ぼかろぶ! ~学園物語編~
おだた
─ 1
青空にピンクの花びらが舞う、桜の木の下。校門には、真新しい制服に身を包んだ新年生が、歩みぬける。
真新しい制服に身を包み、真新しい白のソックスを履き、真新しい靴で踵を鳴らし、真新しいバッグに手を添える。興奮の息を漏らしながら、周りを、好奇の目で見回す。見るもの、すべてが真新しく、新鮮に見える新入生たちだが、もっとも真新しく、新鮮なのが、実は自分たちであることに、気がついていない。
そんな新入生の中にひとり、やや小柄な女の子がひとりいた。
藤田
バッグには、結歌の心意気がぶら下がっている。
水色の長い髪をツインテールに結び、クリクリ瞳はやや吊り目。グレーのノースリーブに黒いミニスカートには、髪と同じ色の縁取りが施され、同じ色のネクタイを結んでいる。
初音ミクの人形。
新入学でいきなり、バッグにアクセサリーを付けて来るのはまずいかと思ったが、初対面はインパクトが大事。これがあたしの嫁よ! と、結歌は胸をはる。
結歌のクラスは、1年A組。ドアを開けると、背の高さから、髪の長さ、丸顔、角張った顔、メガネ、リボン、様々な女子と男子が教室を埋めていた。教室の中は、不安と緊張と、それよりも大きな好奇心で、破裂しそうに感じた。
「みんな、おはよう!」
思わず、声に出してしまった。
クスクスと、小さく笑う声が響く。おっと、これはさすがに、マズったか。頬をポリポリと搔きながら、結歌は自分の席に着く。バッグを机に置くと。小さな初音ミクが揺れて、クラスのみんなに手を振った。
程なく、教室に担任が入ってきた。まだ、二十歳代ぐらいの女の先生だ。黒板に名前を書く。
「
「めいちゃん!」
言った瞬間、しまった! と思った。しかし、既に遅かった。
その瞬間、クラス中がドッと沸いた。
顔をちょっと、赤くし。
「私をトトロの登場人物で呼んだのは誰?」
しまった、怒られる。と思いながら、恐る恐る結歌は立つ。
「自己紹介をどうぞ」
「えっと、あの。藤田結歌です。先生、ちょっと誤解があるようなので、説明させてもらっていいですか?」
「どうぞ」
「あたしの言った『めいちゃん』は、トトロに登場する草壁メイのことではなく、ボカロの
「ボカロ? メイコ?」
「はい」
「それは、何?」
「MEIKOは、日本語版として最初に、クリプトン・フューチャー・メディアから、二〇〇四年十一月五日に発売された
「はい、もう結構です」
「え…、あ、はい」
「続いて、出席番号順に自己紹介をしてもらおうかな」
結歌が座るより前に、出席番号一番の男子が立ち、自己紹介を始めた。結歌は、もっとボカロについて語りたかったが、話が途中で切れてしまって、すごく悔しい。
ホームルームが終わる。
「ねえ」
「はい?」
ひとりの女子が近づいてくる。
「あなたも初音ミク、好きなんだ」
「はい! じゃあ、あなたも?」
胸元から、イヤーヘッドホンのコードを垂らし、スマートフォンが出てくる。画面を指先で一撫ですると、結歌の知ってる楽曲が、ずらりと表示された。
「ボカロ曲!」
「そう」
女子は、ニコッと笑う。
「下田
「こ、こちらこそよろしく」
思わず手を制服で拭い、手をさしだした。美琴は笑顔で手をにぎった。
桜の花びら舞う木の下、笑顔で語るふたりの女子がいる。
「でも、びっくりした。いきなり、めいちゃん! って叫ぶんだもん」
「はは…。だって、名前がそのまんまだったから、思わず…」
「咲音メイコ、でしょ」
「そう! MEIKOの後付けキャラ」
「2ちゃんねる発の」
「そうそう。MEIKO、十六歳デビューって奴」
「八十年代のアイドルって感じだよね」
「それはたぶん、考えた人がバブル世代だから」
「咲音メイコの楽曲も、昔のアニソンが多いし」
「それは咲音メイコっていうキャラクターに合わせたからじゃない?」
「そう言われれば、そうか」
「MEIKOの楽曲で括れば、良い曲、いっぱいあるよ」
「たとえば?」
「たとえば…」
突然、ふたりの前に立ちはだかる大きな影。
え? っと思って顔をあげると、背の高い、それでいて白くて細い、黒髪ロングの女子が立っていた。
