第3話「蠍の碑」
青年が白い通路を走っていく、一目散に白衣をはためかせながら。
細身で、日頃からあまり運動をするタチでもなく、また運動を必要とされる職業でもないため、喘ぎ喘ぎ息を切らしながら、よろよろとそれでも目的の研究室を目指して足を進める。
やっと、辿りついた目的地の扉の横に設置された、むせながら指紋認証システムにすがりつくように右手を触れさせる。
『マルコ研究員、認証しました』
無機質かつ、りんとした機械音声のすぐあと、扉は横滑りに音もなく開く。
それを開くと、転がり込むようにマルコは研究室の中に駆け込んだ。
「
叫ぶようにマルコは自らの尊敬する師であり、上司の名を呼ぶ。
「聞こえているよ、マルコ。そんなに叫ばなくても」
その呼びかけに、博士ドクターはチェロのような落ち着いた声で答えながら、青白い顔をのぞかせる。
「どうした、そんな大慌てで。息も切らしているじゃないか、思索を主とする研究者にそれはいただけない」
手に持った情報端末で、何事か操作しながら博士はどこかのんびりとした口調で、助手であり研究員のマルコをたしなめた。
「どうしたもなにもないですよ! 博士、何故あの情操教育プログラムを勝手に改変リライトしたんですか、もうお偉方はカンカンですよ」
叫ぶようにマルコは言いながらぐるぐると部屋の中を歩き回る。
「不完全だったから、それ以外の理由はないよ」
相変わらず端末で、何かをしながら博士は答える。
「だけど、カンカンか。どおりでさっきから端末がうるさいわけだ。なかなかどうしてお偉方は、こういうことになると手が早い」
のんびりと話す博士から、痺れを切らしたマルコは端末をひったくる。
「わかっているなら、どうにかしましょうよ! このままだと首が飛びますよ!」
自らが職を失うかもしれないという危機にも、全く動じる様子のない博士にマルコの方が取り乱していた。
この博士は、自分の独断だと言い切って責任を全て背負ってしまうのは目に見えていた。
長年、助手として研究者としてブルカニロ博士という、『統合学』の大家であり尊敬する師をこのまま見捨てる気は毛頭なかった。
信仰も科学も心理学も物理学も天文学も、すべての学問が同一に統合された『統合学』第一人者であり第一級の研究者である博士が、そうそう職を失することはないにしろ、元々独自の方法で研究を進める博士に敵は多い。
全てが統合されてもなお、嫉妬や功名心で動く学会にとって、名誉でも金でも転がされない博士は邪魔以外の何者でもなかった。
「教育省直々の情操教育目的のヴァーチャルリアリティプログラムですよ? どれだけの人間と時間とお金が動いてると思ってるんですか……。
息継ぎもせず、早口にまくし立てるマルコを意に介さず、研究室の中核を担うコンソールに歩み寄り、前に据えられた椅子に腰を下ろす。
「不必要だと感じたから、削除をしただけだよ。わたくしに似せた案内役なんて、子供に道徳を教えるシュミレーションにふさわしくないからね。わたくしほど、非社会的な人間もいない」
その言葉にマルコはがっくりと肩を落とす。
天才と呼ばれる人間は、往々にして社会生活を営むのに向いていないと言われるが、確かにブルカニロ博士に関して言えばそれは見事に当てはまった。
確かに立派な人物であるが、世渡り上手かと言われれば、その真逆であるとしか言い得ない。
「まあ、それは仮にも博士は世界的に見ても生ける伝説みたいなものですし……マスコットキャラクターのように扱われるのも仕方がないですよ。気持ちはわかりますけど。それでも、もう完成品から今回を入れて四回も改変してるんですよ? いい加減にしないと怒られますって」
コンソールを起動させながら、博士は椅子を反転させマルコに向き直った。
「あくまでも……情操教育は子供の自主性に任せるべきだ、というのがわたくしの考えだからね。改変は妥当な処置、だよ」
そして、また椅子を反転させてコンソールの操作に戻る博士に、諦め顔のマルコは横に立ちながら水晶画面ディスプレイを覗く。
「言ってるそばから完成品のAIをいじるのやめてください。これは、……反面教師キャラクターの苛め加害者ですよね? コイツもお偉方から評判悪いですよ。子供の教育に悪いって」
もはや何を言っても無駄とわかりつつも、マルコは進言する。
「嫌われ者? そうだろうね、わたくしのように嫌われているだろうね。お偉方からは」
操作の手を止め、博士は自嘲気味に言った。
