倒れ、二度と動かない。

(ああ──)

 人を斬った手応えがあった。斬り殺した手応えが手の中にあった。けれど──

(──思ったよりドキドキしない)

「違うっ!」

 唐突に、声。

 二月が振り向くと、そこには鬼の面をかぶったジャージ姿の男がいた。

 数秒前までこの路地には二月と推定痴漢の男以外誰もいなかったはずだ。痴漢に斬りかかる前、二月はちゃんと確認していた。なんの気配もなかった。

 それなのに突如として現れたジャージの男は大げさに両手を振り回し、声を荒げる。

「違う! 違う! 全然違う!」

 興奮した様子でまくし立て、二月を指さした。

「それはサムライじゃない! 丸腰の相手に名乗りも警告もなしに斬りつけるだなんて、とてもサムライの精神を持ってるとは言えない! いいか、サムライとは心なんだ。刀と矜持だけを手に生きる、それがサムライの生き方なんだ。だから君はサムライじゃない、ただの辻斬りだ!」

「…………」

 正直、二月はジャージの男の言っていることに興味はなかった。何を言ってるのかもよくわからなかった。というかそもそもろくに話を聞いていなかった。ただ、二月はジャージの男の腰にあるものを凝視していた。

 男はジャージの上にベルトを巻き、そこに刀を吊るしている。

(この人も、刀──)

 男の持つ刀を見て、二月は少し、ドキドキしていた。

 刀を持っているのだから、この人も人を斬るのだろうか。自分と同じように人を斬りにここに来たのだろうか。

 無意識、二月は刀を持つ手に力を込めた。

 たった今、初めて人を斬った。しかし刀を持った人を斬ったことはなかった。人と刀で斬り合いをしたこともなかった。殺し合うこともなかった。

 だから──

 この人は、

「──死合いを望むか」

 二月の視線に気づいたジャージの男は一転、低く静かにそう言った。

 ぞくりと、二月の肌が粟立つ。その短い言葉に込められたモノはわずかではあるが間違いなく殺意だった。殺意を向けられる、という生まれて初めての体験に二月の胸がドキドキする。

 そう、ドキドキだ。これが大切なのだ。

 人はパンのみで生きるにあらずと言うが、それは正しい。人が生きるのにはパンの他に水と酸素、そしてトキメキが必要なのだ。

 胸のトキメキこそが人生の全てと言ってもいい。

 だから二月は、トキメキに任せるまま刀を構えた。

 斬り殺し合いたいと、そう思ったのだ。

「宜しい──ならば、死合おう」

 そう言ってジャージの男は腰の刀を抜き、積み重ねた経験の長さを感じさせる所作で構えた。

「我こそは輝現流、オーガ。剣術の極みを目指すものなり」

 ジャージの男──オーガはそう名乗りを上げてから二月に目で合図をする。

「…………」

 合図されたのはわかったが、それがなんの合図なのかわからなかったので二月はとりあえず刀を構え続けた。すると気づいていないと思ったのかオーガが合図を繰り返し、それもスルーされると苛立った様子で〝次はお前の番だ〟と手振りで伝えた。

 おそらく、自分でやったように二月にも名乗りを上げることを求めているのだろう。二月はそう察したが、それに応える前に〝質問があります〟という所作で軽く手を上げた。

「オーガというのは本名ですか?」

「俗名は捨てた、サムライとしての名があればそれでいい」

「そうですか」

 頭のイかれた異常者なんだな、と二月は理解した。しかし異常者の妄想につきあうのも一興。

 二月は刀を構え直し、凛とした眼差しをオーガに向けると合唱コンクールでソロパートを務めたソプラノボイスで名乗りを上げた。

「我流、如月二月。がんばります」

 それで──死合いが始まる。

 一瞬で空気が変わった。

「────」

 周囲の空気がまるで粘性を持ったかのように絡みつき、二月の体を重くする。深海のような重圧感があり、成層圏のような息苦しさも感じる。

 この変質が目の前の男がもたらしたモノであることを二月は理解していた。

(すごい……)

 オーガは死合いが始まるとすぐ上段に構えた。ただそれだけで、こんなにも二月を圧迫する。

 オーガは確かに異常者かもしれないが、本物の人斬りだった。人を殺す剣だった。

 それもただ殺すのではない、ただ一太刀で斬り殺す、オーガのそれはそういう覚悟から来る構えだ。

 上段から真っ直ぐに振り下ろされる一撃、オーガはその一撃だけに全てを込めるつもりであることを二月は肌で感じ取り理解していた。本当に、本物の、全力。防御のことなど、ましてや二手目以降のことなど考えない。ただ一撃で以て相手を斬り殺し、それがかなわなかったときは潔く斬り殺される。全てを捧げた捨て身の一撃だ。

 死線、というものを感じた。

 今自分が立つこの場所がボーダーラインだ。この場所から一歩でも前に出れば斬り合いが始まり、一歩でも下がれば斬り殺される。どちらにせよ誰かが死ぬ。

 死なないことを目的とするならばこの場で刀を捨て土下座で謝るしかない。おそらくオーガは戦意のない者を斬ったりはしないだろうから助かるはずだ。しかし、二月にその気はさんさらなかった。

「────」

 ぞくぞくした。

 これから殺されるのかもしれないと思うと胸の鼓動が高まった。ドキドキが止まらなかった。

 死なないためにではなく生きるために、生きるためのトキメキを得るために、二月は、その一歩を踏み出した。

 笑顔だった。

 そして、駆ける。短距離走で鍛えた脚力で見る間にオーガとの距離を詰めていき、そして、斬る。

「────」

 しかし、それは早すぎた。まだ二月の間合いではなく、そこで斬ってもその刃はオーガには届かない。完全な空振り。

 初めての死合いに動揺して間合いを見誤ったか。オーガは一瞬そう考えたが、違った。二月は

「────っ!」

 オーガに向かって投擲された刀。迫り来る刀を前にオーガはそれを避けるべきか、叩き落とすべきか、それともあえて何もせず受けるべきか、迷った。

 刀は投げて使うようには作られていない。だから投げられた刀を喰らったところで致命傷にはならないだろう。しかし運が悪ければ深手を負うかもしれず、そうなれば死合いに勝つのは厳しくなる。

 ならばやはり防ぐしかない。避けるか、叩き落とすか。

 死合いにおいて刀を振るのはただ一度だけと決めているオーガにとって守りのために刀を振ることはプライドが許さなかった。意味のないプライドだが、それを意味もなく守ることにこだわった。だから上段に構えたまま左にサイドステップを踏み、飛来する刀をかわした。

 かわした先に、二月がいる。

「…………っ!」

 違法改造されたスタンガンの高圧電流を喰らい、オーガは悲鳴を上げた。持っていた刀を落とし、膝をつく。体が痺れ、まともに動くこともできない。

 最初から全て計算されていたのだ。二月は左に避けやすいように刀を投げることでオーガの行動を誘導し、隠し持っていたスタンガンを取り出しつつ予想される回避地点へと向かい、回避直後の隙をついて電撃を浴びせた。

「……ひ、卑怯者め! それでもサムライか、恥を知れ!」

 オーガは膝をついたまま二月を睨み付け、罵った。それから無念そうに固く目を瞑り、息を吐く。

「だが、負けは負けだ。殺せ」

 二月はスカートの下からアーミーナイフを取り出し、オーガの頸を斬った。

「サムライも何も──私、辻斬りですから」

 頸動脈から噴き出す血を眺めながら、そう、歌うように言う。


///


「すいませんでしたぁ!!」

 そう、叫ぶように謝罪しながら涙橋英雄は土下座した。

 本気の土下座である。

 地べたに正座で座り、両手と額の三点を接地させる。頭は可能な限り低く、低く、少しでも低くなるよう額を地面にこすりつける。そして誠実さを込めて謝罪の言葉を口にする。土下座。

