*甘い口づけ

 エアエレメンタルの召喚を確認したシレアは、ひとまずの溜息を吐く。

「船長はかじを」

「おおっと、そうだったな」

 ネドリーは慌てて船の後方にある舵を目指した。

 その背中を見やり、手を挙げる。ウィザードたちはそれを合図にして、一斉にエアエレメンタルをそれぞれの帆に向かわせた。

「──お? おお!? 少しずつだが動いているぞ!」

 今までにない舵の感触が妙におかしくて、変な笑いが突いて出る。

「このまま頼む!」

 ネドリーの声に、魔法使いウィザードたちはエアエレメンタルへの指示を続けた。思いのほか上手くいった試みに喜びを隠せないが、長時間これを続ける事は無理だろう。

 魔法は魔力マナと共に精神力を費やす。上級であればあるほどその消耗は激しく、集中力も薄れてゆくため魔法の継続は難しくなる。

 魔法を使える者が多くいたならば、交代しつつ続けられただろう。だが、これだけの数ではさすがに無風帯ドルドラムを抜けるまでには至らない。

 案の定、しばらくしてウィザードたちは体力、精神力共に使い果たしたのか疲労により肩で息をしていた。むしろ、ここまで粘ってくれた事に驚く。

 彼らも一度は試してみたかったのかもしれない。シレアは各々に船室で休むようにと礼と共に告げ、このくだりは終わった。

「いや~、魔法ってのはやっぱすげえな」

「スプーンやフォークのように扱えればな」

 苦言を呈するように応える。

 魔法は確かに便利だ。だけれども、そう易々やすやすと扱えるシロモノではない。小さなものならば簡単と言っても構わないだろう。

 しかし、その効果が大きければ大きいほど術者の負担は増大し、それは時として己に返ってくる。

 戦士が使いこなせない武器を扱うのと同じで、いき過ぎた力は身を滅ぼすことになる。

「無風帯はあとどれくらいだ」

 傾きかけたオレンジ色の太陽に目を細め船長に問いかける。

「まだまだ続くぜ」

 ネドリーの笑みにシレアは肩をすくめた。

「打開策はあるんだがね」

「ほう」

 どうして今まで黙っていたのかと言いたい気分ではあるが、それだけの理由がありそうだ。

「今日は疲れたろう。ゆっくり寝ろ」

 労うようにシレアの肩を軽く叩き、船長室に続く扉を開いた。



 ──朝、ネドリーは上着のポケットから乳白色に輝く真珠を取り出すと、それを凪の海にぽいと放り投げた。

「これであいつらが来る」

「あいつら?」

「ちょっとしたもんで、その褒美に船を進めてくれる種族がいるのさ」

 怪訝な表情で見つめるシレアに得意げな顔を見せた。それに海をのぞき込む。

「海の種族?」

 いくつかに区分けされている海域を、それぞれに支配している種族がいることは知っている。しかし、彼らはあまり他の種族との関わりを持たない。

 そのため、シレアはその種族について多少、知ってはいても会ったことはない。想像している種族が来るのかと期待をしつつも、船長の言葉がどうにもひっかかって素直には喜べずにいた。

 因みに、エナスケアとギュネシアに挟まれた海域はサジステナル海と呼ばれている。そのなかでも、大陸と大陸の間の中央付近を流れる激しい海流はCrazy hogクレイジーホッグと船乗りのあいだでは呼ばれていた。

