2. 凶刃の夜会 -A Cup of Tea with Artificial Sweetener- (3)

 フィルは街の中央部、一軒の屋敷の前に立っていた。屋敷と言ってもそれほどの大きさではない。以前、通りがかったブリューゲル家の屋敷とは比べものにならない。門柱には鴉の翼の意匠が黒く彫り込まれている。黒鴉の部族の若長の屋敷だった。

 緊張しながらフィルは敷地の中に立ち入った。フォクツについて来てくれるように頼んだのだが、自分は呼ばれていないから、とすげなく断られた。学院生はローブが正装として着られることを教えてくれたことだけは有り難かった。

 ノッカーを手にとって重厚なドアを叩くと乾いた音が響いた。程なくしてドアが開き、使用人姿の女性が姿を見せる。彼女は深々とお辞儀をして用件を尋ねてきた。その洗練された所作に緊張しながらフィルは名乗って用向きを告げた。

「お待ちしておりました」

 彼女はにっこりと微笑んで屋敷の中にフィルを招き入れた。フィルはおずおずと屋敷の中に入る。こんなに美しい女性を見たのは初めての経験だった。

 年の頃は二十過ぎくらいだろうか。卵形の輪郭で、少し垂れ目の大きな目が印象的だった。薄く紅を差した唇はふっくらと笑みを形作り、鼻梁は真っ直ぐに通っていた。緩く三つ編みにした髪を後ろ頭の低い位置で巻いていて、薔薇のコサージュをつけている様に見えた。身長が高く、均整の取れた肉体だった。何より、一つ一つの動作が臈長けていて気品がある。

 玄関から屋敷に入るとホールに出た。館の主人の趣味なのかあまり豪奢な印象はない。調度品はシンプルなデザインのものが多く洗練された印象がある。

 女性の案内に従って廊下を進み一室に通された。応接室らしくソファと背の低いテーブルが置かれている。

「おかけになってお待ち下さい」

 案内してくれた女性がそう薦めてくる。フィルはそれに従ってソファに腰かけた。彼女はそれを確認するとまた礼をして出ていった。

 フィルは天井を仰いだ。ソファのクッションは柔らかくフィルの臀部を包み込んでいる。どう考えても自分が居て良いような場所ではない。乳白色の天井を見ながら一つ大きな息を吐く。その天井にライトの魔法が付与されたマジックアイテムが埋まっていることに気が付いてさらに気が重くなった。

 扉が開く音に、フィルは姿勢を正して立ち上がった。扉の向こうには黒髪の男性が柔らかな表情を浮かべて立っていた。中肉中背で黒い髪を短く刈っている。その後ろから先ほどの女性も手にトレイを持って入ってきた。

「お初にお目にかかります。フィラルド・セイバーヘーゲンです。今日はご招待に預かりまして……」

「ああ。ロイク・デルディヨクだ。来てくれてありがとう」

 若長が手で薦めたのに従ってフィルはまたソファに腰かけた。女性がテーブルの上にカップとポットを置いていく。若長より先に自分の前にカップが置かれた。彼女は手早くサービスを終えると、一礼して部屋を出て行った。

「まずは学院への入学おめでとう」

「ありがとうございます」

「どうだね、学院は」

「そうですね……」フィルは一瞬考えた。「まだ慣れないことばかりですが、とても楽しいですし、勉強になります」

「そうか。それは良かった」

 若長はそう言って小さく笑った。それからカップから一口啜った。真似するようにフィルもカップを手に取った。琥珀色の液体が小さく波打っている。懐かしい薫りがした。

「君はたしか、トラムの出身だったね?」

「はい。生まれてからずっと村で過ごしていました」

「では、街には少し驚いたかな」

「そうですね……。人がたくさんいてびっくりしました。他の部族の人がこんなにいる環境なんて初めてですし……」

 フィルが正直に答えるとロイクはくすくすと笑った。しかし、嫌味の無い笑い方だった。

 想像していたよりも、若長の対応がフレンドリーだったので、フィルは少し安心していた。立場のある相手だけに、もっと堅苦しい席になると思っていたのだ。けれど最初から和やかに話は進んでいる。