 額を地面に押しつけているため見えないが英雄の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっており、体は恐怖で細かく震えている。「どうか、どうか勘弁して下さい!」と英雄は涙声で訴えかけた。

 ここは、都内にある廃工場。ただし今は撮影スタジオとして使われているので廃工場としての建造物を維持しながらもセキュリティと安全面は確保されている。

 その廃工場スタジオに男が三人いる。一人は件の土下座男。もう一人はその土下座男をカメラで撮影している男。最後の一人は土下座男の前に刀を持って佇む金髪ピアスの男。

 金髪ピアスの男は困ったようにカメラを持った男に目をやり、どうしますか? と目線で聞いた。カメラの男──監督は撮影を続けたまま土下座する英雄に近づき、優しい声音で話しかけた。

「あのさ、英雄くん、それじゃ困るんだよね。今回は斬り合いの撮影って言ってたでしょ? 君もそれを了承して契約書にサインしたんだよね? ほら、ここに拇印と一緒に君のサインあるよね?」

 そう言いながら監督はポケットから雑にたたまれた契約書を取り出し、英雄に見せるように広げる。土下座を続ける英雄に契約書は見えないが監督は気にせず続けた。

「撮影には命の危険も伴うこと、死んでも文句言わないこと、俺ちゃんと全部説明したよね? 説明を聞いてサインしたよね? 俺、何か間違ったこと言ってる? 言ってたら指摘して欲しいんだけど?」

「……すいませんでした」

「すいませんでしたじゃねえだろ!?」

 監督の恫喝に英雄はビクっと体を震わせるが土下座の姿勢は崩さなかった。怖くて顔を上げられないのかもしれない。

「もう前金払っただろ? お前受け取ったよな? それなのに〝すいませんでした〟で済むと思ってんの?」

「……すいませんでした」

「ああん?」

「……本当に、本当にすいませんでした」

「…………」

 監督は大きくため息を吐くと優しい手つきで英雄の背をぽんぽんと軽く叩いた。

「まあ、わかるよ。こういう撮影は初めてだもんな。緊張してんだろ? でもさ、ここでがんばんないとダメだってわかるよな? 大丈夫だって、君ならできるよ。何せ剣道の全国大会優勝者様だもんな、しかも三年連続」

「…………」

「ここで勝てば残りのギャラも君のものだよ。俺はそういうところで嘘は吐かないから安心してくれ、ちゃんと契約書に書かれてる額面のギャラは払う。あれだけの金があれば借金返した上に何ヶ月かは遊んで暮らせるよ。全国大会優勝者様が端金でバイトして食いつなぐ生活はもううんざりだろ? な?」

 監督は地面に落ちていた抜き身の刀──戦意喪失した英雄が落とした刀だ──を拾い、それを英雄の手に無理矢理握らせた。

「じゃあ、まずは立とうか。それで刀を構えて見せてよ。俺、芸術的とも言われた英雄くんの正眼の構え見てみたいな。雑誌のインタビューでも自慢してたもんね。ほら、立ってよ」

 英雄は手を少し持ち上げると、握らされた刀を投げ捨てた。乾いた音を立てて転がる刀。それから蚊が鳴くような声で「すいませんでした」と言った。

「…………」

 監督は頭をかきながら立ち上がるとカメラの録画を止め、英雄の脇腹を全力で蹴り飛ばした。

「がっ、はっ──」

 体が一瞬宙に浮くほどの勢いで蹴られた英雄はそのまま無様に転がった。涙と鼻水を垂れ流しながら痛みに喘ぎ、失禁したのかズボンもびちゃびちゃに濡れていた。

 不快そうにその醜態を眺めた監督は英雄の顔を蹴り飛ばしてから金髪ピアスの男の方を向く。

「中止だ中止、クッソとんだ時間の無駄だった」

「殺さなくていいんですか?」

「もっと若くないとスナッフフィルムとしての需要なんてねえよ」

 男は「そうですか」と言うと刀を鞘に納め、撤収作業を始めた。監督もカメラを仕舞い、英雄が投げ捨てた刀を回収し、あとは地面に転がった英雄を気が済むまで蹴り続けた。


///


 夜も更け、月もなく、星すらも雲の向こうに隠れた暗いだけの道を英雄はよろよろと歩いていた。

 監督に散々蹴られたため全身が痛み、服もぼろぼろに汚れ、失禁したときの尿で濡れたジーンズは悪臭がしている。しかしそれらのことを気にかけることができないくらい英雄は疲弊していた。朦朧とする頭で半ば無意識に足を動かし、道を歩いている。

 やがて英雄の自宅である安アパートに辿り着いた。カンカンと耳障りな音を立てて錆び付いた階段を上り、二〇四と書かれたドアの前に立つとポケットから鍵を取り出す。鍵穴に鍵を差し込もうとしたが痛みと疲労で手が震え上手く入らなかった。何度か試すがカチャカチャといたずらにドアノブを叩くばかりで鍵が差せない。

「────っ!」

 持っていた鍵を思い切り床に叩きつけ、それからドアを蹴った。意味のない行為だ。蹴ってもドアが開かないことがわかると倒れるようにドアにもたれかかり、ため息を吐く。泣きそうになった。

 泣くな、泣くな、泣いたって鍵は開かないぞ。

 そう自分に言い聞かせるとドアから離れ、ドアノブをガチャガチャと回してみた。開いた。どうやら出るとき鍵をかけ忘れたようだった。

「…………」

 落ちている鍵を拾い、部屋に入る。靴を脱ぎ、部屋に上がり、そのまま倒れ込んだ。

 すぐにでも眠れそうなぐらい疲れているのに、全身が痛んで眠れなかった。それでも横になっているだけでだいぶ楽になる。

(……ゴミ出さないと)

 視界の端に燃えるゴミの袋が見えた。明日の朝にゴミを出さないといけないが、多分無理だな、と英雄は心の中で独りごちる。あまりにも疲れすぎていてしばらく立ち上がれそうになかった。

「…………」

 痛みで眠れず、疲れで起き上がれず、することもできることもない英雄は眼球だけを動かし部屋を見た。ワンルームの部屋は狭く汚れていたが、物がほとんど置いていないため実際のスペースほど狭さを感じなかった。

 部屋にあるのは机と収納ボックス、ベット、あとは食べ終わった袋麺のゴミぐらいだ。

(ゴミ……)

 収納ボックスの上にトロフィーが三つ置かれていて、それはゴミではなかったが、ゴミのようなものだった。なまじゴミとして扱えない分、ゴミよりも厄介な代物だった。

 高校剣道の全国大会に三年連続で優勝したとき、涙橋英雄は人生のピークを迎えた。

 しかし当時の英雄はそう思わず、そこから更に上へと登っていけると根拠もなく信じていた。全国大会に三年連続で優勝した才能溢れる自分はこの先も成功し、輝き続けるのだと、無邪気に、屈託なく、希望に満ちあふれた未来を思い描いていたのだ。

 人生においてさしたる困難も失敗も挫折もなく生きてきた人間が全国大会三連覇という栄光をつかみ取った結果、英雄はいい気になり、調子に乗り、羽目を外し、そして自滅した。

 スポーツ推薦で入った大学に入学早々コンパで未成年者飲酒、生まれて初めて飲んだ酒に悪酔いし店内で得意の剣道を披露、止めに入った先輩を得意の剣道でなぎ倒し暴力沙汰、通報で駆けつけた警官も得意の剣道でなぎ倒し公務執行妨害で現行犯逮捕。大学は退学になった。

 執行猶予がついたことが幸いだったが、それが最後の幸いになった。息子の愚行に激怒した親から勘当され、当時つきあっていた恋人には振られた後全ての連絡手段でブロックされ、友人だと思っていた連中は全員潮が引くように離れていき誰も残らなかった。