見たこともない人だが、学校の制服を着ている。ふたりはとりあえずあいさつをした。
「こ、こんにちは」
女子は何も言わない。腰にまで届く長い黒髪は、顔にまで垂れて、表情をうかがい知ることができない。
ふたりの頭上に『?』が五つぐらい浮かんだ時、女子は言った。
「可愛い」
体格とは真逆の、か細い声だ。
「なんでしょう」
バッと、いきなり結歌のバッグの前にしゃがみこんだ。
「あのっ!? なんでしょう?」
「このミク、可愛いね」
女子は、結歌がバッグにぶら下げていた、初音ミクの人形に興味を引かれたらしい。
「はい?」
「どこで買ったの?」
「いえ。これはCDの特典です」
「私、そのCD知らない」
「確か、ボカロ・ライブ・チューンから発売された、ボカロ・エクストラ。だったかと…」
「ふーん」
「まだ、お店に行けば売ってるんじゃないんですか? たぶん…」
女子はふらりと立ちあがった。改めてみると、ホントに大きい。百八十センチ越えてるんじゃないのだろうか。
「ボカロ、好きなんだ?」
「はい…」
「私も好きなんだ」
ポケットから、MP3プレーヤーを出し、ヘッドホンの左右を、結歌と美琴の耳に掛けた。すると、聞き慣れた初音ミクの曲が流れてきた。
結歌と美琴は、顔を見あわせ、クスリと笑った。
「先輩ですか?」
「一年生…。違った、今日から二年生」
「あたしたち、今日、入学したばかりの新入生です。先輩! どうぞ、よろしくお願いします」
ふたりは、頭を下げた。
「よろしくお願いします」
先輩も頭を下げた。
「いや、先輩なんですから、頭なんか下げないでください」
「ボカロ好きに貴賤無し。私は、浅川
「あたしは、藤田結歌っていいます」
「私は、下田美琴です」
「小さくて髪の短いのが結歌で、胸が大きくて髪の長いのが美琴。了解した」
「「え?」」
「ふたりはこれからどこへ行くの?」
「えっと」
ふたりは、顔を見あわせた。
「特に、決めてませんが」
「カラオケ」
「え?」
「カラオケ行こう」
「カラオケ、ですか?」
「ボカロ三昧」
「はあ」
そんな訳で、笛子の案内でカラオケへ。
部屋に入るなり、笛子はパネルを操作し、ボカロ曲を入れ始めた。すぐに、最初の曲が掛かる。イントロが流れるも、笛子はモニターの正面に立ったままマイクをにぎらない。
不思議に思った美琴が、マイクをさしだす。
「笛子先輩。曲、始まってますよ」
「歌って」
「え?」
「美琴。歌って」
「あのう、先輩が入れたんですよね?」
「私は踊り専門」
ますます、訳がわからない。
曲は、ボカロファンなら誰もが知っている『一万本桜』。この曲のイントロは短い。
「早く歌って!」
「はい!」
思わず、美琴は歌いだした。
それと同時に、笛子が曲に合わせて踊りだす。
この時、結歌は驚愕する。
初めて聴く美琴の歌声は、透きとおっていて、力強く、音程を微塵にも外さない。そして、女子には歌いにくい低いキーを、外すことなく、歌の力強さを腹の底から弾き出す。まるで、一万本の桜が、一気に芽吹くようだ。上手い。
初めて見る笛子先輩の踊りも、とても素人とは思えない、切れ切れのダンスだ。この曲に『踊ってみた』は確か無い。たぶん、笛子先輩のオリジナルなのだろう。手の振り、腰の切れ、つま先から太ももまで、重力を感じさせない。空を蹴る足に、なにかを必死につかもうとする手。捻る細い体に、黒く長い髪がなびく。アップテンポの曲に遅れをとることなく、指先ひとつから、黒髪の一本にいたるまで、流麗だ。
音楽が終わった時、結歌はぽかんと口を開けて、身動きひとつできなかった。
「どうしたの?」
美琴の声で、我に返った。
「ふたりとも凄い」
「そう? ありがとう。実はちょっと自信あったんだよね。ボカロは小学生の頃から歌ってたから」
「笛子先輩も、踊りすっごく良かったです!」
「歌は苦手。でも、踊るのは好き」
「練習してるんですか?」
「少しだけ」
「そういう結歌はどうなの?」
「え?」
バツが悪そうに、頬をポリポリと搔いた。
「なんか歌いなよ」
「えっと、それじゃあ、これ」
