第三章 僕と先生のこと(4)
***
時生はそのまま春日井宅で風呂を借り、着るものがなかったので家主の浴衣を借りた。やはり相当大きいが、うまく端折れば問題ないだろう。足の怪我は幸い少しだけすりむいただけだったので、酒で消毒してから細く切った包帯を巻いてもらった。
確かに春日井の家は荻野が言った通り、一週間前とは比べ物にならないくらいに散らかっていた。あちこちに丸めた紙や仮綴じしてある本が散乱しており、正直見るに堪えない。そもそも座る場所すらなかったので、時生は適当に紙を避けて畳の上に腰かけた。
春日井も後に茶を淹れて戻って来たのだが、急須から注いでみるとなんだか異様に濃い緑の液体が入っていた。仕方がないので、二度手間だと思いつつも別の急須に白湯を入れてきた。
いつも食卓に使う卓袱台の上のものも部屋の端に寄せ、その上に湯呑と急須を置いた。
春日井はしばらく口を閉ざしていた。時生も同様である。あの夜から一度も会っていないのだ。互いにどこから話を進めればいいのか、全く分からないでいた。部屋の隅に置いてある時計の針が動く音が、その時間の経過を知らせている。
「夜光魚がね」
そうしていると、春日井が唐突に口を開いた。「あれから一度も光らないんだ」
「そうですか」
時生は茶を薄めながら、ゆっくりと返事する。「先生。その、夜光魚の件ですが――」
「君」
春日井が時生の言葉を遮る。「君は、どうしてわたしのところへ来たのだ」
その問いに驚いたのは時生だった。言っていることの意味が分からなかったことが半分、言葉尻の鋭さが半分、といったところだろう。戸惑いを隠し切れずに曖昧に問い質すと、春日井はふっと顔を背け、やたら歯切れの悪い語調で続ける。ごにょごにょと余計な濁音が混ざり、正直彼らしくないと思う。
「わたしが君を門下生にしたのはね、君がそれだけ優秀だからだ。君はわたしが構ってやれる程度の、それ相応のものを持っている。もしかしたら、それ以上かもしれない。勿論皐月さんの弟だということもあったけれど、それは単に君が信用できる人物だという裏付けでしかない。わたしは君を大変好ましく思っている。前に君は、す、好きだといったが、あれはまさか、嘘だったんじゃなかろうな」
そう言いつつも、春日井は時生と目をなかなか合わせようとしない。手元で温んでゆく茶の水面をじっと見つめているだけだ。
時生はしばらく黙ったまま、同じように己の手元を見つめていた。そんなに好きではない女手が微かに震えている。自分でも分かる、動揺しているのだ。あの夜突きつけられた眼光を唐突に思い出す。あれが覚悟の色だというのなら。
俯いたままの時生を目の前にして、当の春日井は内心しまったと思っていた。別に彼を困らせようと思った訳ではないのだ。彼がそのように望むのならばこのままこの場所から離れてもいいと思うし、こちらには彼を引き止めるだけの力はない。だから最後に聞いておきたかった。彼がなぜ、自分のところに来たのか。彼ほどの頭ならば、そのまま大学に進むことだってできた。彼が望むなら経済的援助だっていくらでもするつもりだった。しかし彼はそうしなかった。その理由が知りたかった。そうでなければ、期待、してしまうではないか。
ついこの間までは彼に好かれていると自信を持って言えたのに、今は分からなくなった。どんなに好きだと表現しても、きっと駄目なのだ。駄目でもいいから、と言えない自分が情けない。
葛藤を繰り広げている春日井の目の前で、俯いたままで時生は思う。
僕が先生の元へ通うと決めたのは。
言ってしまってもいいのだろうか。本当に。それを言ってしまったら最後、姉を裏切ることになるのではないか。それがとても、怖かった。覚悟を――覚悟を、決めなくてはならない。
「僕が……、」
ようやく口を突いて出た言葉が、微かに震えていた。
「僕が先生のところに来たのは」
先生が、好きだから、なのに。
その一言が喉につっかえてしまい、出てくることはなかった。
代わりに出てきたのは涙だ。別に泣きたい訳じゃないのに、どうしてだろう。こぼれ落ちる涙は止まることを知らない。視界が滲んでは、ぼろりと熱いものがこぼれ落ちてゆく。どうして言葉にならないのだ。こういうときに、すぐに出てくる言葉が欲しい。全てを犠牲にしても、己を貫ける自分が欲しい。
所詮自分は弱いのだ。時生はそれを今、はっきりと自覚してしまった。
「……時生」
春日井が洩らしたその声は、戸の外で強く叩きつける雨粒の音で見事にかき消されている。ぼやける視界の中微かに見える唇の動きがそう伝えてくるのだ。
「君はわたしが嫌いなのかね?」
違う、と時生は首を横に振る。そう、違うのだ。それだけははっきりと言える。好きなのだ。好きすぎて苦しくて、どうすればいいか分からない。どうすればいいのか、その方法が知りたい。
答えを知っているのだろう、この男は。春日井恭助は。
「それじゃあ、どうして泣くんだい? わたしは、君を単に困らせているだけではないか」
「僕はっ、」
しゃくりあげる息をぐっと飲み込み、ようやくここまで言うことができた。
「僕は、先生と一緒にいたいだけです!」
目を剥いているのは春日井である。彼のその獰猛さがにじみ出た鳶色の瞳に臆されたと言ってもよい。今、時生は春日井や荻野と同じように、覚悟を孕んだ目をしていた。
「姉様を見ていてもいいから、僕も見てください……!」
我儘でしかない。理解していたけれど、それが確かにずうっと思っていたこと。それは、この一言に凝縮されていた。
まるで子供のようだった。
例えばあの夜光魚のように、言葉を交わし合い擦れてゆく言葉が青く光る様を見て満足すればよかった。どうして我慢できなかったのだろう。
あの青だけで、僕は満足できなかったのか――
「……ああ、君は本当に」
馬鹿だね、と春日井は言った。「そしてわたしは大馬鹿だった」
頭の上に感じる掌の感触。おそるおそる顔を上げると、春日井は優しく目を細めていたのだった。この表情はとてもよく知っている。七年前、初めて出会った時もこのひとは、こうやって笑いかけていたのだった。あの頃から変わらない優しさがそこにある。
「君だけを見ていたつもりだったのだが、どうやらそうではなかったらしい」
だから君を傷つけてしまったのだね、と、優しい声は紡ぐ。
時生はこの時、雨の音をひどく恨めしいと感じていた。どうしてこんなにも、聞きたい声を妨げてしまうのか。屋根を叩きつける大粒の雨があたりの音をかき消して――
せんせい、と時生は呼ぶ。この声は聞こえているだろうか。
春日井はゆっくりと頷き、そしてきちんと聞こえるようにと彼の耳元に顔を近づけた。そして囁くのだ。
「わたしを好きでいてくれるのなら――」
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