 本当に、誰一人、残りはしなかった。

 彼らにとって価値があったのは〝全国大会三連覇を成し遂げた〟英雄だったのだから、それが〝調子に乗って下手扱いた〟英雄になってしまえば無価値になる。無価値ということはゴミだということだ。普通、ゴミは、捨てる。

 捨てられた英雄はふて腐れた。親に勘当された身なのだからすぐにでも働き口を見つける必要があったがふて腐れた英雄は働きもせず、憂さ晴らしをするかのように日々遊び続けた。最初はゲーセンなどに行っていたが同年代の学生が楽しそうに遊んでいるのを見るのが嫌になり、学生がいないような場所を探した結果パチスロに落ち着いた。

 未成年の身でそういう場所で遊ぶのは違法行為だが警察に補導されることはなかった。〝自分は法を犯しているのに誰にも咎められない〟という事実が英雄にちっぽけな優越感を与え、心の慰めになったこともありますます遊びにのめり込んでいった。

 遊びで勝つこともあったがだいたいは負けていた。負けていたが賭ける額は日毎に増えていった。

 最初は貯金を切り崩して生活していたがすぐに底をついたので今度は借金をして生活費を確保した。未成年なので消費者金融からは借りられなかったので闇金を使った。

 十万借金したとしてもそれを元手にして倍に増やせばすぐに借金を返せる上に手元に十万残るから問題ない、そういう考えで借金を続けたらすぐに返済額が七桁になり、さすがにヤバいと思ってバイトを始めたがあまりにも遅すぎた。

 消費者金融で一〇〇万以上借りた場合、上限金利は十五パーセントだが英雄が借りた闇金の金利は五十パーセント、黙っていても利息で月に四万円以上借金が増えていく計算だ。

 コンビニのバイトでは利息を返すのが精一杯だった。少しでも収入を増やすため夜間のバイトに切り替え、掛け持ちのバイトを増やし、休みなく働き続けた。

 その結果、体を壊して一週間ほど寝込んだ。その間は当然無収入であり、掛け持ちのバイトは解雇され、その月は利息すら払えず借金がまた増えた。

 元本が増えたので利息も増え、支払いは更にきつくなった。しかし一度体を壊してしまった反省から仕事量はセーブせざるを得ず、月の利息を返すのも危うい日々が続いた。

 借金を返す目処も立たないまま働き続け、生活費を切り詰めるためコンビニ弁当はおろか牛丼すら買えず安売りで箱買いした袋麺だけを食べた。仕事がない日は寝るぐらいしかやることがなく、遊びに行く金など何処にもなかった。

 このままではいけないという焦りはあるが、どうすればいいのかわからない。どうしようもないのではないかという不安から必死に目を背けながらの労働の日々。

 そんなみじめな生活を変えてくれたのが監督だった。



「いやー、まさか涙橋さんとこうしてお話できるなんて感動ですよ。何せ大会三連覇を成し遂げた無敵の高校生ですからね。あ、握手してもらってもいいですか?」

 英雄の手を両手で包み込むように握り、大げさにぶんぶんと振り回すように握手をした。

 監督とは英雄が金を借りてる闇金業者を介して出会った。前から英雄のファンだった監督はたまたま知り合いである闇金業者の顧客に英雄がいることを知り、紹介してもらったのだと言っていた。

「去年は私も会場で見てたんですけどね、涙橋さんの小手打ちは生で見ると本当に凄かった。まさに電光石火、あれは高校生のレベルじゃありませんでしたね」

 見え透いたお世辞だとわかっていたが、どれだけ見え透いていても褒められるのは嬉しかった。ここ数ヶ月、人から褒められることのない生活を送っていただけにその効果はてきめんだ。気がつけば英雄は監督に親愛の情を覚え、なんていい人なんだろうと思うまでになっていた。

「それでですね、俺インディーズで動画撮ってるんですけど、是非涙橋さんの試合を撮影させてもらいたいんですよ。もちろん準備やセッティングはこちらで全てしますしギャラもお支払いします」

 監督の話によると有段者同士による試合の動画には需要があるのだという。そこで英雄には監督の用意した選手と試合をしてもらってその試合動画をインディーズレーベルで販売するというのだ。

 ただし、と監督の話は続く。

「剣道の試合なんですけど防具は着用しないでもらいたいんですよ」

 それを聞き英雄はさすがに眉をひそめた。

 防具は体を守るためにある物だ、それを着用せずに試合を行えば当然怪我をする可能性が高くなる。そう、英雄の内心の不安を読み取ったのか監督はわざとらしいほど明るく話を続けた。

「もちろん怪我をしたらその負傷の度合いにかかわらず治療費は全額こちらが負担しますし、見舞金も出ます。具体的に言って十万」

「十万」

 思わずオウム返しに呟いてしまう。

 十万、十万、英雄がバイトで月に稼ぐ額の半分近い金額。

 つまり、仮に怪我をして働けなくなっても半月以内に治せば問題ないのだ。それどころか半月より短い期間で治ればおつりが来る。監督は負傷の度合いにかかわらずと言っていた、軽い怪我ならバイトを休まずに済む上に十万もらえるのだ。

「撮影自体は半日で終わる予定です。ギャラは二万円、もちろん現金一括払い」

 半日で二万円……!

 深夜のコンビニで時給一一〇〇円のバイトをしている英雄が二万円を稼ぐためには十九時間働かなくてはならない。一日十時間働いても二日かかる。それがわずか半日で。二万円が。

(この人はなんていい人なんだろう……!)

 英雄は思わず泣きそうになってしまった。

 確かに防具無しで試合をするのは危険だが、監督は治療費は全額払うと言っているし見舞金もくれるという。それで半日二万の仕事はあまりにも破格すぎた。

 その不自然とも言える条件の良さを英雄は〝監督がいい人だから〟なのだと考えた。こんないい人にここまでしてもらったのだ、応えなければ男がすたる。

「是非、やらせてください!」

 今度は英雄の方から監督の手をがしっと握り、力強くそう言った。

 監督は最後まで笑顔のままだった。



 半日二万の撮影は怪我をすることもなく拍子抜けするほどあっさりと終わった。

「実に良かったよ! 次の機会も頼みますね!」

 監督は満面の笑みで二万円の入った封筒を渡しながらそう言った。あまりにも簡単に撮影が終わってしまったので英雄は少し後ろめたさを感じていたが、二万円の臨時収入の喜びがそれを上回っていた。

 その日、お祝いとして英雄は牛丼屋で夕飯を食べた。久しぶりの肉だった。

(牛丼ってこんなに美味かったんだ……!)

 監督に感謝しながら器を舐めるような勢いで完食した。それが、借金生活になってから初めて感じた幸福だった。

 次の日からはまた節制と労働の日々。袋麺、バイト、バイト、袋麺、バイト。あの日食べた牛丼の味を思い出して心の支えにしようとするが、それがダメだった。牛丼を食べたときの幸福感と袋麺を食べているときのみじめさ、その落差に心が耐えられなくなる。

(こんなに頑張って働いても一日で一万ちょい……あのときは半日で二万だったのに……)

 たいした労力を使わず半日で二万を稼いだ経験もまた英雄の労働意欲を奪っていった。こんなに苦労して働いているのに報われていないのではないか、探せばもっと楽で実入りの良い仕事が見つかるのではないだろうか。バイト中、英雄はずっとそんなことばかりを考えていた。

(次の機会もたのむって言ってた……次の機会っていつだ……)

 社交辞令で言ったのかもしれない監督の言葉を思い出し、すがるように胸の中で何度も繰り返した。次の機会、次の機会。その〝次の機会〟がやって来ればまた半日で二万稼げて牛丼が食べられる。幸せになれる。それだけが希望であるかのように、英雄は〝次の機会〟を待ち続けた。

 二週間後、次の機会がやって来た。

「より緊迫感を出すために今度は木刀でやりたいんですよ」

 監督からそう聞かされたとき、さすがに英雄は顔をしかめた。防具なしで木刀を使った試合をすれば最悪死人が出る。まさに命がけのバイトだ。

 英雄の不安を読み取った監督はそれを打ち払うようなスマイルを浮かべた。

「もちろん安全面に配慮して頭部への攻撃、つまり面打ちは禁止します。当然突きも禁止。だから小手と胴だけの試合になります。これなら当たり所が悪くても骨折程度で済むでしょう?」

 たしかにその条件なら死ぬことはないように思えた。しかし骨折は骨折だ、軽い怪我ではない。その迷いも監督はスマイルで打ち払う。

「前と同じく治療費は全額こちら持ち見舞金十万円。今回はそれに加えて完治までかかった日数×八千円をお支払いしますよ」

 一日八千円……!