「彼は、必要だよ。その愚かさを示すために子供たちに必要なんだ。それに彼を登場させることは、わたくしのささやかな我儘でもある」
その不明瞭な言い方に、マルコは首をひねった。
博士は、自分の理論に自信を持ち、またそれに真摯に向き合う人物だが私情を交えることは極めて少ない。マルコが知っている限り、皆無といってもいい。
「博士にとっても……」
マルコの言葉に博士は深く首肯する。
「そう、わたくしは蠍だからね」
よく博士は、自らを蠍とよく形容した。そして、その引用元である神話も。
「博士、あの神話好きですね。本当」
何回聞いたかわからない訓話を思い描きながらマルコは言った。
鼬に食われることを良しとせず、逃げた挙句に後悔しながら、天に祈り死者の道しるべとなることを選び、永遠に空でも燃え続けることを選んだ毒虫。哀れな蠍。
それに応えるように、博士はコンソールを操作して蠍座の図を水晶画面に映し出す。
「蠍の火は、後悔の火だ。取り返しのつかなくなったことを、自分の体を燃やすことで取り返せると思い込んだ、とんでもない大馬鹿者の自己満足な自傷の焔。彼は生き残ってしまったんだ。大切な友人を自分の過失で溺れ死なせた、道化だよ。今更どれだけ社会貢献をしようとも、自分の過ちを子供たちに見せつけても彼は帰ってこないのに」
「……博士?」
その言葉に、マルコは違和感を覚えた。
まるで、蠍とプログラムに登場するキャラクターを混同するかの物言いと、誰かを卑下するような、そんな話し方だった。
「お疲れなのでは? あとは仰ってくれれば自分がやりますが」
心配するマルコに博士は、どこか空虚な笑いを青白い顔に浮かばせる。
「いや、大丈夫だよ。もう終わった」
ゆっくりと大儀そうに腰を上げる、十分に休息をとっていないのか、その足取りは重い。
「博士、もしかして寝ないで作業してたんですか? どうしてこのプログラムに、そこまでいれあげるのか、僕にはわかりません」
コンソールの設置された机に、寄りかかるように立って博士はマルコに顔を向けた。
年齢の割に、皺が刻まれ髪にも白髪が混じっているせいか、実年齢よりも大分老けて見える上に、整っている顔立ちのはずなのにくっきりと浮いた疲労の色と青白い顔のおかげで白衣の幽霊にも見える。
黒い瞳は、まるで石炭袋のように黒々とマルコを見返していた。
「これは……わたくしの記憶でありわたくしが見ることのなかった物語だからだよ。子供たちに説教役は要らない、自分で考えて答えを出すんだ。愚かな蠍が作った子供たちに贈るささやかなメッセージさ」
博士は、ゆっくりと乾いた唇を動かしてそう述べた。
それが告解だということに、マルコは呆気にとられながらも気がついてしまった。
水晶画面の中に写されたままの蠍は、焔に包まれて燃える様をリフレインしている、その青い焔は、冷たい高温の色をしていた。
「さあ、わたくしは少し失礼するよ。お偉方のお小言を聞きに行かなくてはならないからね」
呆然とするマルコの手から携帯端末を受け取り、溜まりに溜まった呼び出しメッセージ表示させたまま白衣のポケットに入れると、自らの助手に背を向けて扉に歩み寄る。
「博士」
マルコは反射的に彼に呼びかける。このまま見送ることは何故か、今生の別れのような気がしたから。
「ブルカニロ博士。あなたは蠍じゃない。あなたを必要とする人はいくらでもいます。だから、だからどうか」
懇願するように、マルコは言葉を紡ぐ。
きっと博士は自分の人間性さえ、火にくべてしまうだろう。たった一つの罪のために。
「ご自愛くださいますように」
助手の言葉を聞いて、博士は振り返らなかった。
「ああ、わかっているよ。心配をかけてすまない、今日はもう遅いから君も早く帰りなさい」
ただ、いつものように静かなチェロにも似た声で答えた。
いつもどおり過ぎて、自分の言葉が届いたかマルコには判然としなかった。
「さようなら、マルコ君」
「ええ、ザネリ・ブルカニロ博士。また、明日」
指紋認証パネルに手を置いていた博士は、そこでつと体ごと助手に振り返った。
その言葉が意外だったように、目を丸くしていたがすぐに微笑んだ。
張り付いたような表情ではなく、悪戯のバレた子供のような微笑みで。
「おやすみ、また明日」
ゆっくりとした足取りで、開いた扉から博士は出ていき扉は閉じた。
マルコが向き直った水晶画面上の蠍は、星空のスクリーンセーバーに塗りつぶされるばかりであった。
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