銀の蛇

aoiaoi

第一話

 美しい月夜だった。

卯吉うきちは、暗い山道を急ぎ足で歩いていた。



 この山には、古くから不吉な噂があった。


 ——月のない暗い晩に、この山を決して越えてはならぬ。

 暗い夜にこの山へ入った者は、二度と村へは帰ってこぬ。



 山の麓の村で畑を耕し、生活を営む卯吉にとって、この言い伝えを守るのは難儀なことだった。

 街へ出るには、山を越えなければならぬ。

 山を通れないとなれば、麓の道を選ばねばならない。それは大きな回り道だ。

 山道ならば街まで一日で済む道のりが、丸二日はかかることになる。


 それでも、卯吉は村の老人達が口々に話すこの言い伝えを守り、山に入るのは必ず日の高いうちと決めていた。



 だが——

 この言い伝えを律儀に守ってはいられないできごとが、卯吉に起こった。

 卯吉の妻のかやが、病にかかったのだ。

 茅は、卯吉とは幼い頃からの幼なじみで、気立ての良い女だ。昨年、卯吉のもとへ嫁入りをしたばかりだ。

 いつも明るくかわいらしいこの妻が、ひと月ほど前に少し咳をしたかと思うと、病はみるみる重くなった。


 今では青白く痩せ、苦しげな息をつき、床から頭を上げることもできない。

 卯吉の必死の看病も、茅の病を癒すことができない。


 卯吉は、薬を探しに街へ出ようと思い立った。

 必要な銭を何とか工面し、街へ向かう準備を整えた。


「——あなた」

 茅が、苦しい息の下から呟く。

「どうか、無事に帰ってきて…それだけが、私の願いです」

「分かっている。必ず、病を治す薬を手に入れてくるから、待っててくれ」


 ある秋の早朝。卯吉は、近くに住む婆に茅の世話を頼むと、街へ向かって出発した。



 気味の悪い噂のある山も、朝は爽やかだ。朝靄が薄れるにつれ、紅葉が美しく輝き出す。

 しかし卯吉には、そんな景色に心を動かす余裕などない。

 村の老人の話では、街には腕の立つ医者がいるという。そこで茅の病状を伝えてみよ、という助言を得た。

 草深い細道を踏み分ける一歩一歩が何ともじれったく、気は急くばかりだ。

 卯吉の心は既に山の向こうの街へと飛んでいた。



        *



 その日の夕刻。卯吉は街へついた。

 灯を点し始めた家々や宿屋の明かりで、道はほの明るく照らされている。

 道を行く人に医者の家を聞きながら歩く。腕利きと言われるその医者の家は誰もが知っており、行き着くまでにはそれほど苦労はしなかった。


 「こんな時間にあいすみませぬ。妻が病に苦しんでおり、良いお薬を頂きたくて、山向こうの村より尋ねて参りました。卯吉と申します。——どうぞ、妻をお助けください」

「それは遠くから……もう仕事じまいにするところでしたが、奥様の様子が思わしくないご様子ですね。お上がりください。お話をお聞きしましょう」

 医者は、快く卯吉を迎え入れてくれた。


 卯吉は、茅の症状を詳しく説明した。

 それを聞いた医者は、しばらく考えてから、難しい顔で呟いた。

「それは、恐らく——流行病はやりやまいが胸の奥深くへ入り込んだものでしょう。

 普通なら咳が止まれば治ってしまうものですが……胸の深い場所へ一旦進んでしまうと、途端に厄介な病になるのですよ。

 幸い、私はその病によく効く薬を持っています。……ただ、少しでも早く、奥様にお薬を飲ませなければいけません。

 その様子では、病はだいぶ進んでいるようだ。——一刻を争いますぞ」

「ありがとうございます!——では、すぐにでも家へ戻らねば……」


 医者の家を出れば、外はもうすっかり夜の闇に包まれている。


 卯吉は、祈る思いで夜空を見上げた。


 ——月だ。

 今夜は、雲ひとつない明るい月夜だ。

 これならば、今夜山を越えて家へ帰れる。



 卯吉は、薬を懐へしまうと、そのまま休むこともなく家へ向けて歩き出した。

 


        *


 