 もし怪我をしたら何もしなくても、働いてないのに一日八千円もらえる夢のような生活が送れる。天国か。

 骨折した場合、長くても一ヶ月ほどで完治するはずだ。八千円は英雄が一日に稼ぐバイト代より少ないが見舞金の十万円を差額に充てればむしろおつりが来る。完治までにかかる日数が一ヶ月より短ければもっとだ。

 しかし──

 金の問題よりも恐れの問題があった。木刀で試合をするというのはやはり恐ろしいものだ。ルール上は小手と胴だけといっても何かの間違いがあるかもしれない。命の危険を感じずにはいられなかった。

 英雄のその躊躇いも見透かした監督はただスマイルを浮かべたまま、

「まあ治療費だ何だと言ってるけど、前回みたいに無傷で勝てば関係ない話だよね」

 と、さも〝英雄が無傷で勝つのが当然〟のような言い方をした。

 ──そう、前回は無傷で、かすり傷一つ負わず完勝したのだ。それと同じことをすればいい。

 だがしかし、前回と同じようにいくだろうか? 前回、試合した相手とは勝てたが今度の相手はそれより強いかもしれない、そうなれば無傷の勝利も難しくなるのではないだろうか。

「ああ、言い忘れてたけど対戦相手は前回と同じ人だから」

 監督の言葉で英雄のやる気ゲージがぐんと上がった。前回の相手はたいしたことはなかった、あまりにもたいしたことがなさ過ぎたので試合内容もつまらないものとなり、撮影が中止になるのではないかと心配したほどだ。

 あれなら勝てる、前回やったのと同じことをもう一度やればいいだけだ。獲物が竹刀から木刀になったところで負ける要素は見当たらなかった。

「撮影は前回と同じく半日の予定、それで今回のギャラは十万円ね。もちろん現金一括払い」

 十、万、円。

「やります」

 ほぼノータイムで英雄はそう承諾した。それだけ十万円の魅力は大きかった。



 前回と同じく、拍子抜けするほどあっさりと撮影は終わった。

 英雄は前回と同じく無傷で勝利し、手加減が上手くいったのか相手に怪我をさせることもなかった。

 そして、十万円である。

 今の英雄にとって十万円はでかい。すごくでかい。これだけあれば借金の元本も減らせるし、元本が減れば利息も減るので生活が楽になる。

 まさに監督様々である。英雄は何度も心の中で監督に感謝の言葉を告げた。感謝の言葉だけでは足りず崇め奉るべきなのではないかと真剣に考えた。それくらい英雄にとって監督は有り難い存在となっていた。

 そして、前回と同じくその日の夕飯は牛丼タイムだった。

 肉を食べると幸せになれるというシンプルな事実を英雄は噛みしめていた。肉はいい。美味しい。幸せの味がする。

 二万円で牛丼を一回食べたのだから、十万円では五回食べてもいいだろうと英雄は考えていた。つまりあと四回牛丼タイムが残っているのだ。

 だからといってこれから四食連続で牛丼を食べるというわけではなかった。牛丼は心の支え、希望なのだ。

 これから辛いことがあったとき、心が折れそうになったとき、挫けそうになったときは牛丼を食べよう。牛丼を食べて英気を養い一時の幸せを味わおう。

 辛いときは牛丼を食べてもいい、そう思うだけでこれからまた始まる節制と労働の日々を乗り切っていけるはずだ、きっと。

 そう思って始めた日々であったが四回の牛丼タイムは一週間で使い切ってしまった。

 それから英雄は半ば死んだように生きていた。

 一度牛丼がある生活を送ってしまうともう牛丼がない生活には戻れなかった。牛丼を食べる前は牛丼のない生活を送っていたはずなのに、今ではどうやって生きていたのかとんと思い出せない。

 辛いときは牛丼が食べられることを心の支えにして生きていた。牛丼がなくなった今、どう生きればいいのかわからなかった。

 牛丼を食べたい。それだけを考えて日々の労働にいそしみ、食べ飽きた袋麺をすすり、布団の中で少し泣いた。

 借金を増やしてでも牛丼を食べるべきなのではないだろうか。というか、食べたい。英雄がそこまで思い詰めたころ、監督が次の仕事を持ってきた。

「ギャラは前払いで百万、撮影が終わったらもう百万。合わせて二百万」

 監督はいつもと同じスマイルを浮かべたまま大真面目に言った。

「ただし、今度の撮影は真剣を使ってもらいます」

 英雄は、最初、監督が何を言ってるのかよくわからなかった。



「真剣って言ってもやることはいつもと同じだから大丈夫だよ。ただ使う道具がいつもよりちょっと重くなるだけ。それだけ」

 そんなわけないだろう、という言葉がのど元まで出かかっていたがついぞ口から吐き出されることはなかった。

 その代わり、目の前に置かれた百万円の札束をじっと見ていた。

 百万あれば借金の大部分が返せる。二百万あれば完済した上で当座の生活費も確保できる。だから、その金は喉から手が出るほど欲しい。

 だが、真剣だ。

 監督は今回ルールの説明をしなかった。それはそうだ。真剣を使った試合とはつまり死合いのこと、殺し合いにルールなどあるはずがない。

 いつものように怪我をしたときのこともしゃべっていたがまるで耳に入らなかった。怪我で済むはずがないことはなんとなくわかっていた。死ぬまで、殺すまでやるのだと。

「やってくれるよね?」

 そう、監督がスマイルに聞いてきた。

 やりません、そう一言告げれば済むはずだった。無理です、できません、断りの言葉がいくつも口の中をぐるぐると回っているのにどの言葉も口から出てこない。舌が痺れたように動かずただ息を吐くばかり。

 真剣の殺し合い。監督の目的は最初からこれだったのだ。最初は竹刀で安心させ、次は木刀に挑戦、そして最後に真剣。最初から真剣でやらせようとしても断られるのは目に見えているので少しずつ慣らしていったのだ。竹刀が大丈夫だったから木刀も大丈夫だろう、木刀も大丈夫だったから真剣も大丈夫だろう、と思えるように。

 事実、英雄も頭の片隅では大丈夫かもしれない、と考えている。対戦相手は今までと同じ。今までかすり傷の一つも負わずに勝ってきたのだから、真剣になったからといって負けるとは思えなかった。

 そんな簡単な話ではない、と頭の中の冷静な部分が言っていた。勝つか負けるかの話ではないのだ、生きるか死ぬか、殺すか殺されるかの話なのだ。そこに道理も理屈も何もない。