パネルを操作して曲を入力する。流れてきたのは、『初音ミクの消滅』。
パソコンで合成された、人工の歌声であることをフル活用し、人間では到底、歌えないような早口のメロディーが人気の曲。カラオケにとってこの曲は、歌うというよりもむしろ、早口言葉をいかに間違えず言い切ることができるか? であって、上手に歌うことは二の次だ。
曲が終わった時、一回もかまなかった早口に、結歌は、ドヤ! と恰好をつけた。
「うまいね」
「一回もかまずに歌いきったのは、初めて聴いたかも」
「ホント!? この曲、大好きなんだよね~」
毎日、喉をからして練習したんだなと、ふたりは思った。
*
「いやー、歌った、歌った」
「美琴、歌いすぎ」
「私も、踊れない曲があった」
「どうもすいません。自分で言うのもなんだけど、マイク持ったら離さない性(た)質(ち)で」
「笛子先輩、すいません。美琴とは、今日、会ったばかりで、まだ友達ともいえない仲ですが、代わってお詫びします」
「そんなことない。楽しかった」
「ちょっと、結歌。なんてこと言うの」
「だって、ホントのことじゃん」
「そりゃ、ちょっとひとりで歌いすぎたとは思うけど…。つーか、なんで、今日、会ったばかりで、いきなり名前で呼び捨て」
「なにをいまさら」
「ちなみに私、四月生まれ。あと何日かで、十六歳になります」
「あ、あたしは…。三月生まれ。魚座」
「なんだ、結歌ちゃんとは、ほとんど一年違うんじゃん。どうりでおかしいと思ったのよね。高一にしちゃ、ちいさいなって。やっぱり、私のことは、さん付で呼んでくれないと」
「ちいさいって言うな。これでも毎年、ちょっとずつ伸びてるんだ」
「あれ? 私、背のことを言ったんじゃないんだけど」
「え?」
美琴の目線が、自分の胸元に注がれていることに気がつく。
「こっちこそ、絶賛、成長中だ!」
「ふたりとも、ケンカはダメ」
「「すいません」」
「今日から三人は友達。だから、名前で呼び捨て。おk?」
「はい! 笛子先輩」
「笛子でいい」
「そうはいきません。笛子先輩は、今日から二年生に進級されたんですよね?」
「そう」
「だったら、新任の先輩として、後輩に威厳を持って接していただかないと」
「新任の先輩…。そういうもの?」
「そういうものです」
「じゃあ、笛子先輩でもいい」
「あんたは結歌」
「そういう、あんたは美琴」
「改めてよろしくね、ほとんど一年下の、結歌ちゃん」
「こちらこそよろしく。ほとんど一年上の、美琴おばさん」
ガルル! とにらみあうふたり。
「おちかづきの印として、家に招待する」
「えっ! 本当ですか?」
「いいんですか? いきなり行って、ご迷惑じゃありませんか?」
「かまわない。家はいつでも千客万来」
「はあ…」
「じゃ、おっじゃましまーす!」
「ちょっと、結歌。少しは遠慮しなよ」
「遠慮はいらない。家はたくさんの人が来るから」
「それ、千客万来と同じ意味ですよね。つまり、大事なことなので二回言いました的な奴ですか?」
「結歌。いい加減にしろ」
「そう。大事なことだから二回言った」
「え?」
「だってさ、美琴」
結歌は、ふたりの背中を押した。
「さあ、笛子先輩の家にGO!」
笛子の家は、学校から歩いて十五分ほどのところにあった。比較的、大きめの家が並ぶ、閑静な住宅街に、やはり大きめの、三階建ての家がある。
お店のようなドアに、『浅川ダンス・スクール』と書かれている。なるほど、千客万来とは、これを意味していたのかと、結歌と美琴は納得した。
それにしても大きな玄関だなあと、結歌は感激している。ドアのガラス越しに、学校にあるような、大きな下駄箱が見えた。中に入っているのは、トウシューズだろうか。
「こっち」
笛子は、家の脇を通って裏手に回った。そこには、一般的な玄関があった。笛子が鍵を開けて、ドアを開く。
「どうぞ」
「「おじゃまします」」
こっちの玄関が、家族専用となっているらしい。下駄箱は家庭用の大きさで、そろえられているスリッパの柄と数も、普通の家っぽい。
「スリッパ、これ使って」
「「ありがとうございます」」
玄関をあがるとすぐ、右手にドアがあり『ダンススタジオ』と書かれている。