 卯吉は、暗い山道を急ぎ足で進んだ。

 月明かりに縋るような思いで。


 山の中は鬱蒼とした木々に包まれ、夜の冷気が少しずつ身体を覆う。

 しかし、明るい月が、木の葉の間から卯吉の行く先を仄かに照らしていた。



 早く、家へ。

 茅のもとへ——。

 それだけを考えながら歩いていた卯吉の目に、何か白い影が映った。


 細道を少しそれた木立の中に——何かがいる。



 ——同時に、今までひとひらも見えなかった雲が、どこからともなく涌き出し、急に月を覆い始めた。


「月が、急に——何故」

 そう呟いた卯吉に、白い影が呼びかける。

「——旅のお方。

 どうか、助けていただけませんか。——うっかり足を滑らせ、くじいてしまったようで——大層難儀をしております」


 鈴を鳴らすような、儚げな美しい声。

 木に凭れるようにしてこちらへ助けを求めているのは——輝くような青白い着物姿の、月のようにほっそりと美しい娘だった。

 ひんやりとした夜風に、長く艶やかな黒髪がさらさらとなびく。


 少しでも早く村へ戻りたくて気がせく卯吉だが、怪我をした若い娘をこんな夜の山中に置き去りにするわけにはいかない。


「私は、この山の麓の村に住む卯吉といいます。村までしかお連れすることはできませんが…そこまでなら、山道をお手伝いしましょう」

「ありがとうございます。なんとお礼を申し上げたら良いか…」


 そう言って卯吉の顔を見た娘は、一瞬はっとしたように息を飲んだ。

 そして——花の蕾が開くように艶やかに微笑んだ。


 しかし、それも今の卯吉には見えていない。心の中はただ、一刻も早く家へ帰り着くことだけだ。


 卯吉は、娘を負うと立ち上がった。

 その身体は驚くほど軽く、背に伝わる感覚はひんやりと冷たい。

 夜の山中で身体も冷えきってしまったのかもしれない。

「では、行きましょう。あんなに明るかった月が、急に翳ってしまいました。 ——急いだ方が良さそうですね」

 卯吉は、自分自身にも言い聞かせるようにしながら、疲れた足をひたすら前に進めた。

     


 背の娘は、静かに黙ったまま何も話さない。

 眠ってしまったのだろうか。

 それも、卯吉には好都合に思えた。村への足がはかどるからだ。


 もう間もなく、山の頂辺りだろうか——。



 黙々と歩いていた卯吉に、眠っていたはずの娘が不意に話しかけた。


「卯吉様——わたしを、あなたの妻にしてくださいませんか」



 突然の娘の言葉に、卯吉の歩みが思わず止まった。

 驚きで、すぐに返事をすることができない。



「——今、なんと言ったのです?

 私は、あなたの名前さえ知りません。つい先ほどからあなたを背負って歩いている、ただそれだけの男に……一体何と?」

「私の名は、はつと申します。

 私を、あなたの妻にしてほしいのです。

 あなたは、とても美しい——そして、私の大切なひとに、生き写しなのです」

「大切なひと——?」

「私の夫だったひと。それは優しくて、美しくて——。

 あなたはまるで……夫が目の前に戻って来たよう」


「そのひとは…今は?」

「死にました。……いいえ。殺されました。

 あなたの村の男達に」



 卯吉の背に、ぞっと寒いものが走った。



 卯吉は、恐ろしさで震えそうになる声を何とか押さえつけながら、答えた。

「——それは、どれほどお辛かったことでしょう。

 私の村の者が、酷いことを——どうか、お許しください。

 けれど……あなたを妻にすることは、私にはできないのです。——私には、既に妻がおります。心から愛する妻が」


「卯吉様——悲しみで裂けてしまいそうな、この私の心を…助けてください。…どうか、お願いします」

「……どんなに頼まれても、これだけは——」


 卯吉がそこまで言うと、初は黙った。

 そして、それきり口をきかなくなった。


 卯吉も、それ以上初と言葉を交わすことが空恐ろしく——声を失ったかのように黙りこくった。



 何かに追い立てられるように、卯吉はそのまま足早に山道を進んだ。



 恐怖を払いのけながらひたすら歩くうちに、ふと、初の重みがずしりと身体にのしかかっていることに気づいた。

 首に回された腕も、先ほどの軽さとはうって変わって、ひんやりと重苦しく喉元を圧迫する。

 自分の疲労のせいだろうか?

 それとも、初の体調に何か異変でもあったのだろうか——?



 黒い雲が、月を覆い隠そうとしている。  



「——初さん?」

 肩越しに、その様子を見ようと振り返った卯吉の目に映ったものは——


 自分の首に身体を巻き付けた、銀色に輝く大蛇だった。





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