 だから、断るべきだ。それはわかっている。普通に考えて受ける話ではない。

 そう英雄が考えているのがわかったからか、監督は笑顔で、優しく、諭すように、脅すように話しかける。

「今までのと合わせて三本勝負という形でパッケージにする予定なんですよ。もちろん今回のがトリだから特別気合い入れて撮影しますよ」

 三本セットにするということは今回の話を断れば今までの二本も使えなくなると言外に言っていた。そうわかっていたが、念のため英雄は訊いてみた。

「あの……もし断ったら、今までに撮影したやつってどうなるんですか?」

「そりゃ使えなくなっちゃうよ。だからそうなったら悪いんだけど今まで払ったギャラ、全額返してね」

「────」

 監督が無茶苦茶なことを言っていることはわかっていた。普通に考えてギャラを返せだなんておかしいし、法的にも認められないだろう。けれど相手は真剣で殺し合いをさせあまつさええそれを撮影して販売しようとするような人間だ。普通の考えも、法律も、通用するとは思えなかった。

 となれば、断れば今までのギャラ十二万を返さなくてはいけなくなるが英雄にそんな金は何処にもない。また闇金で借金するぐらいしか払う方法がなかった。

 断れば十二万の借金。

 受ければ百万の現金。

 また、目の前に置かれた札束をじっと見つめる。

 百万あれば好きなだけ牛丼が食べられるだろう。それどころかコンビニでハンバーグ弁当だって買える。さらに贅沢をしてファミレスで一番高いステーキをドリンクバーとセットで頼んで食後にデザートを食べることだってできる。

(ドリンクバー……!)

 ジュースをいくらでも飲むことができるあれだ。借金生活になってから水とバイト先で出されるお茶しか飲んでいない英雄にとって楽園のようなシステムだった。

 それが手に入るかもしれない。

 でも──

「……犯罪ですよね?」

 英雄の素朴な疑問に監督はただ、

「バレないから大丈夫だよ」

 とだけ答えた。

 バレないのか。そうか、なら大丈夫か。

 そういう話なのだろうか?

 英雄はもうなんだかよくわからなくなっていた。現実味の感じられない提案と考えすぎてよくわからなくなってきた自分の頭の中。酷い疲労を覚えた英雄は考えるのを止めた。考えるのではなく、自分の心が感じたままに答えを出そうとした。

 自分の心は今、何を思っているのか。

 お金が欲しい。

「……やります」

 躊躇いながらも承諾し、契約書にサインをして、すぐに撮影のセッティングがされた。

 廃工場で、真剣を使った、殺し合い。

 その結果としての土下座で命乞いだった。


///


 英雄はドアを叩く音で目が覚めた。ノックというほど控えめではなくもっと乱雑な音なので叩くと表現するのが実に正しい。

 まだ痛みの残る体を動かし起き上がる。帰ったときのまま着替えずに眠ってしまったことを思い出した。

「英雄くん、いるんでしょ? ちょっと開けてよ」

 監督の声だった。

 英雄は反射的に居留守を使うことを考えたが、きっとそれで事態は好転しない、きっと悪化する。おそらく、時間をかければかけるほど酷くなる。

 嫌だけど、本当に嫌だけど覚悟を決めて立ち上がった。痛みと疲労に気持ちの問題も加わった体は死ぬほど重く、思うようには動いてくれなかったがそれでも亀のような歩みでドアの前まで辿り着き、鍵を開けた。

「おはよう英雄くん、上がらせてもらうよ」

 そう言うと英雄が承諾する暇も与えず部屋に上がり込み、机の前に座った。仕方がないので英雄も監督と向かい合うように座る。

「昨日は悪かったねー。俺、カッとなっちゃうと自分でも止められなくなっちゃうタチでさ。これ、せめてもの気持ち。もらっといてよ」

 そう言って監督は英雄に万札を一枚握らせた。

 怖かった。

 監督が見返りもなく金を渡す人間ではないことにはもうさすがに気づいていた。ここに来てまた金を渡すということは、また英雄に何かをやらせる気なのだ。

「でね、俺も一晩考えたんだけどやっぱりいきなり真剣で試合をするのは無理があったと思うんだよね。なんていうかな、もうちょっと段階を踏んでいかないとダメだったんだよ」

 持ってきたバックから刀を──昨日、英雄が使った刀だ──取り出し、机の上に置く。

「英雄くん、まずは辻斬りから始めよう」

「はい?」

 間の抜けた英雄の返答。監督は丁寧に説明を続ける。

「辻斬りは辻斬りだよ、往来で人を斬るやつ。昔からある文化だろ」

「江戸時代に横行したって話は聞いたことありますけど」

「正確には江戸初期な。とにかくその辻斬りをしようって話だよ。真剣の試合が難易度ハードだとすれば辻斬りはベリーイージーだ。何せ相手は丸腰だからね、一方的に斬り殺すだけでいい。猿でもできる」

 英雄の前に刀をずいっと押し出し、英雄の目をぐいっと睨め付けた。

「まずは辻斬りで。殺すのに慣れたらまた改めて真剣の試合を組もう。ね?」

「────」

 何処から説明すれば目の前の人はわかってくれるのか、英雄は途方に暮れた。

 多分、英雄と監督では根本的に何かが違う。決定的に違う。常識、価値観、感性、人生観、そういったものを共有できない相手にどう言葉を投げかければこちらのことをわかってもらえるのだろうか。

 人を殺すなんて無理です。

 伝えたいのは、ただそれだけのことなのに。

「でも、辻斬りって犯罪ですよね」

 考えた結果、英雄は回りくどいやり方をすることにした。思いつく限りの論を並べる。

「往来で人を殺したりしたら警察に捕まっちゃいますし、刑務所に入ったら撮影もできなくなっちゃいますよね? それは問題あると思うんですけど」

「大丈夫、心配しないで」

 監督は懐からスマホを取り出すとアプリを起動させ、それを英雄に見せた。

 スマホの画面に映っているのはこの街の地図のようだった。地図自体はどうということのない普通の地図だが、区域毎に赤、黄、青の色で塗り分けられている。

「……なんですかこれ?」

 英雄の素朴な質問に監督は快く答えた。

「辻斬りマップだよ」

 スマホを操作し、地図上にデータを表示させる。

「これが人の通行量を表すデータ、こっちは監視カメラの設置箇所とカバー範囲、警察の巡回ルートは赤い罫線で表示されてるから特に注意してね。このデータを元に人に見られる危険性が高い場所は赤、ほどほどの場所は黄色、逆にほとんど人がいないような場所は青で表示されてるんだ」

「…………」

「この青い区画でなら人を殺しても誰にも見つからない」

 だから殺しても大丈夫、安心して。

 そう続いた監督の言葉にどうにか反論すべく、英雄は必死に言葉を探した。

「いや、あの、人通りが少ないと言っても完全にないわけじゃありませんし、やっぱり見つかる可能性はあると思うんですよね。それに死体が見つかれば警察も捜査しますし、今は科学捜査も発展してますし、この国の警察は優秀ですからやっぱり捕まっちゃうんじゃないかなーと」

「大丈夫、死体は見つからない」

 そう言って画面をスワイプするとボタンが出てきた。ボタンにはメイリオフォントでシンプルに〝call〟とだけ書かれている。

「このボタンをタップすれば現在地に死体があることがこのアプリの登録会員にシェアされる。そうなればあとは死体を欲しがってる連中が勝手に死体を片付けてくれるってわけだ」

「死体を…欲しがる……? そんな人いるんですか?」

「死体の使い道なんていくらでもあるんだよ」

 笑顔のまま監督がそう言ったので、それ以上聞かないことにした。

「とにかく、死体が見つからなければ事件にはならない、警察も動かない。仮に目撃者がいたとしても死体の痕跡もなければ警察もまともに相手なんかしないさ」

 監督はスマホを英雄に握らせ、その上から英雄の手を握った。

「それじゃあ辻斬りがんばってね」



 監督から借りたスマホを見ながら英雄は高架下の物陰に隠れていた。

 今自分のいる区画はセーフゾーン、本日の警察の巡回ルートにも入っていないことを何度も確認する。

 辻斬りがんばってねと言われた以上、がんばらないわけにはいかなかった。

 ただ、がんばりたくなかった。絶対にがんばりたくなかった。

 でも、それでも、どれだけがんばりたくなくても、がんばらないといけないのだ。何故ならがんばらないと何をされるかわからないから。

 英雄は紙袋から刀を取り出し、抱きかかえた。がんばらないと、がんばらないと、そう口の中で何度も呟く。がんばれる、がんばれる、そう自分に言い聞かせるように繰り返した。