ドア以外には、二階に上がる玄関しかなく、ふたりは二階に案内された。
二階に、トイレやバスルーム、キッチンやリビングがあり、家族はこのフロアを中心に生活しているのだろう。さらに三階へ上がり、やっと、笛子の部屋に案内された。
ドアが空き、部屋の中を一瞥して、開いた口がふさがらなくなったのは、結歌だけではなく、美琴も同じようだ。
部屋中が初音ミクだらけなのだ。そこは、初音ミクのフィギア、ポスター、枕カバー、カーテン、マット、カレンダーなどで埋めつくされている。
「入って」
初音ミクファンのふたりも、さすがにためらう、見事なまでのオタクぶり。
「びくりした?」
「はい!」
「…」
正直、美琴は引いている。自分もボカロ好きを自認している。部屋に、初音ミクグッズも、何個か飾ってある。しかし、これは…。
「ひゃっほう!」
喜々として、結歌はベッドに跳び載り、抱き枕を抱く。
「これ、イベント限定品ですよねっ?」
「そう」
「これ、欲しかったんだよなぁ」
頬をスリスリして、ぱっと立ちあがる。
「このポスター。ブルーレイの予約特典ですよね?」
「そう」
「いいなあ」
ぴょんとベッドを跳び降り、並んでいるフィギアを覗きこむ。
「これ、クレーンゲームの景品ですよね?」
「そう」
「くっそぉ。あたしが三千円かけても取れなかった奴だ。いくらでゲットできました?」
「確か、二、三回くらい」
「やっぱり! ダンスができるんだから、遠近感も凄いんだよねぇ」
混沌としたオタク部屋を、結歌は優雅に楽しんでいる。一方で、美琴は依然、呆然としたままだ。
「美琴?」
「はいっ!」
「無理だったら、無理って言っていい」
「いえ!」
「ホント?」
「はい」
ちょっと、冷や汗が。
「そう。じゃあ、飲み物、持ってくるから、結歌と待ってて」
「はい」
笛子は部屋を出て行った。
「ねえ! 美琴、見なよ。これなんか、オークションで高値が付いた、ねんどろ初回版だよ」
「へえ、そう」
「あれ? 美琴、あんまり楽しそうじゃないね」
「いや、なんか、圧倒された、っていうか」
「そっか。美琴はこういうの、好きじゃない人?」
「いや、そういう訳じゃないけど、これだけあると、さすがにね」
「ふ~ん。そうか」
美琴の顔を、下から覗きこむようにして近づく。
「初めて彼氏の部屋に来たら、想像以上にオタクだった」
「え?」
「って顔してる」
「ちょ! 笛子先輩は彼氏じゃないでしょ」
「おんなじだよ。でもね」
部屋の中を、クルクルとまわって、一個の小さな人形を手に取る。
「これ見て」
「え?」
近づいて、おどろいた。
「これ、結歌がバッグに付けてるのと」
「そう。一緒」
おどけて、結歌は自分のバッグを手に取った。
「入学式の日に、これを付けてきたあたし。咲音メイコを知っていた美琴。この人形に気がついて、声を掛けてきた笛子先輩。みんなボカロ大好き。好きにレベルの差はあるけど、こうして知り合った訳だし」
「…」
「とはいえ、知り合ったのはついさっき。でも、笛子先輩は、あたし達をこの部屋に招待してくれた。あたしの持ってた人形に、話まであわせて。その意味がわからない、もう時期十六歳じゃないよね?」
「そんなこと、言われなくてもわかってるわよ」
「だったら、そんな引きつった顔しない。ま、ここが本当に彼氏の部屋だったとしたら、切れていいかもだけど」
「結歌でも切れるの?」
「ま・さ・か。むしろ愛が燃えあがる」
「うん、そう言うと思った」
お盆にジュースの入ったグラスが三つと、お菓子の入った皿を載せ、笛子が入ってくる。
「先輩! すいません。お手伝いもせず」
「みんな、お客様。おもてなし」
「私、お盆持ちます」
「ありがとう」
テーブルに、ジュースとお菓子が広がる。
*
お菓子を食べながら、美琴は言った。
「笛子先輩の家は、ダンススクールなんですね」
「そう」
「ジャンルはなんですか? クラシック・バレエ? モダン・バレエ? それともジャス・ダンス?」
「モダン・バレエがメイン。たまに、クラシック。ジャズやタンゴ、ブレイクもやる」