「お出ましだ」

 船長の声に身を乗り出すと、海面にいくつか得体の知れない生き物の頭が浮いていた。シレアは初めて見るその姿に口元をほころばせる。

 海から飛び出している顔はどれも美しく、色とりどりの貝殻で作られた髪飾りが彼女たちのあでやかさを嫌味なく表していた。

「マーマンか」

「マーメイドって言えよ。相手は女性だぞ」

 海を統べる種族──人魚はさほど強い種族では無いが、人間と同じように武器を持ち魔法を使える。

 上半身は人間とあまり変わらない。しかし、彼らの首にはエラがあり、両手指の間に水かきを持ち眼球には白目がない。

 最も特徴的なのは、下半身が魚の尾というところだろう。この海域の人魚は鱗を持つ種類らしい。

 他の海域にはイルカのような肌だったり、マーマンは半漁人の種族もいる。

 戦士は主に男、ウィザードは女が多い。それだけでなく、彼らは海の生物をも操ることが出来る。そういう意味では、海の中で彼らに敵う者はいないだろう。

 なんにせよ、伝え語りでしか知る事のなかった種族との遭遇は旅の醍醐味だ。

「彼女たちに頼めば、船を動かしてくれるってわけさ」

 気楽に言っているが今まで黙っていたというのは怪しいにも程がある。

「まあ、少しの報酬を払わなきゃいけねえが」

「ほう」

 やっと切り出した。

「彼女たちは美しい男が好きでな。口づけを与えれば、その代償に大抵のことは引き受けてくれる」

「……ほう?」

 嫌な予感がする。

「そこで、だ」

 ネドリーは鼻を鳴らし、シレアに向き直る。当たってほしくもない予感ほど当たるものだなと、ネドリーと目を合わせた。

「言いたいことは、大体わかってるよな」

「素直に乗せたのはそういう理由か」

 船代をふっかけてくる気配が少しもなかったことが不思議ではあったけれど、なるほど。

「まさか自覚が無いとか言うなよ」

 もちろん無い訳ではない。周りの反応に否が応でも自覚させられる。彼はナルシストになる気などありはしないし、むしろ自分の容姿に興味など無い。

「いつもはどうしていた」

「あーその、なんだな」

 言い出しにくそうに目を泳がせる。

「ジャンケンで負けた奴がな」

 彼女たちは、とりあえず報酬としての口づけが欲しいだけのようだ。まごついていても先には進めない。シレアは仕方が無いと肩をすくめて船のへりに乗った。

 そうして人魚たちは、海に飛び込んできた人間の容貌を各々が確認する。

「おー。やっぱり大人気だ」

 瞬く間に囲まれ、次々に口づけを求められているシレアを見下ろす。

「まったく……。そんな理由で我々を乗せていたとは」

 アレサは呆れて溜息を吐き出した。

「シレアも不運が続くのう」

 ドレスの次は人魚との口づけか。

 彼らに金銭など意味もなく、当然のごとく興味もない。彼女たちが望むものは、人間にとってはあまり価値のないものだろう。

 とはいえ、美しい種族と口づけが出来るのだと考えれば、それはそれで価値のあるものかもしれない。

「羨ましいことだ」

「まあ、初めはそうかもしれねぇな」

 ぼそりと船客がつぶやいた言葉にネドリーは苦笑いを浮かべる。アレサはそれに眉を寄せた。

「初めは?」

「俺だって男だ。喜び勇んで海に飛び込んだね」

 冷たい唇は人間の女性と同じく柔らかく、間近に見る美女の顔に表情も緩むというものだ。

 しかし回数を重ねるにつれ、それも億劫おっくうになってくる。それにも増して、口づけから先に進むことなど何一つない事実に気が滅入る。

 男にとってそれは酷でしかなく、それ以上のことを想像しても下半身は魚だ。たちまちに萎えていく。

「マーメイドのウィザードは人間に変身出来ると聞いたが」

「そこまでしてくれりゃいいけどな。生憎と口づけでしまいだ」

 まあ、そこで終わってくれねえと、怖いもんが待っているけどな──そんな言葉を口の中でつぶやいた。

「お? 終わったようだ。上げてやれー」

 手を振って早く上げろと合図しているシレアに手を振り返す。

「ご苦労さん」

「言ってくれる」

 しれっと言ってのけるネドリーに呆れ、海水でずぶ濡れになった服を早く脱ぎたいと顔をしかめる。

「あんたのおかげでドルドラムから抜け出せる」

 船長が嬉しそうにシレアの手を握る。しばらくして、船がゆっくりと動きだした。

 相変わらず風はそよりとも吹かないが、船は何かに引っ張られるように徐々に速度を増していった。

「こいつは凄いのう」

「実際は人魚が動かしてるわけじゃなねぇらしい。海のモンスターを使っているとか」

「海のモンスター?」

「ああ。どんなモンスターなのかは知らねぇがな」

 これだけの船を動かせるモンスターとはどんなものなのかと、シレアたちは互いに顔を見合わせた。

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