 物陰で刀を抱えながらぶつぶつと呟き続けて二時間が経過した頃、初めての通行人が来た。

 チャラい格好をした若い男だ。英雄のことには気づいていないらしく、イヤホンで音楽を聴きながらぶらぶらと歩いている。

(あれはダメだ)

 一瞬で英雄はそう判断していた。

(格好はチャラいけど体格がいい、多分何かスポーツをやってる。筋力と体力がありそうでしかも俺より身長が高い。それに金髪だから強そうだ、やめておこう)

 今回の辻斬りはイージーに人を斬り殺すのが目的なのだから、強そうな相手はベストな選択ではない。よって今回はスルーするのが正しい判断だ。

 イヤホンで音楽を聴いているのだから簡単に不意打ちできそうだとか、サンダルを履いているからとっさに激しい運動はできなさそうだといった英雄にとって有利な点もいくつかあったが、それには気づかない振りをした。

 そうやって金髪の男をスルーすると、英雄は大きく息を吐いた。人を殺すかもしれないと考えただけで心臓がばくばくいっていた。手汗が酷く、呼吸も上手くできず、気を抜くと涙も出て来た。なんだか悲しい気持ちになったので膝を抱えてうずくまると、足ががくがくと震えていることに気づいた。

 こんなコンディションで辻斬りをするのは無理だろう。

 なので、その日は、帰った。

 次の日もがんばって高架下に来た。

(あれはリュックを背負ってるから背後からの奇襲がしづらい、やめておこう)

(あれはスポーツシューズを履いてるから多分スポーツをしてるんだろう、やめておこう)

(あのお年寄りは杖をついている。杖は武器にもなるからな、やめておこう)

(あの子は多分未成年だろう、若い子は体力があって何をするかわからない、やめておこう)

(あれは太りすぎだ、脂肪に阻まれ上手く斬れないかもしれない、やめておこう)

(あれはピンヒールを履いてる、ピンヒールは武器としても使えるからな、やめておこう)

(あれは……その……やめておこう)

 そうやって通りがかった人をことごとくスルーしたが、斬る気がないわけではない。英雄は英雄なりの真面目さで辻斬りに挑んでいた。挑んだ結果がスルーなだけで。

 だが、このままスルーを続けていてもどうしようもないことを英雄はわかっていた。

 具体的に言って、監督が怖い。

 辻斬りをしろと言われてからもう何日も経っているのだ、このままスルーし続ければ監督の逆鱗に触れるのは目に見えている。そうなったら何をされるか想像もしたくない。

 だから英雄は覚悟を決め、次に通りがかった人を斬ろうと自分に言い聞かせた。

 絶対に、斬る。

 通りがかったのはドラムバックを持った女子高生だった。

 進学校の制服を着た美しい少女だ。自分がスカウトマンなら間違いなく名刺を渡しモデルかアイドルにスカウトしていただろう。長い黒髪にワンポイントで赤いヘアピンをつけているそれは黒後家蜘蛛のようで心惹かれた。

 少女の美貌に見惚れてしまったが、英雄は気を取り直し刀を握った。次に通りがかった人を斬ると決めていたのだから斬らなくては。それに相手は線の細い少女だ、ターゲットとしてはイージーに見える。

 だが、と英雄は思う。

 

 今までのようなとってつけた言い訳ではなく、もっと心の深いところで英雄はそう感じていた。一目見ただけで毒蛇とわかるように、本能の力が英雄に警告を発している。

 やめようか。

 英雄が今まで通りスルーしようとしたそのとき、少女がこちらを向いた。

「────っ!?」

 すぐ物陰に隠れたため見られなかったはずだ。そういう反射神経には自信がある。

 しかし、英雄は見てしまった。少女の顔、瞳、眼球の輝きを。

 遠目ではあったが、あれは間違いなく強者の眼だ。心の底からの強さを持った人間の輝きだ。

 ああいう眼をした人間が危険であることを英雄は知っていた。例えあの少女がどれだけか弱そうに見えたとしても、武器らしい武器を持たず無防備に歩いていたとしても、目隠しをして手足を拘束され神経毒を打たれ全身の自由を奪われていようとも、手を出してはいけない。

 

 あの眼をした人間はそういう人種なのだ。

 英雄は物陰に隠れながら震えていた。普通に考えれば見つかっていないはずだが、そんな道理など無視してくるおそれがあった。だから必死に息を殺し、気配を消した。

 そうやってどれだけの時間潜んでいたのか、やがて英雄は気配がなくなっていることに気づいて物陰から顔を出した。そこにはもう、誰もいなかった。

 英雄は大きく息を吐き、時計を見る。もう何時間も隠れ続けていた気になっていたが、実際は二十秒ほどしか経っていなかった。

 まだ震える足でよろよろと立ち上がり、少女のことを思い出す。あの眼のことを心に浮かべるだけで動悸が激しくなり吐きそうになった。

 まるで恋のようだ、と思った。

 恋なのかもしれない、と思った。



 少女の一件のあと、英雄は外に出る勇気すらなくし安アパートに引きこもっていた。辻斬りに行かなくてはと思いつつも少女のことを思い出すと怖くて外に出ることもできない。

 そうやって数日を過ごした後、監督がまた家に来た。

(殺される)

 そう、英雄は思った。

 監督から言われていた辻斬りをいつまでも果たせず、それどころか最近は外にすら出ていないのだからそう考えても致し方ない。しかし英雄の予想に反して監督は上機嫌だった。

「いやー、まさかオーガを斬り殺すとはね。君はやればできるとは思ってたけど、ここまでやるとはさすがに予想外だよ。さすが全国大会三連覇した人はそこらの人斬りとは格が違うね」

 監督のべた褒めトークに英雄はきょとんとした顔で聞き返す。

「あの……オーガ……?」

「ああ、名前知らなかったの? 君が斬り殺した鬼の面をつけたジャージの男、ここらじゃ〝オーガ〟って名前で通っててね、格好と言動はふざけたやつだけど剣の腕はかなりのものだったから懸賞金もかけられてたんだよ」

 そう言って監督が見せたスマホの画面には鬼の面をつけたジャージ姿の男の画像が表示されていたが、当然見たことがない男だった。

「そういえばアプリのコール機能を使わなかったみたいだけど、初めてだったから忘れてたのかな? まあでも、あそこは人斬りスポットだから回収人もよく巡回してるからね。今回も人目につく前に死体は二体とも回収されたから警察沙汰になる心配はないよ」

「二体……?」

「だからオーガと、あとは全裸の上にコートだけ羽織ってた変態親父の死体だよ。オーガに比べたら変態親父はゴミみたいなもんだからね、斬ったの忘れてた?」

 忘れるも何も、誰も斬ってないんです。

 そう、喉元まで出かかった言葉を英雄はぐっと呑み込んだ。

 もし正直に誰も斬っていないことを言えば何日も辻斬りに出かけては誰も斬らずに帰ったこと、それどころかここ数日は外にも出ず引きこもっていたことがばれてしまう。

 そうなれば確実に監督の怒りを買うことになる。

 それは、恐ろしかった。

 言って怒りを買うよりも、黙って上機嫌のままでいてもらうという安易なルートを英雄は選んだ。それは何の解決にもなっておらず、まず間違いなく状況を悪化させることに薄々気づいていながらも、目の前の恐怖からその場しのぎの選択をしてしまう。