「すごい! オールマイティ」
「父と母は、バレエの劇団で知り合った。踊りなら、なんでも好き。今は、創作ダンス状態」
「そっか。じゃあ、カラオケボックスで踊ったのも」
「ごちゃ混ぜにした我流」
「だからあんなに、踊りが上手かったんですね」
「私は、美琴の歌声にしびれた」
「えっ! 私?」
「うん」
「あたしも感動したよう。一万本桜みたいに、力強い曲を、音圧で負けずに歌ってたし。他の曲も、音ずれしなかったし。なにより、声が清んでる」
「うん。感動した」
「そんなことないよ」
「笛子先輩なら『踊ってみた』。美琴なら『歌ってみた』。が、創れるなあ」
「人前に顔をさらすのは嫌だ」
「私も」
「そんなこと言わず、やってみませんか?」
「だって、恥ずかしいし」
「うん、恥ずかしい」
「顔を隠せばいいじゃないですか」
「近親者には必ずバレる。特に、一番バレたくない、クラスメイト」
「じゃあ、いっそ、顔出しで」
「「断る」」
う~ん。ふたりとも、埋もれさせておくには、惜しい逸材なんだけどなあ。スマイル動画でボカロ曲の『歌ってみた』とか、『踊ってみた』とか、MMDとかを見てきた、あたしが思うんだから、間違いない。
「そいえば、笛子先輩。今日は家に、誰もいないんですか?」
「父と母は、劇の仕事」
「兄弟は?」
「兄弟はいない。私は、ひとりっ子」
「ダンス・スクールは、お休みなんですか?」
「スクールは、母が仕事の合間を縫ってやってる」
「今日はやるんですか?」
「今日はお休み。基本的に、土日しかやらない」
「じゃあ、今はスクールに使ってるスタジオ、空いてるんですよね?」
「うん」
結歌の目が、キランと光る。
*
ダンススタジオに通じているドアが開く。
足下から天井まで、全身が映る鏡張りの壁には、腰の位置に手すりが張り巡らされている。天井にはライトが埋め込まれ、スタジオの片隅には、音響機器が設置してある。
「先輩の踊ってみた…。じゃなかった。ダンスを見たいんです」
「人に見せられるようなものじゃない」
「でも、さっきはカラ館で、踊ってたじゃないですか」
「そ、それは…」
「知り合ったばかりの、あたしたちの親睦を深めるために、ですよね」
笛子は顔を紅く染める。
「美琴の歌声もすばらしかった。ここなら、カラ館よりずっと音響が良い」
「だから、歌わないって」
「カラ館では、熱唱してたのに」
「あれは、カラオケだから」
「カラオケで歌うのと、スタジオで歌うのと、なんの違いがあるという」
「あるよ」
「その心は?」
「えっと、つまり、その…」
「とりあえず、マイクをにぎって、曲が流れれば、人は歌うものなのです」
結歌は、音響機器の前に立った。
「笛子先輩。ボカロの曲は入ってますよね?」
「もちろん」
結歌は、笛子から音響機器の扱いについて簡単に説明を受けると、ボカロの曲を流し、マイクを美琴に手渡した。
「ちょ、ちょっと」
「知ってる曲でしょう」
「そりゃ、そうだけど」
「じゃ、歌ってみよう!」
曲は『ハッピーシンセサイズ』。巡音ルカとGUMI、ふたりのボカロが歌う、デュエットソングだが、ひとりで歌ってもOK。アップテンポだが、音域が大きく振れることはないので、歌いやすい曲だ。そして、この曲にはもうひとつの側面がある。動画サイトには、実に多くの『踊ってみた』が投稿されている。振り付けも可愛く、そんなに難しくないので、練習すれば誰でも踊れるようになる。
曲に、つられるかのように笛子が踊り始める。
「ほら、歌い出し始まったよ」
渋っていた美琴が歌い出す。声を出せば、一点の濁りの無い、清流のように清んで、スタジオに響いた。
踊りも、定番の振り付けに、笛子流のアレンジを加え、止まる位置を、美琴と絡めて、時には手を取り、腰を絡め、脚間にステップを踏み込む。美琴も知らない踊りではないでの、笛子に合わせて手を振り、ステップを踏む。曲の流れる四分弱が、あっという間に終わった。
パチパチと、結歌はふたりに拍手を送った。
「ふたりとも最高!」
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