「まあそれもいずれ当たり前になるよ。黒鴉の部族しかいない環境の方が、本来的には不自然なんだしね」

「それはそうですけど……」

「生活の方はどうだい? 慣れないことも多いだろうけど、何か困ったりはしていないかい?」

「いえ、それは大丈夫です。学院の寮に住んでいるので食事も困りませんし。それと同郷の先輩が何でも教えてくれるのでとても助かっています」

「ああ、なるほど。フォクツ君だね。私も何度か会ったことがある」

 フィルは少し驚いた。フォクツに同行をお願いしたときの口ぶりからは、二人に面識があるとは到底思えなかった。それくらい、彼の態度は素っ気なかったのだ。

「ところで、君はアリステア導師の研究室に配属されたと聞いたが」

「はい。素晴らしい方です」

 フィルは短く答えた。予想していた問いだった。

「うん。彼女については私も聞き及んでいる。学院始まって以来、いや有史以来の天才だと評判だ」

 ロイクは笑みを絶やさないまま続けた。

「ところで、同じ研究室に銀狼の部族のレティシア・ブリューゲル嬢が居ると耳にしたのだが」

「はい、同じ学院生です」思わぬ方向に話が進んだのでフィルは少し慌てた。「彼女も非常に優秀な魔術師です」

「らしいね。学舎にいたときから評判になっていた。人格的にも申し分ないと」

「はい。僕はあまり学院に詳しく無いので、彼女に色々助けて貰っています」

「そうか。彼女とは友人といって良いのかな?」

「はい。少なくとも、僕はそう思っています」

 彼女から見たら自分はどんな存在なのだろうか、とフィルは少し考えた。アリステアの研究室に配属された経緯の所為で、最初は良くない印象を持たれていたように思う。しかし魔術の勉強や妖魔退治で時間を共にした甲斐あって、最近は対応も柔らかくなってきた気がする。

 ロイクは一つ頷き、それからおもむろに切り出した。

「実は来週、ブリューゲル家のパーティーに呼ばれているのだがね。君にも出席してもらえないだろうか?」

「……え?」

「名目上は私の付き人としてだ。特に何もしなくて良い。服とか必要な物があればこちらで手配する」

「ええと……」

 若長の意図が判らず、フィルは一旦返答を避けた。

 アリステアに関する用件なら、呼ばれた理由は解らなくもない。今まで色んな相手からアリステアについて訊かれてきたし、注目度の高さは身に沁みている。

 しかしレティシアのこととなると話は別だ。いくら族長の孫娘とは言え、彼女はただの学院生であって何ら政治的な力を有しているわけではない。魔術師を志しているのだから、今後ルサンの街を牛耳るような地位を目指しているとも思えない。そんな少女に黒鴉の民の若長が興味を示すような理由が思い当たらなかった。ましてや彼女と顔見知りだからといってパーティーに自分を連れて行くことに意義があるとはとても思えない。

「どうかな?」

「解りました」

 笑みを絶やさないロイクにフィルは頷いた。若長直々の頼みを断ることなど一介の学院生であるフィルには出来なかった。

「助かるよ」

 フィルはまたカップを手に取った。中のお茶は少し冷めていた。ロイクが皿に置かれた菓子に手を伸ばす。フィルも釣られて手を出した。狐色の焼き菓子は人工的に甘かった。

「君から見て、レティシア嬢はどんな人かな?」

「そうですね……」フィルは言葉を選んだ。「素晴らしい友人です。親切ですし聡明です。入学してから学院や街のことだけでなく魔術についても色々教えて貰っています。銀狼の民らしいとでも言うのかとても細やかに指導してくれます」

「君はたしか、彼女の一つ下だったかな?」

「そうです。学院にはあまり同世代の人がいないので、そういう意味でも助かっています」

 フィルはレティシアのことを思い浮かべた。彼女に初めて会ったのは、ブリューゲル家の前を通りがかったときだった。パーティーの途中だったのか白いドレスで盛装していて、それが銀色の髪によく似合っていてとても美しかった。

 異性に対してこんな感想を抱いたのは初めての経験だった。ウィニフレッドや村の女の子たちに対して可愛いと感じたことはある。妖艶な女性に下心を抱いたことだって無いわけではない。しかしレティシアへの感情はそのいずれとも異なっているように思えた。

 しばらくルサンの街についての話をしてからロイクは立ち上がった。話を始めてから小一時間は経っていた。

「今日はとても参考になったよ」

「いえ、こちらこそ……」

 どう返したら良いのか判らずフィルはそう言った。ロイクはそれを聞いて表情を緩めた。

「街に慣れるにはもう少し時間が必要かな」

「そうかも知れません」

 ロイクは扉を開けた。そこには来たときに案内してくれた女性が控えていた。

「では来週を楽しみにしている」

「はい」

 ロイクが差し出した手をフィルは握った。握り返す彼の力が思いの外強かったので、フィルは少し驚いた。

 女性の先導に従ってフィルは屋敷を玄関まで歩き扉から外に出る。振り返って挨拶をしようとしたら彼女も外に出てきていた。首を傾げるフィルを促して女性は門から一歩外に出た。

「フィラルド様はフォクツ様とお知り合いだと伺っておりますが」

「はい、そうですけど」

 フィルの返事に、彼女はにこりと笑顔を浮かべた。引き込まれそうな程に魅力的だった。

「大変お手数で申し訳ありませんが、私がお逢いしたいと申していたと、フォクツ様にお伝え願いませんか?」

「あ、はい……」

 フィルは曖昧に頷いた。若長の屋敷で働いていると言うことはこの女性もそれなりの血筋の娘だろう。そのくらいはフィルにも見当がついた。立ち居振る舞いも気品があって堂に入っている。ロイクの奥方だと言われてもすんなり信じられる程だ。

「あの、フォクツが何かしでかしましたか?」

「いいえ、とんでもありません」

 彼女はそう言って眼を細めた。優美な女性らしからぬ異様な殺気が感じられた。

「何もなさって頂けないのです」

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