 だから自分は駄目なのだ、と英雄は改めて思い知る。クズみたいな選択をするからクズのような生き方になってしまう。それがわかっていてもやめられないことが何よりものクズである証左なのだけれど。

「じゃあ、そういうことで今夜撮影しよう」

 ぱん、と手を叩き、監督が上機嫌なままそう言った。話を聞いていなかった英雄はただ間抜けに「え?」と聞き返した。

「だから、練習としての辻斬りが終わったんだから早速本番撮ろうって話だよ。折角だから英雄くんが初めて人を斬った高架下で撮影しようか、うんそれがいいな。じゃあ夜までまだ時間があることだし腹ごしらえでもしようか、英雄くんの人斬り記念に今日は俺がおごるよ」

 そう言って監督はがしっと英雄の肩を掴み、引き寄せた。英雄は体を離そうとしたが監督の力は驚くほど強く、ぴくりとも動かせなかった。

 逃げられないのだと、英雄は悟った。



 深夜の高架下で英雄は深く静かに後悔をしていた。

 何についての後悔かはわからない。ただ後悔することはいくらでもあった。

 ここに来るまでに何度か逃げようとしたが、監督にがっつりマークされていたのでそんな隙は何処にもなかった。逃げられず、後悔しながら、二度目の斬り殺し撮影が始まろうとしていた。

「じゃあ、よろしくお願いしまーす」

 そう挨拶したのは英雄がこれから斬り合う相手である金髪ピアスの男──チーター向井林だ。

 本名ではなく芸名だろう、何処か飄々とした態度は業界人のようにも見える。見た目に反して剣術の嗜みがあるらしく剣道で対戦したときはそこそこの技量があった。

 そう、そこそこだ。そこそこの強さなので全国大会三連覇をした英雄からすればたいして苦戦する相手ではなく、実際試合では苦もなく勝った。実力を隠している様子もなかったのでその時の英雄は完全に格下だと判断していた。

 それが真剣を持つとがらりと変わる。

 刀を抜いたその瞬間からチーターの眼は人斬りのそれになる。確実に何人か殺しているのだろう。本物だけが持つを離れていても肌で感じた。

 前回はその気配に圧されたこともあっての死合い開始即土下座だった。しかし今回はもう土下座で済まないことを英雄はわかっていた。土下座だろうが何だろうがもう決して許されない。決して。決して。

「そろそろ撮影いこうかー」

 監督のその言葉を遮るように、英雄が軽く手を上げた。

「すいません、場所変わってもらってもいいですか?」

 街灯を指さし、言う。

「ここだと灯りがまぶしいので立ち位置を逆にしてもらえるとありがたいんですけど」

「俺はどっちだっていいけど、チーターくんはどう?」

 話を振られたチーターは軽く頷き了承した。

「別にいいっすよ」

 すぐに英雄とチーターは互いの場所を交換するように移動する。今までは街灯を目にする場所にいた英雄が街灯を背にする場所に移動した形だ。

 唾を飲み、チーターを見る。チーターは街灯を大して気にしていないようだった。

「じゃあ撮影始めまーす……カット!」

 監督の言葉で撮影が始まったが死合いはまだ始まらない。死合い前の画も撮影しておきたいという監督の意向だ。

 英雄は大きく息を吸い、固く目を瞑り、一息で刀を抜いた。真剣だ。人を殺せる凶器だ。

 鞘を捨て、無言で構える。見ればチーターも刀を構えていた。構え自体は可もなく不可もなくだが、発する気配が尋常ではなく荒々しい。飢えた羆を前にしているようだ。

「────」

 手汗で刀を握る手がすべりそうになる。気配に圧されないようぐっと腹に力を入れた。

「では、死合い開始!」

 監督のそのかけ声と同時──

 英雄は刀を捨て、全力で逃げ出した。

 ごめんなさい無理です。人を殺すなんて、真剣で斬り合うなんて、どうやっても無理なんですマジごめんなさい。

 英雄は胸の内でそう必死に謝罪しながら全力疾走した。

 端から斬り合いをする気などなく、逃げることしか考えていなかった。チーターと場所を変わってもらったのもこちらの方が大通りに近く逃げやすいからだ。逃げた後どうするかは考えていない。ただこの場から逃げ出したかった。それだけだ。

 その逃げる背中に、衝撃。

「────っ!?」

 前のめりに倒れ、転がり、全身を打った。背骨が折れたかと思うぐらい痛かった。背骨とは言わなくとも骨にヒビぐらいは入っていてもおかしくない。というか入ってるに違いない。それくらい痛い。すごく痛い。

「まあ、そうなるわな」

 うめき声を上げながらのたうつ英雄を見下ろし、監督は持っていた暴徒鎮圧用銃ライオットガンを足下に置くとカメラを構え直し撮影を再開した。

「大丈夫、ゴム弾だから死なないよ。それに銃殺なんて映像としては面白くないんだ、やっぱり斬殺じゃないとね」

 カツ、カツ、と足音を立ててチーターが英雄に近づいてくる。人情味を全く感じさせない人斬りの眼で。刀を持って。

「ま、待って──」

 痛みに息を詰まらせながら英雄は必死に言葉を並べる。

「俺、戦う気なんてありません。痛くて斬り合いとか無理です。そんな、無抵抗の俺を殺すだけの映像に需要なんてないって、前に言ってましたよね?」

 懇願の目で監督を見上げるが、監督はただ笑顔で言った。

「安心してくれ、君はオーガを殺したことで箔がついたんだ。〝オーガ殺し〟の殺害映像なら少しは需要があるし、それに懸賞金も出る」

「俺、オーガとかいう人は殺してないんです! それは誰か別の人がやったことで──」

「うん、そうだと思った」

 監督は意にも介さず撮影を続ける。

「でもオーガ殺しが名乗り出てないのは事実なんだ。だからその事実を利用して、真実がなんだろうと、君がオーガ殺しだということにする。俺、そういうの上手いからさ。安心して任せてくれよ」

「そんな──」

 カツ、と足音が止まる。見ればチーターが刀の間合いにまで来ていた。

「あっ」

 感情も、言葉もなかった。ただ放心したようにチーターを見上げ、失禁した。

 死ぬのだとわかった。

 どうしようもなく、死ぬのだとわかった。

(立て──)

 命の危機を前にして、本能が、そう警告する。

(立ち上がれ。抗え。生きるために──戦え!)

 英雄の生存本能がそう告げていた。今は戦うべきときなのだと。今戦わなければ生き残れないのだと。

 手は震えている。足も震えている。意思とは関係なく涙と鼻水があふれている。それでも、英雄はありったけの気力を振り絞り、地面に両手をついた。

「すいませんでしたぁ!!」

 土下座である。

 地べたに正座をし、額を地面にこすりつける。本気の土下座だ。

 謝っても、土下座をしても、許されないことはわかっていた。けれど英雄にはこれしかできなかった。

(やっとわかった)

 ここまで追い詰められてやっと、英雄は何故自分が人を斬れないのか、人を殺せないのか、理解した。

(俺がクズだからだ)

 戦わなくてはいけないときに戦う勇気も持てず、許されるわけがないとわかっているのに一縷の望みに賭けて恥も外聞もなく土下座をするようなクズだから人を殺せないのだ。

 人を殺すということは、その人が生きる時間を奪うということだ。自分が生きるために他人の命を奪う行為だ。クズである自分には他人の命を奪ってまで生きる価値なんてない。だから殺す資格もない。殺せない。

 人を殺せるのは、殺していいのは、自分のために躊躇いなく人を殺せる強さを持った人間だけなのだ。他人の命を奪ってまで生きる価値が自分にはあると無条件に信じられる人間だけが人を殺せる。

