*お前の価値はいかほどか
──次の朝
「お前ら、しっかりやれよ!」
ドルドラムを無事に抜け、ネドリーは船員たちに声を張り上げた。海の男よろしく、「おうさ!」と威勢の良い声が船長に返ってくる。
「やれやれ。これでギュネシアに行けるというものじゃ」
「そんなに簡単にいくのでしょうか」
細めたアメジストの瞳に、シレアは海鳥が飛ぶ向こうの空に視線を送る。
アレサが気に病むのは当然だ。ただでさえ危険な旅に見えない敵がいるのだから、一つが済んだからといって安心はしていられない。
なまじ先詠みの能力があるせいなのか歳のせいなのか、もしくは古の種族の性格なのか。ユラウスはやや緊張感に欠けているようにも思われた。
それについては、年の功とでも考えておく。
──船は順調に進み、昼近くになって部屋のドアが叩かれる。
「うおーい。飯だ」
ガタイの良い男が木製のトレイに乗せた食べ物を差し出した。思えば、食事が出る渡航船は珍しい。
基本的に自費で持ち込まなければならないのだが、ネドリーという男は存外に親切だ。
「おお、待っとったぞ」
「カッチカチのパンをか?」
「スープは美味い」
「まあな。コックだけは自慢だぜ」
バケットとスープを受け取ろうとユラウスが手を伸ばしたとき、船がガクンと大きく揺れた。
「なんじゃ?」
「何かがぶつかったような衝撃ですね」
「じゃあ何かがぶつかったんだろう」
しれっと応えた青年に目を丸くして二人は互いに見合い、急ぐように甲板に向かう。
「一体、なにがあっ──なんじゃこりゃ!?」
視界に飛び込んできた光景に、ユラウスは思わず声をあげた。
それは伸縮性に富み、甲板の上と言わず、あちこちから船員や客たちに攻撃をかけていた。
それはあたかも、爬虫類の舌のように自在に動き、そこには丸い何かがずらりと付いている。
「
「クラーケンだな」
「海の魔物じゃとう!?」
ぬめった巨大な腕と触腕がびったんびったんと船を叩き、ギシギシと船体を締め付ける。並んだ吸盤にはびっしりと鋭い歯が生えていて、それを見ただけで震えが来た。
船員たちは、なんとか船を守ろうと剣を手に応戦するものの、虫ピンほどのダメージもないように思える。
「おい! こいつをなんとかしてくれ!」
アレサたちを見つけた船長は悲痛に叫ぶ。腕の大きさだけで、船底に張り付いている胴体は船と同じかそれより大きいと予想がついた。
「船が壊されたらたまらんわい」
ようやく我に返ったユラウスが魔法を唱え始める。これだけ巨大な相手には、上級魔法で対抗するしかない。
シレアは向かってくる触手に刃を走らせた。
「ぬ──?」
しかし、粘液に覆われた分厚く柔らかい皮膚は、剣の刃などものともしない。
「気持ち悪いのう」
表面の色がめまぐるしく変わり、脈打っている。警戒色とでもいうのだろうか、これが普通のイカならの話だが。
「二本は変形しているな。
「そんなこと今はどうでもいいわい!」
この状況をちゃんと把握しているかとシレアに問い質したくなる。それとも現実逃避をしているのか、逃げたい気持ちは解らなくもなかった。
「これはどういうことです」
アレサは弓を手に船長の背後に回る。矢を解き放つも、巨大な腕に
「どうやら、相当シレアを気に入ったらしい」
「どういう意味じゃ!」
上級魔法では一つ放つのに時間がかかりすぎると、ユラウスは中級魔法を繰り返す攻撃に張り替えた。
「この船を沈めて、あいつを連れていくつもりだ」
「なんじゃと!?」
言われてみれば、怪物の腕は確かにシレアを執拗に狙っているようにも見える。
強靱な腕とはいえ、こちらの攻撃がまったく効いていない訳でもないらしい。シレアに絡みつこうとしながらも、剣の前に躊躇いがちに
「まったく。あんたたちの連れはなんてぇ厄介なことをしてくれるんだ」
「彼を指名した人間がよくも言う」
「悪かったよ。こんなことになるとは露ほども思わなかったぜ」
シレア自身を捕らえる事が無理ならと、クラーケンは船の破壊を優先した。こちらの攻撃はもはや無駄としか言いようもない。
おもむろに低く、くぐもった声が船上に響き渡る──その方向に目をやると、剣で攻撃を受け流しながらシレアが何かを唱えていた。
それを目にしたユラウスとウィザードたちが続いて唱える。
ほぼ同時に一同が唱え終わると、腕のあちらこちらから大きな爆発が起こった。巨大な腕はその痛みからか、びくりと強ばる。
攻撃が効いたのかと思った瞬刻──
「シレア!」
怪物の腕が一斉にシレアに襲いかかる。これだけの攻撃を剣で受け止めることは不可能だ。
「──っ」
シレアは覚悟を決めたが、腕は何故か彼のすぐ手前でぴたりと動きを止めた。
いぶかしげに見つめていると、腕はするすると静かに海の中に消えていき、まるで何事もなかったかのように凪いだ波の音だけが残された。
「なんだ?」
「どうなってんだ?」
一同は呆然と立ちつくし、互いに顔を見合わせる。ただ一人、シレアだけは複雑な表情を浮かべていた。
とりあえず落ち着いたところで船室に戻り、食べ損ねていた昼食に手を伸ばす。点検が終わり次第、船を進めるそうだ。
「一体なんだったのじゃ」
冷めたスープと硬いパンに顔をしかめる。
「クラーケンに襲われて無事でいられたのですから、良しとしなくては」
「あんな怪物、これからも願い下げじゃ」
憎らしげにパンを噛みちぎる。ふと、シレアの浮かない表情に眉を寄せた。
「いかがした」
「なんでもない」
「さすがのおぬしもびびりおったか」
嬉しそうに言い放つユラウスを尻目に、アレサは目を眇めた。
クラーケンはあのとき、シレアを捕えられたはずだ。なのに、そうしなかった。あれはまるで、何かに怯えるように慌てて退いたかのようだった。
アレサは改めて、シレアが何者なのかを思案した。
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