 そう、それはあのときに見た少女のような強さだ。あのときに見たあの瞳、あの眼球、角膜、虹彩、水晶体──黒後家蜘蛛のようなあの少女が持つ鋭角な強さだけが人を殺せる。

「あっ」

 びっくりしたような、信じられないものを見たような、そんな呟きが頭上から聞こえた。

 英雄がおそるおそる顔を上げてみると、チーターの胸から刃が生えていた。

「────」

 ゆっくりと刃が胸の中に戻っていき──背後から刃が引き抜かれるとチーターは朽ち木のように倒れ、二度と動かない。死んでいた。

 死体を見て、それからチーターを死体にした人間を見た。見上げる視線の先に少女の姿がある。

 長い黒髪に赤いヘアピンをつけた黒後家蜘蛛のような──英雄が一目で心を射貫かれた──如月二月がそこにいた。

「一度に三人を斬るのは初めての挑戦です」

 二月は血振りをしながらどこか恍惚とした表情で誰にともなく呟く。

「上手く、できるかしら」

 そう言って刀を振り上げ──

「────っ!」

 不意打ち気味に横から撃ち込まれた監督の斬撃をとっさに刀で受け止めた。

 刃と刃をかち合わせ、監督は今まで見たこともないようなスマイルを浮かべる。

「成程、君が本物のオーガ殺しってわけか。いいね、すごくいい! 撮影素材として君は最高だよ!」

 監督は一度刃を引くと、すぐに最小の動作で撃ち込んできた。太刀筋は二月の正面、捻りも工夫もなくただ斬りかかった、というような一撃。

 二月はそれを刀で弾き、容易く防いだ。

「────」

 防がれても監督は次の一撃を放つ。それもまた防がれるが、次。次も防がれてもまた次。次々に絶え間なく斬撃を放ち続ける。

 間断なく続く攻撃に二月は防戦一方となる。斬撃を防ぐ以外の行動をとらせる隙を監督が与えなかったからだ。

 二人の攻防を見ていた英雄は監督の狙いに気づいた。

(力で押し切る気だ)

 男女では膂力に差があるのに加え、監督は常人よりはるかに力が強い。だからその斬撃の重さもかなりのものだ。

 刀で攻撃を防いでもその衝撃までは消せない。衝撃は刃から刀を持つ手に伝わり、少しずつダメージを与え握力を奪っていく。

 衝撃で手が痺れて握力がなくなればもう刀を持っていられない。そうなれば──

 ガキン、と甲高い音を立てて、二月の手から刀が打ち飛ばされた。

 監督は攻撃の手を止め、二月に刃を突きつける。

「安心しろ、殺しはしない。まず動けなくする。それから撮影を再開して、なぶって、なぶって、なぶり続ける。君みたいな子をなぶる映像はすごく需要がある。だからだけで、絶対に

 凄惨なスマイルで監督がそう宣言した。

(駄目だ──!)

 英雄が、手の平に爪を食い込ませ、強く手を握った。

 二月が殺されようとしていることを、死のうとしていることを、英雄は許せなかった。

 何故そう思うのか自分でもよくわからなかった。ただ、死んで欲しくなかった。自分の目の前で彼女が殺されようとしているのを見過ごすことなどできなかった。

 自分が殺されようとしているときにも湧かなかった勇気を、今、振り絞る。

「ああああああああっ!!」

 人殺しを恐れる自分の心を黙らせるように、喉が切れるほどの声量で叫んだ。

 転がっていたチーターの刀を掴み、立ち上がる。監督に向かって駆け出す。

 構えも何もない。ただ刀を持って走っているだけだ。その行動は狂気ともいえるが、それが英雄の精一杯だった。

 泣きながら、二月を救うため、英雄は監督に向かって刀を振り回した。

「うるせえよ」

 監督に蹴り飛ばされ、英雄はあっさりと地面に転がった。腹を蹴られたため胃液と一緒にここに来る前に食べた牛丼を吐き戻す。

「まだ──」

 立ち上がろうとした英雄を再度蹴り飛ばす。蹴り飛ばす。踵で踏む。踏む。何度も踏みつける。

「ううっ……」

 痛みで動けなくなった英雄はさめざめと泣いた。

 そんな英雄にとどめを刺す気もないのか、監督は早々と二月の方に向き直る。

「余計な邪魔が入ったが、じゃあ──」

 二月の持つアーミーナイフが監督の喉に突き刺さった。

 ナイフを捻る。

 傷口を抉った。

「かはっ──」

 喉を空気が通る音がして、監督が倒れた。ぴくぴくと体が痙攣しているが、もう助からないだろう。助けようとする者もここにはいない。

「────」

 やはり彼女は強者だったのだ、と英雄は思った。

 監督の強打に押し負けて刀を弾き飛ばされたのではなかった、手が痺れて刀が持てなくなった振りをして油断を誘ったのだ。その証拠に二月は何の問題もなくアーミーナイフを握っている。

 英雄が余計なことをしなくても──本当に余計なことだった──二月は問題なく監督を殺していただろう。それが強者の在り方だ。

 その強者である二月は弾き飛ばされた自分の刀を拾うと二、三度試し振りをし、それから英雄の方へと近づく。

 二月は最初に「一度に三人を斬るのは初めての挑戦です」と言っていた。三人とはチーター、監督、そして英雄のことだろう。三人を斬るという目標が未だ変わっていないことは二月の目を見ればわかった。

 自分を斬り殺すため歩みを進める二月を前に英雄は身を正し、どうすべきかを考えた。殺されるしかないのはわかっていたが、その前に自分はどうすべきかを考えたのだが、答えは出なかった。

 間合いに入り、二月が足を止める。ゆっくりと刀を振り上げる。

 具体的な形を持った死を前にして、その瀬戸際、英雄は自分が本当にしたいこと、心からの願望に気づいた。

 強くなりたい。

 ただ、強くなりたい。

 目の前の強く美しい少女のような強さを手に入れたい。

 その想いを抱いた英雄は考えるよりも先に両手を地面につき、土下座していた。

「一目見たその瞬間から、ずっと好きでした!」

 愛の告白である。

 さすがの二月も戸惑ったのか、刀を振り上げたまま手を止め怪訝な目で英雄を見ていた。

「だから弟子にして下さい!」

 弟子入り希望である。

〝だから〟の意味がわからないが、言葉に込められた熱意から英雄が本気であることは伝わってきた。二月は振り上げていた刀を下ろし、首を傾げ、英雄を全力で蹴り飛ばした。

「ぐほぉっ!?」

 鉛入りの安全靴で蹴られ、英雄はごろごろと転がった。今の衝撃でライオットガンで撃たれた背中の痛みもぶり返した。監督に蹴られたところも痛い。すごく痛い。

 軽く痙攣しながらのたうち回る英雄を眺めていた二月は何か考えていたようだったが、やがて考えがまとまったのか英雄の眉間に切っ先を突きつけた。

「あなた、運転免許証は持っていますか?」

「……ペーパードライバーですけど普通免許を持ってます」

 突然の二月の質問に英雄は正直に答えた。質問は一つだけでは終わらず、二月はすぐ次の質問に移る。

「前科はありますか?」

「……執行猶予中です」

「実家暮らしですか?」

「いえ、一人暮らしです」

「では実家の家族とはどの程度の頻度で連絡を取り合っていますか?」

「……絶縁されているのでゼロです」

「友達は?」

「……それもゼロです」

「それは良いことですね」

 満足そうに頷くと二月は刀を納め、身をかがめて英雄に目線を合わせた。

「初めまして、私は如月二月と言います。あなたは?」

「……涙橋英雄です」

「では涙橋さん、師弟関係成立ということでこれからよろしくお願いしますね」

 そう言って英雄の手を取り、ゆるく握手をする。

 初めてふれたその手の柔らかな感触に──

 英雄は、ドキドキした。

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辻斬り女と土下座男 坂入 @sakairi_s

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